315 接吻 ―栗本薫十代短編集―

2002.12/角川書店

2005.04/角川文庫


【評】うな(゚◎゚)



● 山田門弟の一人稽古

 

 栗本へんへがデビュー前にしこしこ書き溜めてたのをまとめた短編集。

「十七歳」「十八歳」「十九歳」「二十代」と部を分けて掲載されている。


『ぬくもり』

 十七歳の時の作品。母を亡くし、父とお手伝いさんと暮らしている少女が、ぬくもりを求めて男たちの間を転々とし、破滅する姿を描いた掌編。

 小説というよりは高校時代の山田純代嬢の鬱屈をそのまま書いたポエムである。ストーリー的に見るところはないが、少女が時@分の気持ちをストレートに形にしたものとして、後の栗本薫の片鱗を感じることはできる。

 特にお手伝いさんに対する「私の繊細な気持ちをわかってくれない」という子供じみた気持ちが克明に書かれており、「この家の中は寒いのぬくもりが欲しいの」と家中の電気を点けっぱなしにしていたらお手伝いさんに「電気代の無駄」と消されるところなどは、もはや植田まさしの四コマ漫画で「んも~!!」と云っている情景が思い浮かぶ完全なコントである。


『接吻』

 十八歳の時の作品。病気で死んでいく美少年の、生涯ただ一度の接吻の思い出を描いた掌編。そのストーリーのなさといい、やけに肩に力の入った文体といい、無駄な旧字体といい、小説道場の低級組が送ってくる作品そのものである。文章には美しくあろうという気概と才覚が見えるが、面白さはまったくなく、「栗本くん、とりあえず四級。次はもっと長い話がみたい」で終わるような作品である。


『ママンの恋』

 十八歳の時の作品。横須賀にあるゲイバーのママと米軍兵の恋の話。相変わらず短いが、ストーリーじみたものが発生しており進歩が見えるほか、視点がこの二人を見ている客の一人称となっているのも、当事者ではないもの特有の優しさや切なさを感じる良い文体である。

 とあるお店のマスター/ママの切ない恋の話というのは、デビュー後の初期短編で幾度か書かれ、やがて舞台版『いとしのリリー』を経て、舞台『ペンギン!』が総決算というべき作品となった。小さなゲイバーの優しく悲しい情景を現出させたいという情念の端緒として、後の栗本薫を明確に感じさせる作品である。小説道場でオカマを安易なオカマ言葉でしゃべらせることをやたらと怒っていたのはこだわりがあったからなんだね。

 小説道場と云えば、この作品、「二人きりの密室で起きたできごとを第三者の語り手がリアルタイムで語る」という、道場主がしつこく指摘したような視点の大ポカをやっている。なあんだ、若い頃はへんへもこんなミスしてたんだ、と微笑ましくなる瞬間である。


『高野詣――色子曼荼羅』

 十八歳の時の作品。ある男が、高野山で聖に罪を告白する。それはとある色子に対する妄執の物語だった。

 要するに太宰治の『駈込み訴え』である。が、元ネタのように、だんだんユダとキリストの話だとわかっていくような妙味はなく、役者に恋をし芝居小屋の下男となり付き人になり、やがて殺す情景をストレートに描いている。

「性悪な美少年に狂わされていく醜い下男」という関係は、イシュトヴァーンとアリストートスをはじめ、長短編で幾度となく繰り返される栗本薫の黄金パターンであるが、今作でもブサイク男の劣等感と執着に満ちた語りには迫力があり、十八歳の時点ですでに確立されていたのかと、純代嬢の非モテマインドに戦慄する一篇。


『おゆき』

十九歳時の作品。時代小説。おゆきは父のはからいで嫁に行くが、嫁いだ先の男は藩の未来を憂え、奸臣を切り切腹する覚悟をすでに決めていた。

 デビュー後の初期短編集『女狐』の諸作品を思わせる、大人びた時代小説。封建社会において道具でしかなかった女性が、自分の生きる意味を求めた末、客観的には不幸な、主観的には幸福な生き方を得る様は、幸不幸は他人の定規では測れないと事あるごとに主張していた栗本薫らしい作品である。

 後年、北朝鮮の拉致問題に対して「拉致されて北朝鮮で半生を過ごしたからと云ってその人が不幸であるとは限らない」という旨の発言をネット上でし、批判されたりもした栗本薫だが、その発言が迂闊であるのは事実とはいえ、根底にある思想を自分は決して嫌いではない。


『六月の魔女』

 十九歳時の作品。森茉莉風の文体でなにいってんだかよくわからない作品。

 オチも何もないため、ただ普通に読むとなにが云いたいんだかさっぱりわからないが、執筆が十九歳の時であることに着目すると途端にわかる。

 この時期、栗本薫は大学に入学して初彼が出来た時期である。つまりこの話は、「彼氏って束縛するから面倒くさいけど好きだわあ」ということを森茉莉風の文体で酔って書いたJDポエムである。今日でもSNSを漁れば絵文字たくさんで書かれた類似のポエムが見つけられるであろう。本人にだけ価値のある浮かれたポエムのため、作品としての価値は見出しにくい。


『十二月』

 十九歳時の作品。すぐ前の話の続編であり、「彼氏好きだけど常識人過ぎて自由人な私にはつらたん」という、交際数ヶ月後のお互いの価値観が合わないことを嘆いた、やはりポエムである。この二作の価値は、元カレとの思い出ポエムというまっくろくろすけな黒歴史を世に発表した栗本薫の豪胆さ以外には存在しない。でも凄いとは思う。普通できないよ、これの発表は。


