第1話 カイン=フォークナー

(…………えっと)


 夢だったのだろうか。

 誰かに『何か』を言われた様な気がするが思い出せず、カイン=フォークナーは天井を見上げたまま、小さく首をかしげた。

 揺らぐ水面へ向かってゆっくりと浮上するような目覚め。

 少しあけた窓から入り込んだ朝の外気が、頬を柔らかく撫でる。

 清涼感のあるその空気は、ゆっくりと深呼吸すると胸の深くまでその冷たさを伝えてきて、自然と口元が綻んだ。

(気持ちいい……)

 この朝の空気の中でまどろむのが最高に好きだ。

 柔らかな朝の光の中でひらめくカーテン。

 昨日の夜、暑くて空けたままだったっけ、とぼんやりとその布の翻る様を眺めていると、チリンチリンと外から新聞配達の自転車のベルが聞こえてきた。家の前の坂を下っているのだろう。意外と近くから聞こえてきたその音から、大体の時刻の検討を付ける。今日も自分の体内時計は狂ってはいないようだ。

 カーテンの隙間に見える青空は、雲ひとつない。

(今日は遺跡が綺麗に見えるだろうな)

 町外れにあるカインの『仕事場』兼『家』は、やたらときつい、だが見晴らしのいい坂の上にある。二階の窓を開くと、西を向けば街の全貌が、東を向けば直ぐ眼前に迫った荒野が見える。

 赤茶けた土と、その先の地平線、そして何処までも広がる朝の柔らかな青い空。

 カインはその荒野に点在する旧時代の遺跡のシルエットに沿って、空の色が移り変わるのを見るのが好きだった。きっと今は太陽のオレンジと、朝を告げる淡い青が、夜闇の名残の紫を見える限りの空の外へと追いやっているところだろう。そう考えると、ベッドの中でのまどろみよりも、無性にその色が見たくなる。

 カインはもそもそとクシャクシャになったタオルケットを蹴り、ベッドから抜け出した。

 カーテンをあける。

 すると想像していた空よりも夜がさらに追いやられた青空が見えた。どうやら思っていたよりも長時間自分は惰眠を貪っていたらしい。昨晩遅くまでしていた作業のせいか、それとも深夜にどこからともなく聞こえてきた騒音のせいか。

(今日は……なんだっけ)

 外を眺めながらぼんやりと、最近の仕事内容を思い浮かべる。

 視界の先には、かなり下の坂を、またベルを鳴らしながら下っていく自転車。

 毎朝目が覚めると直ぐ、今日やるべき事を考えるのはここ数年の癖だ。

 数秒まだ回らない頭で考え、昨日のうちに今ある依頼は終わらせた事を思い出し安心する。今日はゆっくりと過ごせそうだ。

 ――時刻はまだ六時。

「……寒」

 ふと肌寒さを感じて、寝巻き代わりのタンクトップから出たむき出しの肩を擦る。

 早いところ服を着替えて朝食にしようと、寝室を出ようと振り返れば、まだ薄暗い部屋の床のあちこちに散らばったボトルやらパッキンやらが見えて、思わず苦笑が漏れた。

 もともと整理整頓は心がける性質だが、仕事が終わった後趣味の機械弄りに没頭すると、機材の片付けが済む前に疲れてベッドにもぐりこんでしまう。

(まず最初は後片付けかな)

「よっと」と掛け声を出しながらカインはベッドを乗り越えドアのノブをひねったその時、玄関の方でキィ……とドアがきしむ音がした。



「こーら」

「ひっ」

 小さな体がびくりと跳ねる。

 その様子に肩の力を抜いて、カインははぁ、と安堵の息をついた。念の為持っていた護身用の銃を降ろし、安全装置を掛けなおす。

「あのさークレア、入ってくるのはいいけど、ちゃんとベルならす!」

 腰に手をあてて怒ってみせると、一階の仕事場に勝手に上がりこんでいた少女は振り返って「えへっ」とでも言うかのように笑顔を浮かべて見せた。

 町外れのスラムに住んでいる少女クレアだ。

 十七のカインよりも十ほども幼いが、物心付いたころからスラムで育ったせいか、よくも悪くもしたたかで狡賢い孤児の少女だ。だが、毎回部屋に上がりこまれる度に何かこまごまとした物がなくなっても、心から疎ましく思う事がないのは、互いにスラム出身で、おまけに身寄りもないという似たもの同士だからなのかも知れない。

「だって、起こしちゃうと思ったんだもん」

「今の時間はベッドの中だけど起きてんの!大体、空き巣とかと勘違いして、クレアを撃っちゃったらどうするんだよ」

「カインはそんな判断しないわよ。あ、でも寝起きは注意だったかな? あたしレディだから」

 唇を尖らせた少女は、直ぐにぱっと表情を変えて笑う。その笑顔にやれやれと苦笑して、カインは少女の黒い縮れ毛をくしゃりと撫でた。

 機材勝手に弄んないでよ、念を押して服を着替えに寝室に戻る。

 二階にはカインの寝室と小さな本棚を置けるスペースだけ。残りのスペースは一階の仕事場を見渡せる吹き抜けになっている。身支度を済ませて階下へ降りる途中で階段から下をのぞき見れば、小さなジャンパースカート姿が部屋の隅に置いたプロペラ機をしげしげと眺めていた。声を掛けると、振り返ってにひ、と笑う。

