第9話 腐臭
『俺は死を軽々しくいう奴は嫌いだ』
そう言ったのは、今は亡きカインの祖父だった。
肉親ではない。スラムに住み着いていたカインを拾って育ててくれた老人だった。
文字も、機械工として生計を立てるための技術も知識も全て彼から学んだ。
「ふ……」
頬を何かが伝う感触にカインは目を覚ました。薄暗がりとエスニック調の天井の模様。
(あれ……)
ここはどこかと一瞬逡巡し、今自分は自分の家ではなくコマドリという船に乗っている事を思い出した。動力室でジェフにいくつか手ほどきを受け、その後明日以降も手伝う約束をして割り当てられた自室にもどった。疲れが出たのだろう。その後すぐにベッドに沈んで、眠り込んでいた。
窓の外を見ればまだ青々とした空が除いている。それほど時間はたっていないらしい。身体を起こし、掌に落ちた水滴に気づき、瞠目する。久しぶりに祖父の夢を見た。だから涙など出たのかもしれないと苦笑して、目元をぬぐう。
『殺してやる……!消し去ってやる……っ!』
そう叫んだ自分の腕の中で、赤に塗れた祖父はその意思の強い瞳を鋭くして自分を叱った。
「俺は、死を軽々しく言う奴は嫌いだ」
そういって、泣く自分の頬をそっと撫でて息絶えた。
厳しくて、優しい人だった。
彼の死の瞬間は酷く鮮明に覚えているのに、自分は何故彼が死んだのかを思い出せない。
何も思い出せない。
ただ解っているのは、ひとつの確信だけだ。
自分は憎しみで人を殺した。
「メガネ」
突然部屋に響いた声にはっとし、シンは顔を上げた。やけに大きな動作になってしまったその反応に、相手も驚いたのか大きめの瞳をさらに大きくして言葉を詰まらせる。エメラルドの瞳が薄暗がりの中で不思議な光彩を放った。彼がドア代わりにかけてあるカーテンを開けて入ってきたのにも気づかないほど本にのめり込んでいたらしい。先ほどまで部屋内で談話するなどして各自休憩を取っていた人々の姿もいつの間にか無くなっていた。
「……メガネ。してるんだなって思ってさ」
そう言いながら彼は影から抜け出し、シンの前の椅子を引く。シンの座る場所は日の当たる窓際で、エアシップの薄暗い内部を歩き回ってきたカインの目には少しまぶしい。
エアシップ中央に位置する休憩室は搭乗しているメンバー全員が集まり、ミーティングをする目的にも使われているためか、かなりの広さがあった。東の方の物らしい不思議なパターンの入った絨毯の上に整然と、とは言いがたい状態でテーブルと椅子が所狭しと並べられている。丸いものもあれば四角いものもあるそれらは、だが全て籐で編まれているためか、不思議と統一感があった。
「リズに渡された。」
「近眼、じゃないな。お前の力のせいか」
テーブルに頬杖を付き、少し身を乗り出しすっと片手を伸ばすと、カインはシンの目の前に置かれた本のページをめくる。反対側から文面を読み取り、僅かに目を細め手を引くと、すぐに本から目をそらした。
「こういうのは嫌いか」
「んー、や、なんか読んだことあるなそれ」
「……そうか」
案外このカインという男は読書家なのかもしれない。
「―――メガネ案外似合うな。俺もしようかな。賢く見えるかも」
そう言って彼は薄く微笑んでみせる。そしてそれきり肩肘を突き、大きく取られた窓の外へ視線をむけカインは黙り込んだ。シンに向けられたあごと首のラインがやけに鋭角的で細い。
カインの言う通り、リズが自分にこれを渡したのは自分の持つ催眠能力のせいだろう。このメガネに特に力を抑える効果があるとは思えないが、「付けていなかったモノをつけている」事が船員たちの安心につながる。出自の為か、船員からは敬意をもって接されているが、内心シンの能力を恐れているものがいないとも限らない。多少わずらわしい感もあるが仕方の無い事だな、とシンは思う。
「…………」
また本に視線を戻す気にもなれず、シンも同じように窓の外へと目を向ける。青の先に地平線まで続く深い森が見えた。エアシップだからこそ越えられる国境はこの先にある。陸路でこの森を抜けるのは命知らずなものだけだろうと言われる。それ程、深い森だ。
(そういえば、塔からも見えた)
ほんの僅か、ガラスの外側に見えた緑はこの森なのだろう。
四方を取り囲むガラス。果てしなく広がるようで、限られた空間。見える世界は地平線で区切られて、行ける世界はどこまでも透明なガラスで区切られた。
「いつかあの先へ一緒にいきましょう?」
自分と同じ黒い瞳に微笑みを乗せて姉はそう言って「ね?」と同意を得るように小首をかしげた。
あの先へ。それは今かなえられようとしている。
(…………だけど一人だ)
「……い、―――オイ!」
「……っ」
ぐい、と肩を押され目を見開く。唐突に視界にカインの厳しい表情が飛び込み、シンは何事かと眉を寄せた。すんなりとした腕が自分の左肩を押さえている。やたら透明な、綺麗なエメラルドの瞳。
「考えるな」
一言。
シンが自分を見たことを確認してカインは腕を引き、椅子にかけなおす。
「……お前尋常じゃない顔してた。色々あるんだろうけどさ、考えちゃだめだ。今はなるようにしかならない。そうだろ?」
