小田原開城

 天正9年。

 信長、信忠は美濃衆1万を率いて武蔵国、桝形に到着した。現地で戦っていた諸将を慰撫し、その功を労う。特に柴田権六は激賞された。同時に信長の肺活量を最大まで使い切らせた。要は笑いこけていたのである。

「うむ、権六よ。河越で敵軍撃破、見事である。あのいくさで武蔵の趨勢が決まったと言って過言でない。その働き殊勝なり」

「はは、ありがたきお言葉にございます!」

「ときに、おぬしは愛染明王と呼ばれているよう…じゃ…が」

「大殿? なにか?」

「うむ、お主は古つわものとして名をはせておるが、此度の逸話は見事…じゃ…ぶふっ!」

「ぶふ?」

「ぶ…ぷくくくくく、ぶふっ! ぶはははあははははあ! ぬははははははは!」

「儂、何かやりましたか?」

「やったであろうが。敵を陣前にして、嫁の名を呼び、愛を叫んだと…ぐはははははははげほげほげほっ!」

「うぬ、殿は儂の嫁に対する愛を笑われるか!?」

「いや、すまぬ。おぬしは昔から堅物であったからのう。そのなんだ。おぬしの意外な一面を見ておかしくなってもうたのじゃ。馬鹿にしたわけではないゆえ安心いたせ」

「むう、ならばよろしいが」

「うむ、権六よ。叔母上をしっかりと守ってくれて感謝しておる。この通りじゃ」

 唐突に真顔になり頭を下げる信長に権六は慌てる。

「と、殿。もったいのうござる!?」

「まあ、あれじゃ。おぬしが範を示したおかげで兵どもにも嫁を大事にするということが根付いておる。人はのう、やはり家族のために戦うのじゃ。禄だの名誉だのはそれを守る手段にすぎぬ。かという儂とてそうよ。それを素直に出せるほうがやはり強いのだろうな」

「殿…」

「儂は帰蝶を失いたくない。お鍋もじゃ。子供たちも大事じゃし、孫もできた。天下を統べるとか言いながら、本音はそこにすぎぬ。だがな、いかなる大義名分も家族を犠牲にする理由にはならぬのじゃ」

「はっ、権六、今のお言葉を肝に刻みましたぞ」

「ところでな。お主には娘がおったな?」

「はい、おつやに似て気立てがよく、美しくなりました。まこと儂にはもったいない嫁で…」

「御坊丸が間もなく元服じゃ。坊丸を婿入りさせる気はないか?」

「誠にござるか?!」

「戯れでこんな大事な話をするように思われておるとは、儂はおぬしにとってまだ尾張のうつけであるようじゃのう」

 信長は苦笑いする。権六も昔を思い出し苦笑する。敵対していた時があったことを思い出し、同時に人の縁は不思議なものじゃとの思いが笑みにかわる。

「ありがたきお話、受けさせていただきます!」

「うむ、坊丸の諱が今決まった。勝長じゃ」

「柴田勝長ですか。よき名にございます」

「ああ、そうそう、叔母上が男子を産んだら、そっちが後継ぎでよいからな」

「お気遣いありがとうございます。その時は改めて。生まれてもおらぬ子の話はまだできませぬゆえ。ですが正勝には御坊様にお仕えするよう伝えまする」

 正勝とは勝家の養子で、部下の忘れ形見であった。計数管理に優れ、柴田家の兵站は彼が一手に担っている。勝家は彼を跡継ぎにしようと考えていたこともあったが、武勇も人並み以上であるが正勝は戦場に出たがらない。ただその理由は「俺がいなくなったら兵が腹を減らすだろう?」との言いようで、それは全く正しかったのである。

「うむ、どちらであっても子は宝よ。勝長のこと、よろしく頼むぞ」

「はは!」


 各地より招集された軍勢が集まってきた。北陸より浅井長政。伊勢より北畠信雄、神戸信孝。尾張より織田秀隆。駿河より徳川家康。三河より徳川信康。信濃より柴田勝家。甲斐より武田義信。越後より上杉景勝。美濃以東の諸将が集い、軍は合わせて10万以上を数えた。それも農民兵はほぼ含まない数で、常設の軍である。これは農繁期などに関わりなく兵を出せるということだ。北条の兵農分離はまだ進んでおらず、農民兵を動員しにくい春先の戦で、兵力の動員が進んでいない。

 まず、伊豆が陥落した。韮山城は開城し、徳川軍が接収する。下野は上杉軍が向かい、宇都宮、結城などの諸侯の降伏を受け付けてきた。佐竹は悲願の常陸統一を果たした。里見と佐竹は織田を仲介として同盟を結び、共同して下総を攻めとることとなった。この時点で北条の影響力はほぼ駆逐され、北条が保っているのはほぼ相模一国である。

 そして、先鋒となっている柴田が玉縄城を落とし、九鬼と滝川の水軍が三崎城を落とす。同時に九鬼の大安宅が小田原沖に遊弋し、その威容で小田原に籠城する北条の兵を威嚇する。

 織田軍は落とした城の城兵や城将をあえて生かして返し、小田原に送り込んだ。これにより、小田原城の兵站を圧迫することと、内部不和を煽る意図がある。要するに石山に仕掛けたのと同じ手であった。某はほとんど被害を受けていないのは織田に通じているからだ。別の某は裏切って城門を開こうとしているといった風情だ。

 十重二十重に取り囲まれ、開城には巨大な軍戦がにらみを利かせている。そして耳目となるべき風魔衆は裏切った。同時に氏政が気付いた非常にまずいことがある。小田原城の内部が筒抜けになっていることだ。そしてそれは、抜け道から逆行し、侵入された形跡があること。抜け穴の入り口に張り紙がされていること。そしてとどめに、氏政の寝室に直接降伏を促す書状が置かれていたことだ。これは氏政を暗殺しようとすればいつでもできると宣言されたに等しい。今更ながら去っていった風魔衆の存在の大きさに愕然としたのである。

 氏政は降伏した。げっそりとやせ細っており、風魔を使った嫌がらせがいかに彼に心労を強いたかという証左であった。

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