「パン焼くから、座ってな」

 そう言いながら、テーブルにいつも置いてあるパンの篭から、丸パンを二三個見繕う。

「うん。あたし目玉焼き挟んで欲しい」

「……しょうがないなあ」

 図々しくも可愛らしく笑うクレアに、苦虫を噛み潰したような顔を作ってみせると、カインは卵も缶から数個取り出してキッチンのコンロに火をつけた。

「ねえ、ちょっとパンもらってっていい?あ、あとこのベーコンも!」

「だーめ。クレアだけ特別扱いする訳にはいかないだろ」

「じゃあその指輪頂戴」

 クレアの言葉に、首にかけたチェーンをちらりと見やる。

 くすんだ銀のチェーンに通してある指輪。そのリングには小さな青い石がはめ込んである。

 孤児だったカインが今は亡き機械工の老人の下に弟子入りしたのが、十のクレアよりもさらに二つ三つ小さい頃。その頃にただ一つ持っていたのがこの指輪だった。だからこそ、もしかしたらこの指輪が自分の両親に関係しているのかもしれないと、見る度に淡い期待を寄せてしまう。

 自活して今の生活にそれなりに満足している今、いまさら親を見つけようとは思わないし、どこかで既に死んでいるかもしれないと思いながらも、寝る前にランプの明かりの中でキラキラと光る青い石を見るのは、カインのお気に入りの時間の一つだった。

(ま、無理ないか)

 鮮やかな青い石はくすんだ指輪に据えられていても、涼やかだが、どこか暖かい色を発していて少女が毎回欲しがるのもわかる。

「駄目だってー。俺の宝物だって知ってんじゃん」

 フライパンから焼けた目玉焼きを取り出し、皿に移す。

 丁度パンも焼けたようだとオーブンからパンを取り出し振り向くと、カインの作業机に頬杖をついて、少女がむくれた顔でこちらを見ていた。

 その顔に思わず苦笑する。

「そうだなー、クレアがもうちょっと大きくなったら考えてもいいかな?」

「あたしきっと美人になるわよ。早いうちに投資しとかないと損よ!」

「ほんとの美人は人に物をねだったりしないっての。それに……」

「手に職っていうんでしょ」

 自分の言葉をさえぎった言葉に、うんうん、と頷く。

「そ、働かないもの喰うべからず!」

 パンにナイフを入れて、焼いた目玉焼きを挟み込む。

 そしてバターとパセリを少々。

「クレア、ピアノ上手いだろ。うちのなら使っていいから、もっと練習しなよ。クレアならきっと、そのうちホールで雇ってもらえるようになるよ」

 そう笑いかけると、パンを両手で掴んだ少女は何故か少し赤くなって微笑む。

 そして一言「あのピアノ、ミの音がでないんだもん」と小さな声で呟いた。



 そういえば昨日の夜は煩くてあまり眠れなかった、とあくびをかみ殺しつつぼやいた少年に、ジャックはフィッシュアンドチップスを包んで渡した。

「また夜更かしでもしたのか?」

「んー?あ、ありがと」

 満面の笑み。

 包みを受け取った少年は、早速その包みをガサガサと開けながら広場へと視線を向ける。つられて視線をそちらへ向ければ、昼時の混雑も漸く引いた様で、広場中央の噴水の周りで寛いでいた人々が、徐々に各自の仕事場へともどって行くのが見えた。

 毎日この広場で屋台を出しているジャックにとっては、ごく日常の光景だ。

 そろそろ一息つける時間帯になるだろう、と見上げた春の日差しはうららかを通り越して――少し暑い。

「ちゃんと寝た……って言いたい所だけど、昨日はちょっと遅すぎたかなあ」

 そう言ってはむ、と揚げた魚に齧りつき笑顔をこぼす。そのやたらと幸せそうな様子に、思わず苦笑が漏れた。よほどこんなジャンクフードが好きなのだろう。作り手冥利に尽きるな、と毎日少年が昼飯を買いに来るたびにジャックはそう思う。

 カウンターに寄りかかって眠たそうに空を見上げるこのカインという名の少年は、長めのハニーブラウンの髪を高めの位置でひとくくりにして、赤い、丈の短い作業着を着込んでいた。

 もともと町外れに小さな工房を持っていた老人が、何故か突然連れてきた孤児の少年だ。本人は老人のファーストネームをとって、カイン=フォークナーと名乗っているが、実際の名前だかは定かではない。フォークナー老人の亡き後は、工房の後を継いで、街の人々の壊れた機器類を修理したり、設計図作成の依頼等をこなし、生計を立てているらしい。

