アイボリーに隠れて
中川那珂
アイボリーに隠れて
シャッターを切る音に、様々なポーズを重ねる。
「転換終わったら、取材入ります」
「よろしくお願いします」
ドラマの撮影と違い、香盤表のない現場。口頭で伝えられるタイムスケジュールに、そわそわとしてしまうのはあまり取材経験がないからということにしておいてほしい。
照明機材を必要最低限まで減らし、事前に記入してきたアンケートを見ながらの取材が始まった。
「――性との、キスシーンは初めてということでしたが、アヤメさんのファーストキスについて伺ってもよろしいですか?」
「ファーストキス、ですか……?」
違和感を覚え、手元のアンケート用紙へ視線を落としてみたが、やはりそんな質問はなかった。
「あの、そういった質問に関しては……!」
声を荒げるマネージャーを手で制して、大丈夫だと告げる。事務所NGではなく、万が一のスキャンダルを気にしてマネージャーが決めただけのNGワード。
キスシーンの一つや二つであれこれ言うような年齢でもない。ただでさえ遅咲きの私を使ってくれる、興味を持ってくれることにもっと感謝をして仕事をしないと失礼だ。
「――小学生の頃です」
「おお! クラスの男の子でしょうか?」
ぐいぐいと突っ込んでくる記者に、悪い気はしなかった。前のめりに訊いてくる姿勢は、むしろ心地が良かった。
「いいえ。……女の子です」
「おおっ?! ドラマにピッタリなお話ですね……! 男子なんて女子なんてって虐げる時期ですよね」
「そうかもしれません。男の子と喋らない日もありましたし、その子とばかりいましたね」
「ちなみに、それは恋でしたか?」
恋がどういうものか、歳を重ねたらわかるのだとばかり思っていた。三十を半ばにして今もまだよくわからないのは、私がおかしいのか、それとも"恋"なんてそういうものだということなのか。
*
小学五年生の春。
隣のクラスに転校生が来て、綺麗な子だと話題になった。騒いでいたのは圧倒的に女子の方。男子は興味がなさそうなふりをして休み時間にサッカーをしていたものだ。――今思えば、小学生男子と小学生女子というのは不思議なもので何でも気に入らない生き物だ。
朝の会で凛とした声色で挨拶をした彼女と、もっと仲良くなりたいと思った。
だから、真似をした。
演劇部に入れば、その子と仲良くなれると思って、演技に興味なんてないのに入部届けを書いてみた。
私の通う小学校には"自分のクラス以外に入ってはいけない"というルールが存在した。ただ、いつの時代もルールというのはバレなければいいところがあり、生徒同士の目撃では大して問題にならなかった。つまるところ"先生にバレなければいい"のだ。
演劇部は人が足りなく、その日のうちに入部許可が下りた。何も持ってきていないといえば、体操服があれば充分だと絆されて顧問に連行されて体育館へ向かったのを覚えている。
こんなにやる気のある部活だとは思っていなくて、さすがに少し後悔した。
「よ、よろしくお願いします!」
「演劇部ではみんな名前で呼ぶ習慣があるから、ここではみんなのことを名前で呼んであげてね」
「名前……」
「サクラです」
転校生は、名前まで綺麗だった。凛とした声は、バスケットボール部員達が呪文のように唱えるランニングの声にも負けないくらい透き通ったものだった。
――小さな部活。一学年三クラスしかない小さな小学校。サクラと仲良くなるまでに、時間はかからなかった。
「アヤメ!」
隣のクラスを覗き込むと、すぐに気付いたサクラが私の名前を呼ぶ。好きな声で、好きな笑顔で。
"ちゃん付"が主の小学生時代、呼び捨てられる度に心臓が嬉しくて鳴いた。サクラが男の子ならこういうの少女漫画で見たなぁ、と見当違いなことも考えたものだ。
桜の絵が描かれた上履きを鳴らして近寄り、私の手を引く。
「えっ?」
「早く、先生来る前に」
先生が来るから入ったらいけないのに。教科書や体操服を借りる以外に入ったことなんてないのに。
