後世の評価 織田信長

 織田信長 

 戦国時代の武将、大名。言わずと知れた戦国時代もっとも有名な人物である。

 18歳の時織田家の家督を継ぐと、反抗する同族や国人を打ち破り尾張を平定する。それまでも今川氏との抗争が続いていたが、桶狭間で当主義元を討ち取る勝利を掴んだ。のち三河の松平氏との和睦を経て美濃攻略を開始する。有能な部下を縦横に使いこなし、8年をかけて美濃を攻略すると、足利氏の一門、義昭を擁して上洛を果たす。

 上洛後は義昭を将軍に就け、足利将軍を奉じる事を大義名分とし、畿内の平定を進める。本願寺や武田氏との抗争により、包囲網を敷かれるも辛くも打ち破った。特に三方が原の戦いでは佐久間信盛が見事に殿軍を勤め、武田勢を重深陣に引き込み、十字砲火によって追撃部隊を撃破した。追撃部隊の先鋒は四郎勝頼であり、彼の戦死が信玄に多大な心因的重圧をかけ、その命を縮めたともいわれる。

 武田信玄死後は朝倉氏を滅ぼし、畿内の対抗勢力を次々と滅ぼす。長島願正寺を攻め滅ぼしたときは、内部に密偵を多数送り込み、内部崩壊を誘った。また柴田勝家を信濃に派兵し、南信濃を制圧、奪還に動いた春日虎綱を佐々成政の構築した野戦陣で撃破に成功する。これによって北信濃の真田氏が降伏し、武田の衰亡は極まった。甲斐で内部分裂を始めたところに、ひそかに保護していた武田太郎義信を派遣し、正統な後継者を擁することで現地の土豪を平定した。

 本願寺包囲は海上からの補給を断つことが命題とされた。信長は九鬼嘉隆に命じ、鉄張りの軍船を作らせ、毛利水軍の得意とする焙烙玉の攻撃を防がせた。大鉄砲などで武装した鉄甲戦は毛利水軍を文字通り粉砕し、大阪湾の制海権を奪取した。このころより本願寺の抵抗は先細りになってゆく。

 そんなさなか、越後の軍神が動いた。能登七尾城を囲み、畠山氏が織田に救援を求めてきた。浅井長政を主将に救援軍を派遣するが手取川を挟んでにらみ合いが続く。そのさなかに信長は一軍を率いて美濃から飛騨を経由して、加賀に現れるという大胆な中入れを行った。上杉軍は一軍を派遣し信長の別動隊を攻撃するが、濃密な射撃に阻まれ大損害を受けてしまう。事ここに及び、謙信の隠居によって和睦が成立し、謙信は信長の御伽衆として岐阜に赴いた。越後一国を安堵された上杉家は景勝を当主として織田の配下となった。

 信長は羽柴秀吉を大将として播磨に侵攻させた。播磨、但馬は秀吉によって平定される。織田本隊は紀伊を攻めこちらも平定に成功した。本願寺の反攻の策として、三木城の別所氏が寝返る。呼応して伊丹の荒木村重も織田から離反した。信長は即座に兵を出し、荒木配下の高山、中川両氏を下し、荒木は三木城に逃げ込む。だがすでに荒木も信長に通じており、三木城で内応し陥落の糸口を作った。

 これによって本願寺は完全に孤立し、天正7年に和睦が成立する。門徒は退去し、京都山科に新たな寺領が与えられた。

 秀吉は背後の憂いを解消され、西進する。宇喜多氏が毛利から離反し織田に降った。直家の娘が織田の一門に嫁ぐことで、降伏を認められる。秀吉はそのまま中国地方の平定に向かい毛利氏との対立を深めていった。

 信長は安土に城を築き、京にて正親町の帝を招き馬揃えの興行を催した。これには東西を問わず招待状を出し、次世代を担う若者を見物させた。これは後で功を奏し、伊達政宗、長宗我部信親らが降る一因となる。

 馬揃えの後淡路を制圧し、四国へ圧力をかけると長宗我部氏は土佐一国安堵で降伏してきた。三好氏はすでに抗す術なしとこちらも降伏。毛利の勢力が及んでいる伊予のみ織田の支配下になかったが、三好、長宗我部の連合軍に伊予も陥落した。毛利氏は東と南に敵を抱えており、反抗のきっかけとしようとしていた備中高松の戦で、水攻めに阻まれ備中を失陥した。

 前後して、鳥取、羽衣石で吉川元春が続けて敗れ、毛利宗家の抵抗の意思をへし折ることに成功する。伊予は長宗我部に加増され、九州への備えを命じられた。


 そのころ北条氏政の弟である上杉景虎が越後東部と上野で騒乱を起こした。これをきっかけに伊達、最上両家が織田によしみを通じ、北越後の騒乱は完封状態で平定される。上野は柴田の軍が雪崩れ込み、こちらも瞬殺された。背後にいた北条氏が兵を起すが、東海道筋からは徳川が攻め入り駿河を制圧、伊豆を囲む。上野方面からは柴田、上杉の兵が武蔵に乱入した。相模には甲斐から武田義信が出撃してくる。そして背後の里見、佐竹両氏を味方につけたことで、北条氏は四面楚歌に陥った。

 川越の戦いで北条氏照が柴田勝家に大敗し、北条氏の野戦兵力が壊滅する。また風魔衆が織田に寝返ったことで、小田原城の守りを丸裸にしてしまった。

 北条氏政は降伏し、北条氏は氏政の嫡子氏直が後を継ぎ、相模一国を安堵された。武蔵には徳川家康を上野には柴田勝家を入れ関東の守りとした。

 一方そのころ九州では島津氏が猛威を振るい、大友、竜造寺を破って九州の過半を支配下にいれた。信長は一軍を派遣し大友と竜造寺の救援を命じる。肥前と日向で島津軍を撃破し、島津は降伏して九州平定がなった。

 ほぼ同時期に東北で南部信直が諸豪族を糾合し、東北連合軍を率いて南下を始めていた。織田の嫡子信忠は岐阜より命を発し、関東諸将を糾合して迎撃を行う。この会戦で東北諸将は大敗し四分五裂の状態となった。南部氏も降伏し、ここに天下統一が成った。

 統一後、信長は信忠に後を任せあまり表舞台にでなくなる。幕府の成立も自らは将軍位に就かず信忠を初代とした。唐入りや南蛮の迎撃には相談役として参加はしていたようである。信忠の政権が軌道に乗ったあたりで、完全に官職を返上し、尾張にいて隠居し、その後死去した。


 妻を非常に大切にしており、官職から退いた後は正室の帰蝶と睦まじく暮らしたそうである。宴会などでは、膝の上に妻を座らせ、愛情表現とした。また酔うと妻の名とともに愛を叫ぶ癖があったという。

 武勇に優れ、天王寺の戦では自ら先陣を切って敵中に突入したとされる。また尾張平定戦では自ら敵将を討ち取った記録がある。


統率:99

武勇:81

知略:94

政治:100

スキル:覇王のカリスマ ランクS 部下の士気をあげ、不敗の軍を作り上げる

足軽:S 騎馬:A 鉄砲:S

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