閑話 武田義信
永禄10年。一人の青年が甲斐の国、東光寺に幽閉され日を送る青年がいた。彼、武田太郎義信は父と対立して敗れ、死を命じる使者を今かと待つ身となっていた。裏切りが横行し、人から奪わねば明日をもしれぬ世であることは理解している。それゆえに、信義を旨とした彼には弱体化した今川を見捨てる決断をした父と対立することになった。
自分が理想を追い求めすぎたことを今となっては理解している。そして父たる信玄が個人よりも当主としての立場を優先したことも今は理解できる。
だが覆水盆に返らず。今更詫びを入れたところで、自らの犠牲になった飯富兵部は生き返らない。なれば彼らに殉じることが自身が生きた証になると考え、観念して日を過ごしていたのだった。
寺に新たな小坊主がやってきた。先年の戦で親を失い、寺に引き取られたという。秀太と呼ばれる少年は愛嬌があり、なぜか義信によくなついた。甲斐の国の絶対権力者たる信玄に睨まれまくっている義信であり、腫物を扱うかのような周りの目線に慣れ切っていた。要するに自身に親しく関わってくる人間は久しぶりで新鮮さを感じていたのである。
「義信様、この字はなんと読むのですか?」
「うむ。これは風林火山と読むのじゃってなんでそなた孫氏を読む?」
「はい、将来義信様の家来にしていただきたいと思います!」
「将来、将来な、いい言葉じゃ。本当にな…」
「義信様は今生きていらっしゃいます。わたしの父は御屋形様に付き従って討ち死にいたしました。わたしは義信様のために討ち死にするのが定めだと思います」
「いかん! こんな儂のために討ち死になどしてはならぬ!」
「ですが義信様は武田の名を継ぐのでしょう?」
「いや、もうその座には四郎がおる。あ奴は儂などよりよほど良き当主となろうよ」
「それでも私は義信様にお仕えしたいです!」
「そうか、なればそうなれるよう励むがよい」
「はい!」
秀太のまっすぐなまなざしに義信は人知れず打ちのめされた。すべてを諦観し絶望に逃げている。そんな萎え切った心を真正面から突き付けられた。
徐々に心が変わってゆくのを感じる。少なくとも秀太の行く末を何とかせねば死ぬに死にきれないとの思いが出てきた。
「義信様、お手紙です」
「おお、ご苦労。ではさっそく読むとしようか…」
書面を読み進める義信の顔に驚愕が浮かぶ。
「秀太、これはどういうことじゃ?」
「はい、わが主より誘降のお誘いかと」
「おぬしは織田の間者か?」
「織田というより、秀隆様の家臣です」
「秀隆…?」
「織田喜六郎秀隆様です。信長様の御舎弟に当たります」
「うむ、それでなぜ儂を引き抜こうとする?」
「秀隆様の家中は武勇の士を求めておられます」
「だが儂は武田を裏切る気はないぞ?」
「そうでしょうね。ですがこのままここにいても長らえることはできませぬ。まずは生きて、それから考えたらよいのではないですか?」
「わが未練を見抜かれていたか?」
「それはわかりかねます。ですが義信様の目に光が戻ってくるのはわかりました」
「そうか、儂は死んだ目をしておったか」
「恐れながら…」
「なれば儂は死人じゃ。死人がどこへ行こうと勝手じゃ、そうじゃのう?」
「義信様。それでは?」
「おぬしの主にあってやろう。まずはそれからじゃ」
その晩、東光寺は失火で焼け落ちた。寺に住んでいた者は何とか逃げ出したが、義信がいた庵は完全に焼け落ちており、人がいた痕跡すらわからない有様であったという。のち、西国の篤信家より寄進があって東光寺は再建されたという。
「義信殿か?」
「うむ、儂が太郎義信である」
「お初にお目にかかる。織田喜六郎秀隆である」
「命を救ってくれたこと、感謝しておる」
「いやいや、こちらの都合ゆえお気になさらず」
「して、目的を聞きましょうか?」
「太郎殿の武勇を惜しんだが故ではいかぬか?」
「理由としては弱い。儂に限らずとも武勇の士はおろう?」
「なんのしがらみも無いとなるとそうはおりませんぞ?」
「ふむ。そろそろ胎を割ろうではないか?」
「まあ、いいでしょ。織田は将来武田と敵対することを危惧している。その時のために武田の軍法が知りたい」
「儂が知るは3年前までのものじゃ。折々に変更が入り、今も通じるとはとても思えぬが?」
「ふむ、軍を率いる時の心得や、陣の組み方、兵の配置などもか?」
「孫氏に基づいておる」
「義信殿は書物を読まれるか?」
「そうじゃの、弓馬の家に生まれた嗜みではあるが、軍法や戦術の講釈は一通り修めておる」
「なればその力を貸していただきたい。織田も武田もない、日ノ本の民のために」
「どういうことじゃ?」
「戦国乱世でよいことは一つもない。主上を助け、この世を統一し戦のない世にせねばならん。そしてそれが適うは我が兄のみ!」
「ふむ…」
「尾張の民を見てこられたか? わが夢は日ノ本すべての民が戦火におびえることなく暮らせるようにすること」
「よくわかった、お主が大ほら吹きであることがな」
義信は吹っ切れたような笑顔を見せる。
「左様ですか…」
「して、そのホラに乗るにあたりどうすればよい?」
「…!? それでは!」
「おう、まず武田の名乗りはしばらく伏せようか。儂は今よりただの太郎じゃ」
「はい」
「それで秀隆殿の家臣としていただきたい。小者ゆえ姓はないと」
「いや、それはあまりに」
「気を使ってくださるな。まずは士分になれる実績を積まねばの」
「かたじけない…」
「では、今より主と仰がせていただく。よろしくお願い申し上げます、殿」
「ああ、よろしく頼む。太郎」
「してまずはお願いがあります」
「なにかな?」
「拙者の知識はどうも戦に偏っており申す。政について学びたいと思います。民がついてこねば殿さまでござるとは到底おれませぬからな」
「よろしい、当家で民生を担当している山内盛豊にしばらくついていただこう」
「はは!」
こうして太郎は秀隆の家臣となった。後日見習い期間を過ぎ、多田野太郎の名乗りをすることとなる。太郎の従者には元小坊主であった秀太が付き従っていたという。
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