言いたいことはたくさんあるのにその手が払い除けられなくて、引っ張られるままにアイボリー色のカーテンの内側へ身を隠した。窓は全開になっていて、運動場で走り回る男子達の姿を発見した。
ここなら先生に見つからないよ、と笑う。
「さすがに足だけじゃわからないでしょ」
得意げに胸を張る。
メイクをしたり、髪を染めたり、ブランド物を身に付けたり、持ってきてはいけないものを持ってきたり、そういうことは一切しないサクラ。一見すると"いい子"に見えるのに実際のところは、意外とそうじゃない。
「サクラって、ヤンチャだよね」
「え? そんなことない、楽しいことが好きなだけだよ。演劇も、アヤメといることも楽しいから」
「わ、私も!」
「ふふっ、知ってる! 私といるときのアヤメ、いつも楽しそうだもん」
そんなことまでバレていたのかと恥ずかしさから運動場から横へと目をやれば、思いのほか近くにいたサクラに驚いて躓くようにして一歩下がった。
「わっ、大丈夫?」
「ごめ、ちょっとビックリした……!」
運動場の奥には、緑色になった桜の木が見える。
「アヤメのほっぺた、ふにふにしすぎじゃない?」
「ふにふに……!? 太ったかな……」
サクラと出会うまで体型なんて気にしたことがなかった。身体測定では標準体型だといわれていたが、彼女がすらりと綺麗だからもしかしたら太っているのかもと嫌な汗が滲む。
「ううん、太ってない。かわいいよ」
お世辞でもなさそうな反応にほっとしたのも束の間、サクラは二歩分近寄るとほっぺたをくっつけた。
「サクラ!?」
「うーん、やっぱりアヤメの方がやわらかい」
ほっぺたとほっぺたをくっつけたまま、朝の挨拶でもするような自然さを保ったまま続ける。喋る度に微かな振動が伝わって、猫のしっぽで撫でられているようなくすぐったさに思わず笑ってしまう。
「む……、ムリ、くすぐったい……!」
「ええっ?」
どうして笑われているのかわかっていないのか、大きな目をもっと丸めてきょとんとする。何度も名前を呼ばれているのに、笑いのツボに入ってしまった私には返事が出来なかった。終いには真っ直ぐ立っていることすら難しくなり、落下防止の棒に顎を置いてただただ笑い続けた。
「もう……!」
溜め息混じりに呟くと、腰を屈めてほっぺたにくちびるを押し当てた。
「っ!?」
それには思わず仰け反った。何をするの、と言いかけても金魚のように口をはくはくさせるだけで声が出ない。
「アヤメは、自分が可愛いことあんまり知らないからやだなぁ」
「い、今……!?」
「くちびるじゃないんだから許してよ。ね?」
許す、許さない――そんなこと考えてもいなかった。
くちびるが柔らかい。いいにおい。同じシャンプー使ってるかも。そんなことで頭がいっぱいだった。
「わー……、すごい……。ちゅー、しちゃった」
「されちゃった、でしょ? 私は、うばっちゃったーってヤツかな」
中指と薬指、それから親指をくっつけて、キツネでも作るように手を閉じたり開いたり。
「お茶のコマーシャル?」
「そう、それそれ」
チャイムが鳴って自分の教室に帰っても、心臓がしばらくうるさかった。
――後にも先にも、彼女とキスをしたのはそれが最初で最後。
サクラは中学受験をして遠くへ行ってしまった。手紙でのやり取りは、忙しさに霞んでいつか消えてしまった。
それでも、テレビで彼女を見る機会は多くていつだって一番に応援していた。
*
――アヤメさん?
「あははっ、すみません、懐かしんでしまいました。どうでしょうね……もう一度したらわかるかもしれません。それに、ほっぺたですから、それ以上深堀りしても面白くないですよ」
「頬でしたか……いやあ、うまいことはぐらかされました! 次の質問にまいりますね」
「はい」
今もすぐに思い出せる彼女の姿。今も昔も、世界で一番綺麗な人。
キスシーンの撮影は明日。相手は、女優の――――。
アイボリーに隠れて 中川那珂 @nakagawanaka
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