彼女はトイレを愛してる
秋本カナタ
前編
春。
麗らかな陽気に誘われて、人の心は踊り出す。いつもとは違う新しいことに思わず挑戦したくなっちゃう、そんな季節。
「まあ要は馬鹿が増える季節ってことなんだけどな」
見も蓋もないな。ついでに風情もない。
目の前にいるのは国語教師で我らが担任の柏木先生。男子の間では口が悪いと専ら評判。顔とスタイルはいいのにな、という言葉が大体後ろにつく。年齢は知らないが、未婚なのは確実だろう。その件に触れられる勇者は今のところいない。
放課後、そんな彼女に職員室まで呼び出され、ほいほいと付いていった結果が、
「――というわけで、学校中のトイレットペーパーが何者かに盗まれた。古岡にはその犯人を探してもらいたい」
「嫌です」
一蹴して帰ろうとする僕の手を、柏木先生はがしっと勢いよく掴んだ。もう腕ごと持っていかんとばかりの強さで。
「痛いですよ先生。体罰ですよもうこれ」
「お前がすぐに帰ろうとするからだ。あとこれは体罰ではない。これだからゆとりってやつは……」
「ゆとりは今関係ないでしょう。それより本当に痛いんで放してもらえませんか。プロレスラーですかあなたは」
「古岡が私の頼みを聞いてくれたら解放しよう。あと私はプロレスラーではない」
とか笑顔で言いつつ、さらに強く僕の腕を握りしめてくる。うわあ、肉に食い込んでるよ。執念が垣間見えるようだ。
ちなみに古岡とは僕のことである。クラスでのあだ名はレトロヒル。センスの欠片もない。でも実は気に入っているのは秘密だ。
「離さないと叫びますよ。教頭とかに見つかりますよ多分」
と言いつつ既に職員室中の視線を感じているのだが。見てるなら誰か止めてよ。このご時世、見て見ぬふりも加害者になるんですよ先生方。
「そんな脅しは私には効かん。教頭とは昨日も飲み交わした仲だからな」
あのハゲ……いや、バーコードめ。見ると、なんかはにかんだような微笑みでこっちを見てる。教頭に殺意が湧くってなかなかないと思う。
埒が明かないのでとりあえず釈明を試みる。
「だって僕、ただの一清掃委員ですよ。なんでそんな探偵みたいなことしなくちゃいけないんですか」
「トイレはお前の担当だっただろうが。そこで備品がなくなったんだから、その責任はお前にあると言える。社会は厳しいものだ」
僕はまだ学生なんで、という言い訳も今の彼女には聞いてもらえない気がする。ゆとりとか社会とか、そんなこと言われても困る。それは僕が望んでなったものではないし、なりたくもない。
「僕一人で全校のトイレの管理をできるわけがないでしょう。というか備品の紛失は学校側の責任になるんじゃないですか」
「ええい、がたがた抜かすな! いいから早く犯人を探してこい。これは命令だ」
「いーやーでーすー」
掴まれた手をほどこうとしたが、全く動きそうにない。力こもりすぎでしょう。目なんて血走っちゃってるし。
「……ああもう、わかりましたよ。やればいいんでしょう、やれば。その代わり内申点上げてくださいね」
これ以上ごねたら本当に腕折られそうだ。完全にないとは言い切れないところが恐ろしい。
「ありがとう古岡、お前ならやってくれると信じてたよ。内申点は私は知らんが」
ようやく解放された。くそ、なんて調子のよさだ。してやったりみたいな顔してるし、本当に頷くまで離さないつもりだったのか。死神かこの人は。
「でも、僕一人だと何もできませんよ。何の情報もないですし」
「なに、それについては安心しろ。もう一人、心強い味方をつけてやる」
先生はどや顔でそう語る。そうか、それは安心だー、などと僕が抜かすとでもと思ったのだろうか。そんなやつがいればただの馬鹿だ。僕は馬鹿じゃないから、先生が馬鹿だ。
「お呼びでしょうか、柏木先生」
不意に、後ろから誰かの、鋭く、しゃんとした声が聞こえた。
振り返ってまず目に入ったものは、その長く綺麗な黒髪。次に、力強い目と、それを囲む黒縁の眼鏡、整った鼻筋、可憐な口許。優美な立ち姿、気品に満ちた雰囲気。正に美少女と呼ぶに相応しい美貌。
……それと、胸に抱えた大量のトイレットペーパー。
「先生、この人が犯人ですよ。犯人が自首しに来ましたよ」
「落ち着け古岡。彼女は犯人ではない。そのトイレットペーパーをよく見てみろ」
そう言われて、もう一度その女子生徒の方を向く。彼女は首を傾げてじーっとこちらを見ていた。その訝しげな視線に負けずに、こちらもトイレットペーパーに目を移す。
一見特に何の変哲もないトイレットペーパーのように見えるが、よくよく見てみると何か違う気がする。だが、何が違うのかは分からない。正直分かろうとする気もない。
