第3話 黒髪の少年

 酷く体が重かった。目を覚まし、まずそのことに辟易する。

 あれほどの高さからダイブしたのだ。もとより力のない自分に、レビテーションは負担がかかりすぎるのは解っていたのに。

(無理をしすぎた)

 そう自嘲してシンは瞳を瞑る。

 あのガラスの塔から飛び降りて、地上に激突する直前にとっさに有りっ丈の力を放出して衝撃を緩和した。赤茶けた荒野の硬い地面に叩きつけられ一瞬息が止まったが、それでもここまで衝撃を減らすことが出来たのは奇跡だ。

 だが、その後息を付く間もなく教会の追っ手がかかった。捕まる訳には行かなくて、夜の闇に紛れあちこち逃げ回った末、近くにあった街の裏路地に逃げ込んだ。人一人の幅ほどしかない細い道はかなり入り組んでいて、焦りもしていたから自分でもどうやってここまで来たか解らない。だがどうやら追っては撒けたようだった。

 重い瞼を開けてあたりを眺める。腰を下ろした石畳と、背中の塀はいつの間にか登った日の光で温まっていて、硬くなければ眠くなりそうだ。どうやらずいぶん長い間気を失っていたらしい。

 かなり奥まったところにまで来たのだろうか。シンのいる細い路地の突き当たりは、酷く静かで、ちょうどその場所だけ日が差し込んで明るかった。街の中心地のざわめきが遠く聞こえて、その代わりに木々のざわめきが心地良い。

 この街に暮らす者にとって、日常というものはきっとこのような雰囲気をいうんだろう、そう思った。

 ガラスに反響する靴音と、機械の稼動音の中で生きてきた自分の日常とは、かけ離れすぎている。

 視界の先の、石で出来た塀に取り付けられたプランタンで、小さなオレンジの花と緑の葉が揺れている。その優しげな色から視線を引き剥がすとシンは寄りかかっていた壁から背を離した。

(どこか、人目につかない場所に……)

 ここに長く留まっていればいずれは追っ手に発見される。早くもっと安全な場所に身を隠さなければならない。

 が、

「…………っつ…っ!!!」

 立ち上がろうとして足に力をかけた途端、走った激痛に全ての感覚を奪われる。 

 

 意識は急速に遠のいていった。



 誰かの話し声がした。

 浮き上がるように覚醒して行く意識に、自分が眠っていたことに気づく。それと同時に何があったのかも思い出し、はっとしてシンは身を強張らせた。

 背中の柔らかな感触。どうやら自分はベッドに寝かされているらしい。胸の上には毛布らしきものの重さが感じ取れた。

 そして近くからする話し声。潜めてはいるが傍に居るのであろう声の大きさに、シンは相手に気づかれないよう、慎重に気配を殺し、瞳を開けた。

 吹き抜けのようになった天井と、黒くその闇に溶け込んだ梁が見えた。その闇は低くなるにつれてオレンジの柔らかな光に変わっていて、すぐ傍で話している人間がランプを使っているのだと解った。

「……だからさ、ソファーでごめんね?」

「まあしょうがないわね。けが人が優先だもの」

 小さな声でささやかれる高くもなく低くもない柔らかい少年の声と、舌足らずな少女の声。気づかれないように気をつけながら視線を声のする方向へ向ける。

 暗闇の中に柔らかく浮かんだオレンジのランプの光。板張りの床と、何の用途に使うのかもわからない機械の一部が無造作に置かれているのが見える。プロペラや何かのエンジンらしき物もそのオレンジの光に照らされ鈍く光っていた。

 その部屋の中心に置かれた広い木の机の前に一人、暗がりに飲み込まれかけた、自分がいる場所とは反対側の部屋の奥にある階段の途中に一人。こちらは小さな少女らしい。

「ははっ、さんきゅ、お休み」

「お休み、カイン」

 少年に頭を撫でられた少女はそう答えて階段を登って行く。

 カインと呼ばれた方は椅子に座りなおすと小さく息を付いてから、ペンを手に取って何かを書き出した。

 何かの設計図だろうか。定規で線を引く音が耳に心地良い。その横顔はまだ幼さをすこし残した自分と同い年位の少年。長めの前髪がその顔を隠し、顔は見えないが、柔らかな曲線を描く顎のラインが髪の間から見えた。