 休日には趣味なのか、変な機械を作ってはジャックの出店のある、目の前の広場で披露して見せたりしていて、この少年はひそかに街の人気ものだった。

「あ、今日は輪がはっきりしてるね」

「ん?ああ、昨日は風が強かったからな。大気中の埃が飛んだんじゃねえか」

 カインの言葉につられてジャックも出店のひさしの下から顔を覗かせ、昼過ぎの高めの太陽に目を細める。

 二人の視線の先の空には、春の明るい青の中にくっきりと掛かった――白い曲線。

 この星ローエンティアには輪がある。

 先の大戦で損傷した星のかけらや、他の星や隕石が破壊された破片とも言われているが、それを確かめるための旧時代の技術は今は存在しない。何が原因で始まったのかすら判らないほど、人々の下から秩序と記録を奪った大戦によって、人類史は一度終止符を打たれた。

 復興が始まったのは、ほんの百五十年ほど前。再度人類史と呼ばれるようなものは再開されたのも丁度その頃だ。だが、伝聞による大戦当時の記録は多岐にわたり未だ混乱を極めた状態で、大戦当時の遺物として人々の手元に残された確かな当時の記憶は、各地に残された学術的遺跡と、そして目の前に掛かった淡く光る輪のみである。

「――――あ、ディップもうちょっとつけてよ。出来ればもう一種類。でも大豆のは嫌だな。あれ苦手なんだー」

 しばしぼんやりと空を眺めた後、また紙袋をガサガサと開いて中身を覗き込んだ少年はさらりとそう注文をつけてきて、ジャックは苦笑してその紙袋をひったくった。

 カップにチリソースを多めに盛って、再度袋に押し込み少年へ突きつけると「ありがと」と満面の笑みを浮かべ少年は紙袋を受け取る。その笑顔にまた苦笑して「やってらんねえな」とジャックは頭を掻いた。ずいぶんと我侭な注文だがこの少年はお得意様だ。他の奴らがこんな注文をつけてきたら「図々しいこと言ってんじゃねえ」と追い返してやるところだが、「お得意様だから」だけではなく、どうにもこの少年の笑顔に自分は甘いらしい。

 嬉しいときは本当に嬉しそうな顔をする。

「お前昼飯いつもうちで買ってくが、自分で作んねーのか?」

 昼時になると少年は必ず店にフィッシュアンドチップスを買いにくる。だからこそ逃せないお得意様なのだが、こうも毎日店に来られると、いささか少年の食生活が心配になってくる。なんといったって毎昼揚げ物なのだ。その揚げ物を売っている立場だが、自分だったら三日連続で食べれば飽きる。

「自分とこの商品に色々言うのはアレなんだが、魚とポテトだけじゃ良いガタイはつくれねえぞ?お前細っこいんだから。」

「ええー、酷いこと言うなぁ。前に比べたら背は伸びたし、それに朝と夜はちゃんと自分で作ってるよ。ほら、昼は客がへるし、その時間にやりたいこ事あるから、料理で時間つぶしたくないんだ」

 ジャックの言葉にチップスをつまみ食いしていた少年は、塩のついた指を舐めてから大して気にして無い口調で反論する。

「なんだ、いいスクラップでも入ったのか」

「直せば立派に動くよ」

 そういいながら少年は紙袋にまた手を突っ込み、チップスを口に放り込んだ。その指先には真新しい細かな傷が沢山付いている。彼はすでに手に入れたその玩具をいじり倒した後らしい。眠い眠いといいながらも朝早くから起きて機械をいじっていたのだろう。そう考え、「そういえば」とジャックは思い出した。

「昨日うるさかったのは崩れたらしいんだよ、また」

「旧市街のビル?」

 ジャックの言葉にぱっとカインが振り返る。

「ああ。いつ崩れてもおかしくは無いと思ってたら、昨日の夕方に一番でかいのが崩れたらしくてな。あの付近を根城にしていたスラムの連中がかなり巻き込まれたんだ」

「……っ、ほんと?!」

「ああ、――っつーか、なんであの騒ぎできづかねぇんだよ」

「昨日隣街までさっき話したスクラップ受け取りに出てて、戻ってきたの夜なんだよ。騒々しいとは思ってたけど……だから朝クレアが来たのか……」

「ま、今回は珍しく教会の奴らが救助に人員を割いてくれたから、助からなかった奴らもそりゃ居たが、何人かは救出された」

「へえー……普段は何もしないのにね」

 瞳を伏せ静かにそう呟くと、フィッシュアンドチップスの入った紙袋をガサガサと閉じる。

「いつも遺跡調査してるからな、崩れたのはでかい奴だったらしいし、大方何か発掘している最中だったんだろ」

 まあ体面もあるし、救助はそのついでだろう。ジャックがそういうと少年は肩をすくめてみせ、そして自分の後ろに客が立ったのに気づき、場所を空けた。

「あ、じゃあそろそろ行くよ。俺のとこも客来てるかもれないし」

 そういって身を翻す。

「おう、また明日な」

「ん。あ、明日はタラのフライがいいな。とっておいてよ!」

 ハニーブラウンの髪を揺らして振返り、悪戯な笑顔を向けてくる少年に苦笑して、ジャックはさっさと行けと追い払うように手を振った。

 だが――次の瞬間、巨大な音と共に地面が揺れ動いた。

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