「これは、特注の私専用のトイレットペーパーよ」
彼女は僕の抱える疑問の正体に気づいたのか、先にそう説明した。それがさも当たり前だというように。
「……ねえあなた、もしかしてトイレットペーパーなんて世界中どれも同じだと思ってない? いいえ、そんなことはないわ。厚さ、長さ、固さ、幅、そのどれをとっても一つ一つに細やかな違いがあるの。適当に選べばいいってものではないわ。自分にあったものを使わなければ、あなたのお尻はボロボロになってしまうでしょうね。私の場合はこの特別なトイレットペーパーのおかげで、そんなことにはならないの。トイレットペーパーはね、あなたが考えているよりもずっと奥が深い物なのよ」
「なるほど」
とりあえず頷く。八割どうでもいい。
要は「私のお尻は繊細なので、特殊なトイレットペーパーを使わせてもらっていますの」ってことだろうか。そんなことを熱く語られても反応に困るのだけれど。
「おーい、その辺にしておけ。何回聞いても普通に引くからな、その話」
先生がうんざりしたような顔でそう促す。なに、この人こんな話ばっかりしてるの? だとすれば、ただのトイレットペーパーマニアだろうか。
ただのってなんだよ。
「柏木先生、そんなことよりも、前回分のトイレットペーパーが切れかけなので再びこれらを個室にセットして頂きたいのですが、よろしいでしょうか」
「おーけー、だがその前に私の用件を聞いてもらおうか」
とりあえずそれ置いたらどうだという言葉に従い、彼女は持っていたそれらを一つ一つ丁寧に床に置いていった。そんなに大事なのかそいつら。
「というわけで、彼女の名前は鶴来葵。お前の一つ上の三年で、我が校の現清掃委員長だ」
「へえ……ってあれ、清掃委員長ってこんな人でしたっけ? 男じゃありませんでしたか?」
定期的にある会議を思い返してみる。全校の清掃委員の生徒が一同に会し、現状報告やこれからの活動について話し合う面倒なものだが、僕は特に熱心に聞いてはいない。ただ、確かそれを纏めていたのは毎回三年の男子だったような気がするけど。
「あー、それ多分副委員長だな。こいつ、委員長のくせにまだ一回も会議参加したことないんだわ」
先生は頭をぽりぽりと掻きながら面倒臭そうにそう言って、理由の説明を鶴崎葵に託した。頷いた彼女は眼鏡に手を掛け、冷静に話し出した。
「私、人の前に立ってしゃべるのは苦手なの。考えただけでもお腹が痛くなってきちゃう。だから、会議の時はその度にトイレに籠ってるって訳。お分かり?」
「いや、よく分からないです」
分かりたくもないです。なんでそんなに真面目かつ自慢気にそれを語ってるのかも謎です僕的には。
「でもね、トイレって、とってもいいところだと思わない? 気持ちよくなれるし、静かだし落ち着くし、集中もできるわ。人が最も平和に過ごせる時間は、きっとトイレに入ってる時間だけなのよ」
この人は何を言い出してるんだろうか。トイレに平和を持ち込んでくる人は初めて見た。選挙候補者がマニフェストに掲げただけで落選が決定しそうな考えだ。
「ああ、そんなことを考えてたらまた便意が……行って参りますわ!」
カッコよくカッコ悪いこと言い残して、特別製トイレットペーパーを一つ持って鶴来葵は職員室の外へと走っていった。とても嬉しそうな顔をしていたのは気のせいだろうか。気のせいであって欲しい。
「先生、あの人は……」
「変態だ。以上」
「それは分かりました。じゃなくて、あの人が僕と一緒に犯人を調べてくれる人なんですか?」
僕の問いに、ゆっくりと頷く。ですよね。どうせなら否定して欲しかった。不安以外の何も感じない。
「鶴来葵、重度のトイレットペーパーマニア。それだけならまだ良いが、さらに排泄をすることに快感を感じるような、重度の変態だ。通称トイレット委員長」
通称まであるとは筋金入りだ。というか、本格的に変態じゃないかあの人。
「まあでもあれだ、そんなやつだがキレる時はキレるぞ。特にトイレに関する事件なら、あいつの専門だろうな」
「そうなんでしょうね。それって誇っていいのか分かりませんけど」
「とにかく、お前は鶴木と一緒に犯人を探すんだ。トイレ係とトイレット委員長の名を持つお前らにしか出来ないミッションだぞ。気合い入れろよ。私は寝る」
そして本当に寝出した。せめてもうちょっと何か情報くれよ。ゼロからのスタートは難易度高過ぎるでしょう。
そんなんだから結婚できないんですよ、と心の中で呟くと、明確な敵意を持って睨まれた。やっぱこの人怖い。
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