 どうやら意識を失った自分を運んできたのは彼らしい。

(信用できるだろうか)

 出来ない。

「んーっ」

 ふいに少年は大きく伸びをし、ペンを置くと椅子から立ち上がった。シンの様子を覗うように顔を向け、その直前にシンは薄く開いていた瞼を閉じる。

 だが、

「……起きてるだろ?お前」

「……っ」

 口を開いた彼から出たのはそんな言葉で、飛び起きようとして足の痛みに失敗する。

「ああ、駄目だって。足すごい腫れてるんだ。それじゃ歩けない」

 上半身を起こすだけに留まったシンに、特に驚くこともなくすたすたと近寄り、少年、カインはシンの前に手を延ばした。

「……っ!」

「って、えーと……」

 思わずシンはその手を掴みギリリと力を込める。

 カインは強く握り締められた手首の痛みに顔をしかめて、シンを見やり困ったように苦笑する。その外見不相応に大人びた表情にシンの心はざわりと泡だった。

(……敵でなかろうと、自分の存在が知れるのはまずい)

 どこから足がつくか解らないのだ。

 確実に教会の手を振り切り、自分の存在を隠すには、――――彼の記憶を奪ってしまえばいい。

(大丈夫、これなら得意だ)

 何でも出来た姉と比べると、自分の力は微々たる物でしか無い。

 だが、それでもこのどこにでも居そうな街の少年に対しては脅威のはずだと、シンはささくれ立った神経を無理に落ち着けようと息を押し殺すように飲み込んだ。

 息を吐く。

(この数時間の記憶を奪う程度なら、今残っている精神力でも出来る)

 ほんの少し催眠暗示をかけるだけでいい。

 日常通りの一日で、「何も起きなかった」、と。

 ふっと息を吸い込み、呼吸を止める。

 逆光の暗がりの中で見つめた瞳は、困ったような笑みを湛えて、どうした?とでも言うかのように首をかしげた。

(――落ちろ……!)

 強く念じ、その双眸に視線をぶつける。

 だが――

「なあ、手はなしてって。毛布をかけようとしただけだってば。ほら、俺何も持ってないし、そんな警戒しないでよ」

(かからない?!)

 余りの事に思わずシンは食い入るようにカインを見つめる。

 視線を合わせることさえ出来れば、彼の姉を除き、全てのものが彼の催眠に掛かった……はずだった。

 だが。

「……なあ、どしたの?」

 シンの驚愕をよそに何の異変も見せず目の前の少年はそういうと、掴まれたままの自分の片手をもう一方の手で指差し

「……痛いんだけど」

 と伺うような視線を向けて苦笑する。

(――――刺激しては危険だ)

 ゆっくりと手の力が抜く。

 ほっとしたようにカインが赤くなった自分の手首をさすった。

「あのさ、ちょっと位感謝してよー?お前重かったんだから」

 そう言って首をかしげる。

 さらりと彼の後ろで結ばれた髪が揺れ、ライトの明かりに蜜色に光った。

 安心は出来ない。

 そう身構えたのは、激しい追撃を巻いてきた、その興奮が未だ冷めていなかったからか。

 どうにか自分の痕跡を消し、この場を後にしなければ。その一心で、あからさまな敵意を視線に込め、シンはカインをにらみつけた。

 数瞬の沈黙。

 ランプの明かりがゆらりと揺らめいた、その瞬間。

 目の前の視線がすぅ、と細められた。

「……なんか、訳あり?」

 彼の表情は変わらず微笑みを浮かべたままで。

 だが、それまでの友好的な雰囲気は突如として一変し、酷く緊迫した空気に変わる。

(危険だ)

 笑みを映していない瞳に、再度そう思った。

「教会の奴等が探してたのはお前?」

 柔らかく、だが詰問するような口調に鼓動が早くなる。

 危険だ。

 この男は。

 ならば。

(読んでしまえ……!)