「……」
それだけ告げるとまた肩肘をついて窓の外で移り行く景色を眺めだす。シンの視線に気づいてないはずも無いが、それも彼は綺麗に無視して「そうだ」と自身の上着のポケットから数個のキャンディーを取り出すとテーブル上を転がしてよこした。その間も視線は窓の外へ向けたままだ。
「それさ、艦内のおねーさんたちに挨拶して回ってたら貰ったんだよ。でも俺甘いもん苦手でさ、だから」
「巻き込んだ」
「……」
故意的な他愛も無い話をさえぎり発したシンの台詞に、漸く、だが向き直ることはせずに視線だけをシンへ向ける。
「俺が巻き込んだ。」
「……別にお前のせいじゃない」
「……」
それ以上の会話を打ち切ろうとする突き放した口調でそう小さく呟き、だが視線の先でシンが眉根を寄せ無言で自分に視線を向けてくるのにカインは苦笑した。シンの視線は直向過ぎて居心地が悪い。
「……じゃあさ、お前のせいってことでいいよ!今俺がこんなところに居るのも、死に掛けたのも、変な力に目覚めちゃったりしちゃったもの、念願だったエアシップの駆動機関に触れられるのも俺が可愛いのも何もかも全てお前のせい!」
「……は?」
あんまりな言葉に思わず目を丸くする。そのシンの表情を面白そうに眺め、カインは笑みを浮かべた。
「……別に気にしてない。裏路地で倒れてたお前を連れてきたのは俺なんだし。こうなって無くても、いつか別の形で教会のやつらかここの人たちに引き込まれてただろうし」
でもそうだな、と声のトーンを落とし呟く。何か思案するように片手を口元へやるカインの動作をぼんやりと、半ばあっけに取られつつシンは眺め、そんなシンの目の前でにっこりとやたら鮮やかに微笑むとカインは身を乗り出してシンの顔を覗き込んだ。
「お前は今何をしたい?」
今一番望むことは?
「……協力を要請して、姉を」
目の前の瞳に引き出されるように言葉が口から滑り出る。
「姉さんを助けたい。」
漆黒の瞳の色をさらに深くしてそうはっきりと告げるシンを、数瞬表情を消して見つめた後、カインは口を開いた。
「じゃあ俺はそれについてくよ」
決意、なのだろう。
シンの見せた瞳の色の深さに、そう思えるほどの相手がいることが羨ましいと感じたのも有るんだろうな、とカインは人事のように考えた。自分にはもう居ない。彼はもう居なくなってしまった。クレアも居なくなってしまった。
(失わなければいい)
大切にしたい人を、シンは助けられればいいな、と思う。自分の感じた無力感を感じなければいい。
あんな思いは、誰もしないほうがいい。
落ち込みそうになった自分を打ち消すように「お前何かを自分のせいにしたいみたいだから、全部お前のせいってことにしてやるからさ、俺の我侭聞いて」と茶化して、艦内の女性から受け取ったキャンディーをシンに再度押し付ける。可愛らしい水玉模様のラッピングに包まれたそれを、困った顔で手に取るとシンは自身のズボンのポケットにそれを押し込んでいて、妙に笑えた。
ため息を付いてようやくシンは本に目を戻し、ページをめくり始める。その乾いた音を聞きながら頬杖をつき直して、カインは窓の外へ視線を飛ばした。
――気にしていないなどと言ったがそれは半分嘘だ。シンがいなければクレアは死ななくて済んだかもしれない。シンが居なければ、自分はこんなところに今居なかったかもしれない。――シンが居なければ、あんな恥ずかしい記憶、こいつに見られることもなかった。
(本当は、記憶だけだ)
シンが居なければなどと考えなくとも、クレアのことも、自分がここに居ることも、彼だけに責任があることではない。
この男が自分の記憶を覗き込む様な事さえしなければ、今笑って「友達になろう」だとか軽い言葉がはけて握手でもしていたかもしれない。だが。
内側のひどく柔らかく腐りかけた様な塊にシンは触れた。触れられなければ気づかなかっただろう。だけどそれに触れてしまった。だから、……気づいてしまった。
まっすぐな視線の中で、自分のどうしようもない歪みに、。外面などで隠しきれない、腐臭に。
(だから、こいつは危険だ)
……自己保身、なのだろう。
危険なものをできるだけ遠く遠くに突き放して、何もなかった事にする。
何時もの様に、「どうでもいい相手」の分類に、シンという存在を放り込んで蓋をすればいい。
でも、だけど。
そっとシンの横顔に視線を移す。
(なんか落ち着くな……)
室内にはページをめくる乾いた音と、低く振動するエンジン音。かすかに聞こえるお互いの呼吸音。それだけ。
窓の外は酷く青い、雲ひとつ無い空が広がっていて、眺めているだけで眠くなってくる。
(目……かも)
どこまでも純粋で穢れを知らない目。そんなものをこの男は持っていて、だからこそ汚れきった自分はそんなこいつが羨ましいのかもしれない。
次第に重くなる頭に、「もういいや、ねちゃおう」とテーブルに突っ伏し、カインが完全に寝る体制をとったその時、スピーカーから響いたリズの声が穏やかな空気を切り裂いた。
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