文禄3年正月
文禄3年。正月。
幸いにして信長は意識を取り戻し、それによって不穏な動きは沈静化した。信忠は内心複雑な心境であったが、敬愛する父が回復したことはまた喜ばしい事であった。
「殿、殿、殿…吉法師様! わああああああああああ!」
目を覚ました信長が見た光景は涙で泣き腫らした帰蝶の顔であった。
「おう、帰蝶。そなたは今日も美しいな」
「…今日だけはごまかされてあげます」
「そうか、手厳しいな。まあ、儂はそなたを置いて逝くつもりはない」
「約束…ですよ」
その光景を見守っていた信忠や秀隆はじめ近親者は、口いっぱいに砂糖水を流し込まれていたような顔をしており、とりあえず膝の上の嫁をむぎゅっとやっておいた。彼女らも目の前の光景を見てうっとりしていたようだが、なんだかウルウルしてこちらを見上げてくる。一人もの近習や小姓はまた昏い目つきをする羽目になっていた。
そして地震の爪痕を見た信長は、すぐに状況を確認し、信忠の打った手が迅速かつ的確であったことに大いに表情をほころばせる。無論領民に被害が出たり、死者が出ていることについては心を痛めている。だが、その被害を最小限に食い止めることができたと確信できるゆえの笑みであった。
「奇妙よ。そなたは儂を超える器かもしれぬな」
「その呼ばれ方も懐かしいですな」
「儂はな、生き急いだ。それゆえにとりこぼしたもの、すくいきれなんだものがたくさんある。吉乃も長生きをさせてやれなんだ」
「母上のことは…寿命です。父上のせいではありませぬ」
「うむ。だがなあ、儂は欲張りでな。こんな立派になった奇妙を見せてやれなんだ事が悔しくなってな」
「父上。母は笑って逝きました。天下は取れます。大殿のご武運は末広がりにめでとうございますと言い残して」
「そうか。儂は良い夫ではなかったかもしれぬが、吉乃が笑っていられたならば、儂が逝くときには笑って会えるだろうて」
「母の名は一度自ら変えておりますが、御存じですか?」
「ん? 吉野の桜にちなんだと聞いておる。あでやかな景色が好きじゃったの」
「もう一つ意味があります。吉法師のものであるゆえに「吉」乃であったそうですよ。母に一度謝られました。わたしは大殿のものであるゆえに、お前と大殿を選ぶこととなったら迷いなく大殿を選ぶと。ひどい母で済まないと」
その言葉を聞いた信長ははらはらと落涙した。彼女は全身全霊をもって信長を愛し抜き、生き抜いたのだ。無論愛情は感じており、愛おしくも思っていた。我が子よりも愛しているとの激しい慕情に生前は気づいてやれなかった。それゆえに信長は悔いた。
「父上、私は何よりも母の生きた証です。故に、父上に認めていただいたことは、この上もなくうれしいのです」
信長は無言で信忠を抱きしめた。衣類に焚きしめた香は吉乃が好んでいたものに似ていた。
「昔を思い出す。そなたは行儀作法の時間が終わるとこうしてしがみついてきた。母そっくりの笑顔でな」
「ええ、母上と同じくらい父上が大好きでしたから」
「儂は国が大きくなるにつれて愛想笑いしか見えんようになった。だからだ。そなたの笑顔に救われておった。裏表を考えずともよい相手というのは貴重なものよ」
「弟たちは皆そうです。三七も茶筅も、良き弟です。小牧で、岐阜で、一緒に過ごした日々が私の原点です」
「そうじゃの。そなたらがいがみ合っては儂は死んでも死に切れぬ」
「そうですか、ならばたまには兄弟喧嘩など致しましょうか。そうすれば父上は我らのそばにいてくださるゆえ」
「冗談が過ぎるぞ、奇妙」
「ははは、戯れが過ぎました。ですが、私の、いや、我らが本音にもござる」
「なにがあった?」
「弟たちを担ぎ上げようとする動きがありました。正直父上がお目覚めにならなければ、兵を出す事態になっていた可能性があります」
「伊勢の北畠の残党か」
「ほかにも関東や東北、九州で豪族の蠢動があったようです。家康殿は全く動きませんでしたが」
「ふむ」
「中央を固めはしましたが地震で被害も受けております」
「いっそあぶりだすか?」
「父上?」
「儂が死んだこととすればそ奴らをあぶりだすことができよう」
「ですが…」
「儂の名に傷がつくか? そんなものはどうでもよい。その傷を埋めて余りある働きを見せよ!」
「はっ!」
「うむ、では秀隆を呼べ」
「はい!」
信長、信忠、秀隆の謀議は夜遅くまで続いた。使者が伊勢に飛び、そのあと、全国に知らせが広まってゆく。
すなわち、信長死すと。
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