第909話 壁の魔法騎士とエイドリアン
【前回のあらすじ】
壁の魔法騎士暴走。
ともすると、鬼を宿した騎士はその呪いに振り回される宿命にある。
あの男騎士でも意識を保ったまま、十全にその力を使うことは難しい。人の身には過ぎる力の奔流に押し負けて、自分を見失うような事態になることは珍しくない。
今回、六つの鬼の魂を相克させて、その身に一時的に宿らせるという術を使った壁の魔法騎士。その呪いは、陰陽の術により弱められ彼の制御下に入るはずであった。
しかしながら、蓋を開けてみれば――予想外の
やりたい放題の暴走特急。もはや、止まることなきパンチの鬼と化した壁の魔法騎士は、まるで食肉加工場につるされた牛肉を相手に拳を打ち付けるが如く、めっためったに氷を破壊して、冬将軍をついでに撃破して進むのだった。
敵を倒してもなお、止まることなき壁の魔法騎士。
もはや決着はついた。
これ以上の暴走は不要。しかし、止まるに止まれない。
完全に、彼は鬼族の呪いに取り込まれてしまったのだ――。
「……ひっ、だ、誰か、誰かゼクスタントを止めるんじゃ!!」
弟子の身を案じ、敵だった冬将軍が叫んだその時だ。
「ここよ、
「……エイドリアン?」
謎の声が、鬼と化したゼクスタントに声をかけた。
◇ ◇ ◇ ◇
亜麻色の髪をした女だった。
凜とした顔立ちの奥底に確かな知性を感じさせる顔つき。そして、子の親である女だけが持っている温かくも強かな気配。その圧倒的な母性に、思わずその場に居た誰もが言葉を無くした。
その女を、壁の魔法騎士も冬将軍も知っている。
つい先ほど妖怪の手によりその幻を見たばかりである。いや、もちろんその時見た幻と今見ているそれは違う。雪女のメッテルのそれは、形ばかりを取り繕って内実を伴わないものであった。
けれども、今、彼らが目の前にしている存在は違う。
あきらかに形だけを取り繕ったものではない。
彼女が本当にその姿の持ち主――つまりは、壁の魔法騎士の妻であることは、その身に湛えている雰囲気や柔和な顔つきから明らかだった。
なにより――。
「えっ? 誰? いったい誰なの? どうしてここに部外者が?」
彼女に化けている――というより見えている、雪女が遠くで狼狽えていた。
その存在の突然の乱入に驚いていた。
はたしてそんな中、亜麻色の髪の女はゆっくりと壁の魔法騎士に近づく。パンチの鬼。もはやマダ○の欠片すら見つけ出せないほどに様変わりした彼に近づいて、亜麻色の乙女はそっとその頬を撫でる。
なにやら小刻みに震える鬼。
はたしてその心に去来するのはどのような感情か。
それをまるで分かっているとばかりに愛しげに抱きしめ、女はゆっくりとその背中を叩くのだった。
「大丈夫。もう大丈夫よゼクスタント。もう貴方は闘わなくていいの」
「……エ、エイドリアン?」
「エイドリアンじゃないわ。もう、私のことを忘れてしまったの?」
「……ユ、ユリドリアン?」
「惜しい」
「……ユ、ユリィ? ユリ……ユリィ!!」
鬼の瞳から涙がこぼれ落ちた。途端、その身体から鬼の瘴気が立ち上ると、六つに分かれて宙を舞った。ゆらゆらと揺らめいてそれは、壁の魔法騎士が呼び出した巌へと戻ると、再び封じ込められる。
そして、瘴気が抜けた壁の魔法騎士――その身体は、元の中年おっさんに戻っていた。そしてその瞳にも正気が戻っていた。
信じられない物を見ている。そういう自覚はあった。
壁の魔法騎士は、目の前に居る女のことをずっと思い続けてきた。
もはや今生、会うことはできないだろうと知りながらも、それでも、一途に思い続けてきた。誰のためでもない。罰でもない。ただただ、それほどまでに深く愛し、そして、どうしても忘れられない女であった。
ユリィ。
それは、彼の妻の名。
そして、男騎士の姉の名。
「どうして、君がここに?」
