手取川の裏側と甲斐侵攻

 天正5年10月

 軍神、越後の龍と呼ばれた謙信が織田に降伏した。同時に能登、越中が織田の分国に組み入れられることが決定し、孤立無援になることが確定した加賀一向宗は開城降伏した。尾山御坊には筋金入りの連中ばかりが入っていたこともあり、信長は彼らに石山への退去を命じた。逆に石山以外の場所に行くならば処刑するとも伝えている。これは先年秀隆が長島の一向門徒を石山に追い込んだことと意を同じとするが、物資の欠乏が始まっているいま、万を超える加賀門徒が石山に入ることは、嫌がらせ以外の何物でもなかった。

 和睦が成った時点で、七尾城を取り囲んでいた羽柴勢は囲みを解いた。七尾陥落を伝える使者はまず景虎の陣に入って急を告げる。そして景虎の方ら謙信に急報が入るといった次第で、そもそも奇襲になったとはいえ謙信自身が一度攻略を断念している堅城である。そう簡単に落とせるわけがない。後日その話を聞いた謙信は尾張焼酎を舐めながら大笑いしていたという。

 越中魚津城には佐々成政が入った。富山城には一門の浅井亮親が入る。長政は越前では前線に遠すぎると加賀尾山御坊に入った。修築を進め、のちに金沢城と呼ばれるようになる。

 能登には畠山の家門は断絶したため浅井政元が入り長連龍が与力としてつけられた。これにより北陸方面軍として編成される。しかし彼らの任務は長年一揆の暴挙に荒らされてきた国土の復旧がまずは急務とされた。そもそも、上杉家が従属大名として下ったこともあり、即座に戦闘を行うことはなくなっている。

 ちなみに、秀吉が長政に食って掛かった件も、秀隆の指示で兵を分けるための方便であった。人は信じたい情報を信じる。織田の軍内で内輪もめがあったと知れば、それを信じたくなるのが人情である。秀吉の軍は危険を冒して海を渡り、能登へ上陸して七尾を突いた。この一事も謙信を追い詰める一因となった。場合によっては袋の鼠になったのは秀吉軍のほうだったのである。

 信長本隊の奇襲は先年より施されていた飛騨の交通網整備にあった。松倉から白川を抜け鶴来に抜けたのである。山沿いの険しい道も多かったのであるが、それでも5000近い兵を鉄砲を持たせて踏破したのは後世のナポレオンのアルプス越えに匹敵する難事であったともいわれる。


「そういえば、佐渡には金山がありましてな」

「ほう?」

「そこから出た金は織田の金蔵に入りますが、そのうえで上杉家に命じます。越後国内の開発を行い、湿地の埋め立てと感慨で水田を拡張するのです」

「秀隆殿、それはいかなる?」

「上杉が関東に出張るは、人さらいで奴隷を売り飛ばさねば民を食わせられぬ。ということでよろしいか?」

「義を公言しておってもそれが越後の実情にござる」

「なればじゃ、なおさら開拓をして越後の国力を底上げしていただきたい」

「その増えた力で、儂が反旗を翻したらなんとしますかの?」

「真っ向から受けて立ちますよ。開拓事業に何年かかると? そのころまで不識庵殿が戦場に立てるかどうか…」

「はっきり申しますなあ。だが天下泰平の祝いにうまい酒を飲めればわしはその日死んでもよいと思うております」

「人相手の戦のほうが楽かもしれませんぞ? 大自然はことさらに手ごわい」

「はっはっは、なればこそやりがいがあるというもの」

「そういっていただけるならば頼りがいがある」

「ふむ、秀隆殿。儂の頼みを聞いていただけますかな?」

「なんですかな?」

「なれば、喜平次とその腹心の与六を貴殿のもとで修業させていただきたい」

「与六とはあの喜平次殿の前に立ったうちの武者を追い返した豪胆な少年ですか」

「おう、場合によっては儂の養子にしたいほどですな」

「ああ、そうそう、忘れておりました。不識庵殿には当家より妻を娶っていただくので、そのおつもりで」

「なんですと!?」

「問答無用です。毘沙門天も嘉し給うでしょう」

「いやあのその…」

「さすがに永禄のころの病は治っておりましょう?」

「なななななな」

「なんでそのことをと?私の情報網としか言えませぬ」

 謙信の顔が絶望に歪んだ。永禄5年、信長の上洛直後に、謙信も上洛したが、その際に遊女に病気を移されたのであった。それが尾を引き、妻を娶らないと言い張ってきたのである。