『神のあやまち――フレデリックへの手紙』

 十九歳時の作品。義弟との同性愛で罪を問われ引き離されたキリスト教徒の男が、義弟に宛てた三通の手紙。

 ショタホモが思わず手を出して「お前未成年になにやってんだよ」ととっ捕まったものの「古代ローマでは云々」「我々は間違ってい云々」と長々ぶつふつといった挙句「私が間違っていないならあやまっているのは神のほうだ」「引き離されて二度と会えないけどぼくの心の中にある君は永遠に美少年のままだからある意味ぼくの勝ちだ」と宣言する、サイコホラーである。相手である義弟の考えていることが一切書かれておらず、真相がまったくわからないため、長々とした語りの気持ち悪さも相まって、ショタレイプした変態が妄想勝利宣言をしているようにしか見えない。

 そういった意味で先の『高野詣』を発展させ、小説としての妙味が加わった作品と云えるだろう。

 でももしかしたら、薫的には相思相愛の純愛を書いたつもりで、変態妄想日記として読むと嫌がられる可能性もある。ぼくにはわからない。わからないんだ……。


『不在』

 十九歳時の作品。言うことを聞いてくれる彼氏を「言うとおりになるなら幻影だ」と断じて殺すショートショート。

 ショートショートとしての面白さはないが、先の『六月の魔女』『十二月』と合わせて読むと、初の恋人に対して、思い通りにならないことに対する苛立ちと、思い通りになってしまったら恋人ではない、という現実の恋愛に悩む少女の姿を見ることが出来る。

 栗本薫はよく「旦那はまったくタイプの男性ではない」といったことを書いていたが、それは外見のみではなく、彼女の理不尽をとりあえず受け入れる姿勢を見せる旦那の性格に対してのものでもあったのかもしれない。


『二十歳の遺書』

 二十代の作品。あなたを待つのに疲れたからもういい、もう別れるの。という、やはりポエムである。

 栗本薫は大学時代の初彼と、半年の蜜月、半年の喧嘩、三年間の微妙な時期、という実に大学生らしい恋愛の末に別れたらしいので、この作品はその微妙な時期に「もういい!もう別れる!」という気持ちになった瞬間に書いたポエムなのだろう。

 結局大学卒業時まで別れずにぐだぐだと続いていたことも含めて、本当にJDのSNS感あふれるポエムである。


『壮士の雪

 二十代の作品。昭和初期、自由民権運動に燃える三人の若者は、惰弱な同志たちに見切りをつけ、独断で暗殺を目論むが……。

 いわゆる昭和維新失敗の話である。理想に燃えていたが、土壇場で命冥加に生き延びてしまうみっともなさに生を感じる一篇である。「男として生れたなら為すべきことを為して見事に散る」という司馬遼太郎的な男の浪漫感覚を否定する栗本薫の描く生きることのみっともなさは、後にグイン・サーガをはじめとした数々の長編で登場人物の失墜を招いたが、基本的には自分はこの生き汚なさは好きだ。この作品の結末のイメージは、『翼あるもの 下巻』のラストシーンに生かされている。

 作品としては短編未満といった作品でいかにも物足りないが、そうした意味での栗本薫を感じられる悪くない作品である。


『Blues with a feeling』

 二十代の作品。大学を休学しながらだらだらとバンドをしていた主人公に、チエという女が出来る。なにをいってもうすく笑い、黙って頷いて抱かれるチエにいつしか本気になっていくが……。

 あとがきにも書いてあるが、所期の傑作中編『ONE NIGHTララバイに背を向けて』のプロトタイプである。文章、展開、表現、すべてにおいて『ONE NIGHTララバイに背を向けて』の方が完成しており、ゆえにこの作品自体を普通に読む必要はまったくないが、二作を見比べることによって作品として完成されたものとアイデアだけのものの違いを見ることができる。

 また『ONE NIGHTララバイに背を向けて』に比べると今作のチエは、京都のボンボンとつきあっていて、可愛げがなくて、自分も楽器をやっていて、なに考えているかわからなくて、実は良家の子女で……と、明確に栗本薫自身をモデルにしているのがわかるのも面白い。



 総じて云うと、この短編集は普通に読む分にはさして面白いものではない。文章はすでにそれなりに上手く、創作をする内的必然・情念は感じられるが、ストーリーがあまりにもうすく、盛り上がりに欠け他人を楽しませようという意志が微塵も感じられない。もっとも、実際に自分のためだけに書いた作品なので、それは致し方あるまい。

 ただ、やはり後の栗本薫を思わせる部分は非常に多いため、ファンとして読む分には非常に興味深い作品集である。


 個人的に一番楽しめる今作の読み方は、小説道場の副読本として、だ。

 小説道場、ことに初期の道場では、小説未満のポエムや掌編が数多く送られてきて、その短い作品の中からも才のきらめきを感じ取る道場主の姿に畏敬の念を禁じえなかったものだが、なんのことはない、道場主自身も若いころ、同じような小説未満のポエムを書いていたからわかるのだ。技術的な問題や視点の乱れ、カッコつけだけの旧字体、読者への気遣いの不在など、若者特有の失敗や気負いに鋭かったのも、すべてへんへ自身がかつて直面し、意識して越えてきたことだったからなのだ。

 こうした若書きの欠点が一作ごとに修正されていく様は、中島梓道場主が山田純代門弟に稽古をつけているかのようである。

 小説道場と合わせて読むことで、いろいろ勉強になるのは間違いない。


 あとがきが(爆)のつきまくった読みにくい文章になっているのも、ある意味勉強になりますしね……。「若いころに講道館柔道をやっていたから意外と筋肉がある」と中年になっても云っていた薫だけど、人間の肉体も頭脳も研鑽しなければ衰えるという事実を認識しなきゃだよね……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る