419 ムーン・リヴァー

2009.09/角川書店


【評】う


● 作者死んだから完結東京サーガ



 この作品は栗本薫の死後「東京サーガ完結篇」と銘打って発売された。

「今西良の投獄後、いつも通りに島津さんちにぼんやりと居候していた森田透。島津は小説家に転身しており、売上・内容ともに高く評価されていた。しかしガンに冒されていることが発覚し、島津は気持ちに抑制が効かなくなり……」という内容。


 この作品はいくつかの章で、一応(本当に一応)独立した形式で書かれており、ある程度書いたところで放置、出版にあたって最終章を書き足してまとめる、という形をとられている。要するに、その時々で書きたいセックスシーンを書き、収集がつかなくなったから放置、それを無理矢理まとめる、という形だ。この形式は栗本薫が自己満足のためだけに書いたホモ小説の基本形態だ。『マルガ・サーガ』『通信教育講座』、遡れば『紫音と綺羅』等もそれにあたる。

 なぜわざわざこんなことをはじめに説明したのかというと、最終章以外は〇五年に、最終章のみが〇八年に執筆されているからだ。もっとわかりやすく云うと、最終章のみ、自身の膵臓ガンが発覚したのちに書かれているからだ。

 この作品の流れをもう少し細かく説明すると、以下のようになる。(ネタバレです)


一話 今西良に嫉妬した島津さんは透の首をしめたりしました。

二話 野々村さんは島津さんを視姦しました。

三話 島津「ガンだ! 犯らせろ!」透「オッケ~」……やりすぎた

四話 島津さんの「もうすぐ死ぬけどやりすぎて大変」自慢

五話 島津さん倒れたよ

六話 島津さん自殺して透錯乱、正気に返って唐突に終わり


 このような構成になっている。要するに、前半は島津さんがチンコチンコ云いながら透を押し倒すだけの話だ。

 この島津さん、チンコチンコはともかく、色々な設定が栗本薫の自己投影と自己理想化が相まって、非常に意味のわからないキャラになっている。

 人気作家に転身したという設定はもとより、文壇最高の栄誉であるN賞受賞などは、終生見向きもされなかった直木賞に対する憧憬を感じざるを得ないし、その受賞作のタイトルが、実際に自身が角川で出版した『狂桜記』であるなど、なかなか人に見せられない願望充足っぷりがいっそ清々しい。(ちなみに実際に出版された『狂桜記』と作中の同名作はストーリーはちがうようだが、時期的に見て『ムーン・リヴァー』は『狂桜記』上梓の直後に書かれているようだ)

 で、その島津さんの書いている小説が大正浪漫的な時代がかった設定で、好きな女をひたすら犯りまくって殺したり、殺してから犯したり、要は島津さんの「透と犯りたい!」という気持ちをあの手この手で発散させた作品となっている。己の性欲をありのままにぶつけたそれが、作中では本物の文学として崇め奉られている。晩年の栗本薫の作品群を鑑みるに、あからさますぎる願望充足と見ざるを得ない。


 褒めておくと、文章はけっこうまともだ。ことに最初の方は、ちとだらだらしている部分も目につかないわけではないが、流れるように静かな文体は往年の栗本薫の片鱗を感じさせるし、なにより透と島津さんのキャラクターが、意外にもあまり崩れていない。少なくとも、話し方はきちんと往年の二人のままだ。

 ただ、これが話が進み、セックスシーンにいたるとまた変わってくる。皮肉でべらんめえ口調なところは島津さんらしいままだが(どうでもいいが、その口調のせいで、島津さんが麻生元首相に見えて仕方がなかったのは秘密だ)うわごとのように「愛している愛している」うるさいし、また二言目には「チンコチンコ」うるさいので、とにかく島津さんにはもうちょっと落ち着いて欲しかった。

 栗本薫のセックスファンタジーが激しすぎるため、島津さんのプレイも気持ち悪いの一言。ことにお菊に手首突っ込んで透を病院送りにするくだりは、素直にお尻が痛くなったのでほんとに勘弁していただきたい。おれは三十をこしてから晴れ時々切れ痔なので、人事ではないのだ。


 そういうセックスシーンを見なかったことにして、末期を迎えつつある島津と野々村のあけすけな会話は、俗なことを語りつつも清涼さをともない、いい台詞がちらほらと混じっている。二人ともが望んで傍観者として人生を過ごしてきたことに対して、後悔めいた感情を抱いているところは、死を意識した人間ならではのシーンであると思う。

 また島津さんが「わが生涯最後の小説」を書き終えた後に、自分の望む日に自害することを決意しているところなどは、文士としてもっとも格好よい、理想的な死に方であるとは思う。ガンによる死を微塵も恐れず、痛みも苦しみもすべて自分の内にしまいこみ、己の人生の終幕をすべて自分で演出しようとする、このあたりの島津さんはわりと素直にカッコイイ。

 しかし、それらの文士としての決意は、放置されたのちの最終章ですべてなかったことになる。結局、あれほど宣言していた「わが生涯最後の小説」に関してはろくに記述されることもなく、特にどうといったきっかけやエピソードが描かれることもなく、島津さんは唐突に、一方的に、身勝手に、意味もなく自殺をする。

 この辺りの島津さんの卑怯とも云っていい変節は、五章と最終章との間で栗本薫自身が膵臓ガンを宣告されたことと、無縁ではないのではなかろうか?