「あと尾張焼酎の出荷量は私の権限でしてなあ」

「ぅわかりましたぁ! 何なりとお申し付けくださいいいいいい!!!」

「いやあ、不識庵殿は良き武士だ。何とも潔い」

「第六天魔王の弟は魔王であったか…」

「なにか?」

「ナンデモアリマセン…」


 越後の開発計画を直江景綱と話し合い、酒も直江に預けると宣言して秀隆は越後を発った。酒の件で、改めて謙信は秀隆を涙目でにらんでいたが、出荷量の話をすると直立不動で首肯する姿を見て満足げにうなずいていた。

 与六は直江景綱の養子に入ることが決まった。喜平次は謙信の猶子であり、謙信の後継者候補であったが、広い世間を見てくることを命じられ、秀隆の馬廻となった。


 一方そのころ、甲斐の国。

 穴山はすでに失脚し、信廉と信豊の間で骨肉の争いが繰り広げられて…いなかった。そもそも内戦になった時点で伊那から義信の軍が雪崩れ込んでくる。生き残りをかけてそれぞれに義信のもとに従属の使者を出している始末であった。

 義信としては生まれ育った故郷を戦火にさらすは本意でないとして、徐々に侵攻を進めており、父のもとで戦っていた将たちを引き込むことに腐心していた。そしてある大物が義信に降ってくる。山県三郎兵衛昌景である。

 11月初め。義信は上原城を発ち、甲斐に侵攻した。若神子の陣は内部から崩壊した。北条の援軍も蒲原より北上したが、別動隊の柴田、前田勢に敗れる。それと時を同じくして岩殿の小山田が寝返る。退路を断たれ、躑躅館は孤立無援となった。

 信廉は切腹して果て、信豊は北条を頼って落ち延びたが、小山田勢に見つかって捕らえられた。降ることは拒否されたので、義信は自らが幽閉されていた寺に預けることとした。身内を切ることができない甘さもあったが、甲斐の民には好意的に受け入れられたようだ。

 織田の政策として、地侍を土地から切り離し、銭での扶持を与える方式とする。これで反旗を翻した者は容赦なく滅ぼされた。躑躅館陥落より一月余りで甲斐は平定されたのである。

 この時をもって義信は甲斐守護武田家の家督を継ぎ、甲斐一国を安堵の上、一職支配を認められた。信濃一国は大部分は柴田権六に、諏訪郡は勝頼の長子信勝に後日相続させることとなった。勝頼の母が諏訪家の出であり、諏訪大社を支配下に置くことが信濃支配の安定につながるとの判断である。

 権六は高遠城に入り、甲斐への支援を行う。飯田城には川尻秀隆が入った。小諸には武藤喜兵衛に与えられた。これは真田家とは別に一家を立ち上げたこととなる。飯山は真田家に与えられた。

 深志には前田利家が入り、真田の支援とされた。事実上は目付であり、真田、柴田、武田の監視の任を帯びる。

 東国はこれ以上進むと北条との戦いとなる。上杉は内政を中心に動くこととなっており、今回干戈を交えたが徳川を通じて北条とは和睦が成立していた。

 一方本願寺の降伏は時間の問題と見込まれていた。加賀門徒のせいで物資欠乏に拍車がかかり、さらに無傷で解放されたことによる疑心も渦巻き始めた。信長は本願寺支援の最後の砦となっている紀州征伐を計画していた。ここで雑賀衆に打撃を加えることができれば、本願寺への締め付けをさらに強化できるためである。

 秀隆による最新の装備をそろえた尾張衆を先鋒に侵攻軍は大和経由で和泉に向かうのだった。

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