ヘブンズエッジ

夏坂 砂

プロローグ


「ああ、また」

 顔を上げ、少女は振り返った。さらさらと癖の無い長い黒髪が、彼女のまとった優美な着物の上を零れ落ちる。

 視線の先に広がるのは、茜色に染まったどこまでも続く雲海。

 だが、外を覗うように視線を向けてはいるが、彼女はその美しい光景を見ることは叶わなかった。彼女の瞳は白い包帯で覆われ、その瞳の色も、表情も伺い知ることは出来ない。

 四方をガラスで囲まれた閑散としたフロアは、暮れゆく空の中、同じように茜色に染まっていく。

「――崩れる」

 西の空へ顔を向け、かすかに聞き取れるほどの声で彼女は呟いた。

 その背後に長く伸びる影の中、無機質で硬い床の上に座り込んだ少年は俯いていた顔をあげ、彼女の視線の先へ目を向けた。

「……」

 強さを増す夕日の光に、僅かに目を細め、白いコートを着た少女と同じ黒髪の少年は無言でそっと立ち上がり、少女の後姿に目をやって眉間にしわを刻んだ。「自分は許容できない」と示すかのように。

 その気配に気づき、少女は口元に笑みをのせる。困ったように。

 地上に住む人々は、この遥か天空に自分たちがいることなど知らない。誰もこの美しくも、冷たく重い閉ざされた場所を知らない。

(だけど、それも終わり)

 ゆっくりと少女は空へと足を進める。その足取りは視界をさえぎられている者とは思えないほど確かに、彼らの世界と外の世界を隔てる透明なガラスの前で、ぴたりと止まった。

「――シン」

「…………」

 背後の暗闇に溶ける少年に声をかける。柔らかい声音が静かなフロアに広がり消える。

 返事は無い。だが彼女には少年が立ち上がり、自分の背後へと足を進めたことは解っていた。

 つい、と片手でガラスに触れる。

 ひんやりと冷たい感触が少女の指先に伝わり、その冷たさに、喉のさらに奥で膨れ上がるような不安がほんの僅かだけ静まる。

(大丈夫、私はまだやれる)

 自分を鼓舞するかのように、少女は小さく息を吸い込むと、口を開いた。

「さあ、準備はいい?」

「……本当に……っ」

 それでいいのかと問いたいのだろう。

 苦渋のにじむ、最後まで言わぬ内に打ち切られた言葉の重さを理解して、彼女はまた困ったように微笑む。

「気にしないで。どの道、私はここから動けない」

「……っ」

 わかっている。だけれど、納得などいく筈もないと黒髪の少年は歯がみし、自身の姉を見つめる。

 そんな弟に静かに笑みを向け、また少女はガラスへと向き直った。

「大丈夫、貴方なら飛べる」

 そう呟いて、目を閉じる。すう……と息を吸い込んだ。

 内側から広がる力。この力は、私の思うがまま。

「貴方は今」

 ガラスに当てた指先に光がともる。重力に反して、彼女の長い黒髪がふわりと浮き上がった。

「外へ出られるわ」

 その刹那。

 鋭い音をたててガラスが砕け散る。

 キラキラと砕けた破片が夕日のオレンジを乱反射させながら雲海へと舞い落ちる。

 

「さあ!!! 」


 部屋に吹き込んできた風に黒髪と鮮やかな着物をはためかせながら彼女は叫んだ。

 

「行きなさい! 」

「…………っ」


 目を瞑り、歯を食いしばって少年は外へと駆け出す。

 少年の纏った白いコートが少女の視界を横切り白い線を描く。


 踏み切る。外へと。


「必ず―――っ」


 自身の横を通り抜ける、その一瞬、

 感情を押し殺した少年の声が耳を掠め、少女は鮮やかに微笑む。


 少年の体は雲海へと吸い込まれていった。

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