 目の前で探るように自分を見つめる少年の腕をぐいとつかみ、ありったけの力でベッドに引き倒す、

「っつぁ!!!……なにすっ……」

 突然の衝撃にぎゅっと瞼は閉じられ、再度怒りを宿してシンへむけて見開かれる。

(今だ……!)

 その瞳を正視し奥の奥まで繊細な糸を貫き通すイメージを。

 叩きつけるように。

「……あっ………?!」

 目の前の瞳が大きく見開かれる。

(成功した)

「あっ……、あ……」

 目の前で見開かれた瞳へ潜り込む様にして内側に入り込み、記憶の糸をたどる。様々な光景が眼球の奥で点滅しては消えて行く。すべてこの長い髪の少年のものだ。街やスラム、この家のこと。この男は何者なのか。そして何故自分の力が効かないのか。

 全て探り出して根本から自分に関する記憶を断ち切ってやろうと思った。

 それだけでは無く、彼の全てを暴いてやらないと気がすまなかった。

 純粋な危機感と、―――なけなしのプライドを傷つけられた憎しみも有ったかもしれない。 

 だが

「ぐっ……!」

 全てを見終わる前にガァンッと目の奥に直接響くような強い衝撃を受け集中が途切れる。過去のビジョンから放り出されるように現実に引きずり戻されて、思わず片手で頭を抑え、シンは蹲った。

(壁?!)

 充血した瞳が酷く霞む。

 それと同時にガンガンと鳴り響くような頭の痛みを耐え、もう一度自分の下で目を見開いたまま呆然としているカインの瞳をにらみつけた。だがどんなに視線の侵食を強めようとも、ある記憶より先は巨大な壁が立ちふさがっているように頑として読み取ることは出来ない。

「ぃ………ゃ…だ………っ」

 小さくうめくような声。

 その声を聞いた途端、カインを拘束していた力が尽きる。

 シンの瞳の束縛が解け、崩れ落ちるようにしてカインがベットの横にうずくまった。

「……っ………!!!」

 次の瞬間飛び上がるように起き上がったカインが、シンの上に飛び掛る。

 叩きつけるように頭をベットに押さえ込まれ息が詰まり、次の瞬間カチリと小さな音がし、額にひやりと冷たく硬いものが押し当てられた。

 その冷たさに、逆にシンのささくれ立っていた気分は急速に沈静化する。

(………何も持ってないと言ったじゃないか)

 銃を突きつけられたまま、目の前の苛烈な輝きをもった二つの瞳に見入る。

 態勢が変わったことでランプの光に横顔が照らされ、今までうす暗がりに隠れていた瞳がキラキラときらめく。

 銃を突きつけられたまま、どこか遠くに背中のベットの柔らかさを感じつつ、シンはそのきらめきに見入った。

「……殺してやる………っ」

 掠れ震えた、搾り出すような声。

 その瞬間、数百の記憶の欠片がシンの脳裏で明滅して消えた。

(……こいつの……)

 目の前で震えた声で怒りを押し殺すこの少年の記憶。

 カインというらしい彼の、その記憶は彼にとってつらいものに違いない悲しいもので、一瞬口にするのを躊躇する。

 だがシンは慎重に、彼の瞳を見つめながら口を開いた。

「………俺は、」

 

「俺は死を軽々しくいう奴は嫌いだ」

「……っ」

 途端に目の前の瞳が泣きそうに歪んだ。

 銃がカタカタと小刻みに振るえ、ゆっくりと下ろされる。

「……んで、お前がソレをいうんだよ……」

 吐き出すように呟く。


「……俺だって…嫌いだ……っ」

 かすれた声で、ただやりきれなさを押し殺すように。

(……綺麗だ)

 罪悪感に支配されながら、だけれどシンは彼の瞳が前髪に隠されてしまい、酷く残念だと思った。


 彼の瞳は鮮やかなエメラルドで、

 怒りにきらめくその瞳は壮絶なまでに美しかった。

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