424 転移

2009.11/朝日出版社

2011.11/朝日文庫


【評】うな


● さよなら、栗本薫


 〇八年九月から〇九年五月の逝去までを綴った、中島梓の「日記」。


 はじめ、前作にあたる『ガン病棟のピーターラビット』(ポプラ文庫)と同様のエッセイのつもりで書きはじめた〇八年三月の文章があり、この部分に関してはその前作と同じような文章になっていますが、本編となる九月以降ではエッセイのような読者に語りかける感じはまるでなくなり、事実を淡々と記したシンプルなものになっています。

 四十年来続けているという記録をもとに、その日に何を食べたかを書き、だれに会ったかを書き……ただ、それだけの文章。

 この部分は、今までの中島梓にない、クールと云ってもよい静かさがあって、思わず引き込まれた。愛読する池波正太郎の『銀座日記』よりこの形式をいただいたそうだが、正岡子規の『仰臥漫録』に遡ることのできる、死を前にした作家の、自己を含めた冷徹な死生観を、食を軸に描ききるという、まさに食に対してツンデレしつづけた中島梓に適した形式である。この「描きたいものに合った形式を的確に見出し、それに適した文体を瞬時に掴みとる」という能力は、実にデビュー期から栗本薫/中島梓を支えた最高の武器であった。中島梓の(今度こそ)遺作になるであろう本作において、その能力を発揮したのは、さすがというほかはない。


 が、すぐに力尽きていた。

 数十頁も進むと、いつのまにかエッセイや神楽坂倶楽部でおなじみの、主観と愚痴入りまくりの、ずるずるとした文章になっており、やはり内容もぐだぐだになっていた。結局のところ、栗本薫に失われたのは「文体を維持する能力」だけであったのかもしれない。昔の栗本薫ならば、一冊まるごと、いや二千枚ぐらいまでなら、当初の文体を堅持したまま、作品を書きあげることが出来た。それがいつのまにか百枚程度でいつもの手癖に戻ってしまうようになったという、ただそれだけのことなのだろう。

 文体はいつものぐだぐだに戻ってはいたが、やはり病身、良くも悪くも往年のごとき覇気はない。書いてある内容にも愚痴や攻撃的なものはほとんどなりをひそめ(それでも、いくらかは残っているのだが)、母親への感情も急激におだやかなものへと変わっている。


 ではなにが書いてあるのかというと、ひたすらにご飯のこと、身体が痛いということ、ただそれだけだ。なにを食べた、これを食べた、食べたら吐いた、かわりに別の物を食べた、最近は甘いものばかり食べてる、やっぱり米がいい、米がきもちわるくて食べられない、うどん食べきれなかった、黒糖をなめている、甘いものなんてやっぱりいやだ、等々……。

 やや錯綜としてはいるが、それでも以前のような「私は野菜と米しか食べてない!」と言い張るような意地をはった感じはなく、ごくごく自然に、自分の食欲をさらけ出している。

 感想としては、だから「それにしても、よく食べる人だ」の一言に尽きる。一食の量を減らす代わりに、とにかく色んなものをあらゆるタイミングでつまんでいる。これを健康なときにもやっていたのだろうから、それは太るだろう。実際、自分も似たように四六時中いろんなものをつまむせいですぐに太る。

 舞台で借金を負ってから十年で二十五kgも太ったことを「ストレス太り」であると何度も云っているが、たしかにストレスも一員ではあるかもしれないが、この本を(そして過去の数多の著作を)読むかぎり、慢性的な生活習慣に原因があるとしか思えず、そもそも十年かけての体重増加を、数年で完済したと自慢する借金のせいにするのはいかがなものであろうか?

 だがまあ、この辺はいつものことなので、ご愛嬌といったところか。なにせ今作中で、それも逝去のほんの数ヶ月前に「体重があの時に戻る代わりに健康になれる」と云われても断るだろう、とまで明記するほどに、痩せることにこだわり、肥満の存在を全力で否定しつづけた彼女なのだ。この程度のこと、いまさらつっこむにもあたるまい。

 なにより、実際に痩せたせいで心が晴れたのか、以前は攻撃性に満ちていた肥満およびダイエットに対する言動に、あまり刺がないので、気にならないのだ。

 そう、近年の日記・エッセイでの一番の問題であった「太っている自分に対しての理論武装」と「痩せてる女性への全否定」ですらが、この本でも影をひそめている。それほどまでに、この本の文章は穏やかだ。明確な変化、いや変身とすら云ってもいい。彼女は死を前にしてたしかに変わったのだ。


 しかし、それだけだ。他に新しいことや興味深いことを書いているわけでもなく、書き方に引き込まれるものがあるわけでもなく、死を前にした人間の虚無感や清涼さが出ているわけでもない。往年のようなくどさ・うざさは消えはしたが、その代わりに、敢えてこの本を読みたくなるような文章・内容の面白さというものは、一切ない。

 別に不快にはならないのだが、なにひとつ面白さを感じる要素はなく、驚くほどの無味無臭。生のこんにゃくを味付けなしで食べているような不毛感を与えてくれるばかりだ。

 冒頭の方で「本当の本音だけを書いていきたい」と語っているが、己の欺瞞からはそっと目をそらしたその姿勢は、作家として誇れるような「本当の本音」とはとうてい呼べず、しかし一般人として考えるなら十分に「本音」と云っていいレベルの素直さではあり、要するに、見知らぬ初老の主婦の普通のブログを読んでいるような感覚であった。栗本薫/中島梓が書いたという事実がなければ、ここにある文章には、なんの価値もあるまい。


 だが、ここが栗本薫の最終地点だというのは納得のいく話ではある。

 文体模写にてひきこませるが、それを剥いてしまえば、そこにあるのは感受性も磨耗し、新しい知識もなく、並外れた排他性も失った、ただの一人のおばさんだ。そう、普通のおばさんなのだ。その弱さも、凡庸さも、なにもかも。

 ただ「書きつづける」という一点のみが異様ではあるが、ほかの部分はすべて、ただのおばさんとなった。化けの皮が剥がれた、というべきか、元に戻った、というべきなのか、わからない。

 ただ、彼女は最後に、物語と出会う前の、ちょっと暗くて自意識過剰なだけの普通の少女、山田純代として死んだのだな、と私は思った。それは、悲しいことでもあり、祝福でもあるだろう。 

 彼女はいつだってイカロスだった。まがいものの翼で飛び立ち、どこまでも高く飛ぼうとして、だれよりも長く落ちつづけた。だが地に落ち命を失うその瞬間、イカロスは翼を持たぬただの一人の少年であったろう。栗本薫もまた、そうであっただけのことだ。

 それは愚かな姿であるかもしれぬ。だが、私もまた、彼女のようなまがいものの翼を持つイカロスでありたいと、そう思う。いつか無様に地に叩きつけられ、ありふれた死体をさらし、愚か者と笑われようとも。

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