 栗本薫は、膵臓ガンを宣告されたのち、己の作家人生に対してなんの責任もとることもなく、グイン・サーガも、魔界水滸伝も、伊集院大介シリーズも、夢幻戦記も、ありとあらゆる作品を、何一つけじめをとって完結させようとする気配を見せず、また後事に対してなにか指示を残すことなく、完全に放り投げる形で作家人生に幕を閉じた。ガンの宣告より一年以上もの年月を許され、その間に何冊もの小説を出版し何十回ものライブを重ねる猶予を天からもたらされながら、だ。

 島津に「わが生涯最後の小説」を書かせられなかったのも、当然の話だ。実際に死を前にした栗本薫は、小説をクローズドさせることに対して、何一つ意欲を見せなかった。むしろ空虚なオープン状態でありつづけることを選んだ。彼女にとって、死を前にして「作家人生をしめくくる」ことなど、なんの価値も見出せないことだったのだ。結果が、それを証明している。

 こうした栗本薫自体の作家としての、いわば士道不覚悟が、島津正彦というキャラクターを最後に濁らせた。島津の死後、透は錯乱し、その狂気からかえると同時に深い絶望を味わって、この物語は幕を閉じている。結局、島津という男は仕事もいいかげんに放り投げ、愛する透に金や家以外の何一つ残さず、ただ絶望だけあたえて一方的な思い込みで自害しただけに終わってしまった。

 結局、二十年以上にもわたって描かれた島津正彦というキャラクターは、なんだったのか?


 そしてそれ以上に残念な点が、森田透の変質だ。

『朝日のあたる家』後半で、よくわからない理屈で今西良と恋人同士になった透は、今作では良の出所を待っていることになっている。が、島津に迫られると「どちらかを選ぶことなんておれには出来ないけど、いまは島津さんが目の前にいるから島津さん」というノリで、あっさりと良を切り捨てたのは驚くを通り越してあきれてしまった。

 そのことに対して「良を傷つけるかも」とか云いながら、面会に行くこともなく手紙も疎遠になり、挙句「良はもともとノンケだからホモの痴情沙汰から足を洗うためにおれを利用しただけの気がする」などと勝手に云いはじめ、一度も会うことも話すこともなく一方的に良とのことを終わりにしてしまっているのは、もうあきれたすらも通りこして感心してしまった。ほほう、お前はそこまで現実と対決することなく己の理屈だけでなあなあに済ませようとするのですか。たいしたものだ。やはり……天才としか。

 そしてなすがままにセックスづけ……は、もともとそういうキャラだったからいいとして、島津が死んだら「島津さんはぼくの心の中にいるよウフフアハハ」で、唐突に「あ、ちがう、どこにもいないんだ。ガーンだな……」で終わるという、庇護者がいなくなって放心して終わりって、お前、『翼あるもの』からなにも変わってねえじゃねえか!むしろ後退しまくってんじゃねえか!

 そもそもしょっぱなから完全に勤労意欲を見せず、正真正銘ただのニートとしか云いようのない生活を満喫しているかと思いきや、庇護者が死んだら「一緒に殺してくれればよかったのに」では、お前、本当に親が死んだら路頭に迷うヒキコモリのニートそのものじゃねえか! なんだよこれ、二十何年もかけて描きたかったのは「ヒキコモリは親が死んだら何も出来なくなる」という話なのかよ! 当たり前すぎんじゃねえか!


 他にもまあ、島津さんだけ時空が歪んでいるとか(『朝日~』から一年くらいしか経ってないのに七歳くらい歳をとってる)野々村さんが直前の『嘘は罪』からキャラクターも経歴も変わっているとか(つかこれは『嘘は罪』だけおかしかったんだが)精密に読んでいけばいくらでもおかしな点は出てくるだろうが、そんなものはどうでもいい。

 とにかく三十代も後半を迎えた透のニートっぷりと進歩のなさが、ホントにもういらいらというか絶望的な気持ちになる。薫さんよ~、あなた云ってたじゃないか。ほかのキャラクターはどうなるかわからないが、森田透というキャラクターだけは確実にハッピーエンドを迎えるって。神楽坂倶楽部で云ってたよね? ログ消えちゃってるけど、おれは鮮明に覚えてるよ? それがなに? これがハッピーエンドなの? ニートエンドがハッピーエンドなの? もうおれは薫の考えている事がわからないよ!

 読み終わって半日ほど、かくのごとく荒れるほど、この作品の後味のわるさといったらなかった。人生の半分以上にもおよぶ栗本薫への信頼を、物語への愛を、森田透というキャラクターへの共感を、最後の最後で木っ端微塵に打ち砕かれてしまった感じだ。

 いままでのガッカリ感は五割が文章の劣化に対するもので、三割が誰得なエロシーン、二割が話のひどさのせいだったが、今作は九割がいままでの積み重ねのぶち壊しによるものだった。それほどまでに、自分にとって森田透と島津正彦というキャラクターは特別で、聖域だった。死んでからなお読者を苦しめるとは、まさにこれぞ孔明の罠。


 栗本先生はとんでもないものを盗んでいきました。あなたの心です。

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