「勝負は終わったわ。これ以上、このフロアで貴方が傷つくことはない。そう判断したゲルシー様が、貴方を止めるために特別に遣わしてくれたの。感謝しないとね」
「……ゲルシーさまが?」
「あのまま暴れていたら、この怪奇メフィス塔を倒壊させかねなかったから、緊急措置って奴ね。もう、ダメよ貴方ってば。もうちょっと周りを見ないと」
「……すまない」
「けど、そのおかげでこうしてまた会うことができたとも言えるわね」
ここは冥府。死んだ者達が暮らす海底都市。
どうしてそんな場所に居て、こうなることを想像できなかったのだろうか。あるいは、その可能性を考えられなかったのだろうか。
まだ生きている師ともこうして巡り会ったのだ。
既にこの世に居ない、愛しき妻と巡り会うことも充分にあるだろう。
壁の魔法騎士としても考えなかった訳ではない。むしろ、敵として――○金闘士として出て来た時には、どうしようかと不安に思ったくらいだ。
けれども、まさかこんな形で再会することになるとは。
「本当に、君なんだな、ユリィ」
「えぇ、ゼクスタント。貴方があの後、どう生きてきたか、ずっとこの海の底から見守っていました。よくゲトを立派に育ててくれました。そして、ティトを再びリーナスの騎士として立ち直らせてくれました。いつも応援していたのですよ」
「……ユリィ!! ユリィ!!」
壁の魔法騎士。
決して人前で見苦しい所を見せない彼が、涙で顔をぐちゃぐちゃにしてその胸に飛び込む。あぁもう、仕方ない人というかんじに、そんな彼を受け止めて、亜麻色の髪の女は、優しくその背中を叩くのだった。
まるで大きな子供をあやすような、そんな優しい手つきで。
ずっと、壁の魔法騎士は彼女に恥じない騎士であろうとこれまでの人生を駆けてきた。彼女との間に授かった息子を立派に育て上げ、男騎士が去ったリーナス自由騎士団を支え、また男騎士を気にかけながら。
その過酷な人生の隣に、妻が共にあってくれたらと何度思ったことだろう。
しかし、彼女はいなくなってしまった。彼と息子を残して冥府へと去った。
その悲しみはあまりにも大きく、筆舌に尽しがたいものがあった。
けれどもそれに屈することなく、決して深く囚われることなく、壁の魔法騎士は己の道を歩いてきた。死んだ妻に顔向けできるようにと、ひたむきに生きてきた。
その道が再び交わる時は、自分の命を失う時だろう。そう思いながらも、愚直なまでに真っ直ぐに生きてきた。
その愚直さに、神が応えたということだろう。
わんわんとまるで子供のように泣き叫ぶ大の大人を、誰もこのとき止めるものはなかった。冬将軍も、彼の妻も、そして、彼の義理の弟も、優しい目で見守っていた。
「がんばったわね、ゼクスタント」
「……よかったのう、ゼクスタント」
「……あぁ、本当にな!! よかったな、ゼクスタント!! そして、久しぶりだな姉さん!! 元気なようでなにより!!」
「ティト」
「……ティト?」
「うん? ティト?」
ふと、耳に馴染みのある声がして、振り返る壁の魔法騎士とその妻。
その視線の先に立っていたのは彼らの
はたして、二人はどうしてか――。
「……お前たち、なんで青白くというかちょっと透ける感じになっているんだ?」
「……ティト、お前、それ」
「……ちょっと、ティト、貴方」
はて、なんのことか、という顔をする男騎士。
その横で、死んだ目をしてすっと手を上げるのは女エルフ。青白く、そして、陰気な感じになった彼女が伸ばした手。その指先には、砕け散った氷の柱が二つあった。
そう、なんだか少し赤みがかった、二つの氷の柱が。
「あれ、私たちです」
感動の再会から一転、ひゅっと小気味よい音が壁の魔法騎士の喉を抜けた。
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