244 六道ケ辻 大導寺竜介の青春

1997.12/角川書店

2001.01/角川文庫

<電子書籍> 無

【評】 う

● チンコ勃つけど性欲じゃなくて友愛


 戦後の混乱の最中、大導寺一族を再興させた巨魁・大導寺竜介。まだ十七の学生に過ぎなかった昭和初期、彼には二人の親友がいた。貴族の退廃の血をもみてあます一乗寺忍と、知性と恋心のあいだで苦悩する藤枝清顕。まったく異なる性質を持ちながら、なぜかいつも共にいた三人の関係は、怪人赤マントの噂が東京をかけめぐるころ、忍の突然の変化により変わろうとしていた――『六道ヶ辻』シリーズ第三作。


 主要人物や時代が一作ごとに変わるこのシリーズにおいて、唯一すべてに登場する人物である大導寺竜介をタイトルに据えた物語。だが主人公は竜介ではなく竜介に恋している親友「竜介好きだけど性的対象じゃないからホモだけどホモじゃないよでも近くにいるとチンコ勃つよ」清顕である。

 男、それもガチムチの軍人志望に対してチンコが勃つならホモだから安心してほしい。というかなぜ薫はわざわざ近くにいるとチンコ勃つって書いたの……この地上でもっとも存在価値のない生命体である「男のメンヘラ」の気がある僕としては、若い頃に同性の友人に恋愛のように執着してしまう気持ちはよくわかるというか、そういう経験はあるんだけど、チンコはピクリともしなかったよ……チンコが勃ったらその時点でホモだと気づくでしょ……。

 いや、別に「チンコ勃つ」とはっきり書かれているわけじゃなくて、正確に原文を記すと「手をつかまれ、せまい室のなかで身をよせあって想うあいての体温を身近に感じていると、それは清顕も立派な思春期の男性だから、もよおすものは機械的にもよおしてくるし、感じるものは自動的に感じてくる」だけど……いや、これ明確に「チンコ勃つ」って云ってるなやっぱり。しかも言い訳になってない言い訳をしているせいでどんだけビンビンなんだよって感じでキモくなってるし……。こんなんなら『ゴールデンカムイ』みたいに「勃起!!」って書かれたほうがずっと気持ちよく読めるよ……。


 主人公の勃起事情はさておき、この話、明確に読んだ記憶はあるのに、読んで二、三年経つころには完全にストーリーを忘れていて、一体何故なのだろうと思っていたが、今回読み直してみてよくわかった。とてつもなくストーリーが薄いのだ。

 とにかくなかなか事件が起こらない。最初の200ページくらいだらだらと「ホモだけどホモじゃないよチンコ勃つけど」に代表される、全然おもしろくもなければ少年時代の人間関係の機微をとらえてもいない会話がずっと続く。作者当人としては力を入れているのであろう昭和初期感も全然ない。

 栗本薫は良くも悪くも「その時代・世界の人間の生活の匂いを感じさせる」ということにもっとも力を注いでいる作家だが、ジャンルによってその出来不出来はハッキリとしており、大正・昭和浪漫ものは、ぶっちゃけ一番ヘタである。

 確かに自分はこの手の大正・昭和初期ものがそんなに好きではないが、それでも江戸川乱歩にはハマったし横溝正史も読んだ。栗本薫と近いフィールドで活躍していた作家ならおなじ幻影城出身の連城三紀彦や、JUNE読者が一度は通る赤江瀑に、久世光彦の諸作品。下の世代の作家なら京極夏彦も定番として読んだ。彼らの作品に比べて、栗本薫はまったくこれっぽっちも昭和初期感がない。ディティール弱すぎ。言葉遣いや小道具の数々にぜんぜん匂いが足りていない。カフェーとか円タクとかたまに云えば昭和初期になるとでも思っているのか。つうか円タク言い過ぎ。


 そんな昭和初期感がまったくない雰囲気のなか、いったいなにがしたい話なんだよこれと思っていると、中盤で唐突に友人キャラである忍がカマ掘られて身も心もジルベール化する。本当にジルベール化としかいいようのない劣化ジルベールである。そしてようやく、この変わってしまった友人に振り回されるのが話の中心であるということがわかる。

 が、ここでもやはりディティールが足りない。描写はジルベールになりきっている70年代の痛い女子中学生にしか見えないし、意図のわからないメンヘラビッチに振り回される感じも、『ライク・ア・ローリングストーン』などの初期作に比べてあまりにも薄っぺらい。基本的にぶつぶつ独り言いう時間が長くて、実際の行動が少なすぎて振り回されてる感が足りない。

 最終的に、このホモビッチがなぜビッチ化したのか、その理由や内心が判明してオチになるわけだが、そこにオチもってくるならもっとちゃんといろいろなことして「こいつなに考えてんだよ」って思わせてよ……ページ数は多いのにやってることが少なすぎるんだよこの小説……。


 もうひとつの話の中心である、「性的対象でない同性に恋をしてしまいどう成就すればいいのかわからない」という部分も、中盤で「お、お前わいが好きなんか。抱いたろか?」「いやホモじゃないからいいっす。でも一生一緒にいてくれや」「ええんやで。まあ言葉だけだけどな」というようわからん会話で解決したことになってるし……。チンコ勃ってたくせになにいってんだこいつ……。チンコ勃っちゃうけど友情をとった、という話ならわかるんだけど、チンコ勃ってたことなんかありません最初から友情ですみたいな話しぶりだし……お前が勝手にもよおしちゃうとかいい出したんやで?


 文庫で500ページ弱あるからけっこう長い話なのに、ホントいろいろ薄すぎるよ……だらだら会話しているだけだからシーンの数も少なくて退屈だし、かといって恋愛や人間関係の機微も薄くてすぐにご都合主義的に展開するから、狭い関係を深く描いた作品でもないしさ。

 そんで最後はまた火事だし。薫は火事起こしすぎ。ワンパにもほどがあるだろ。木造住宅見ると火をつけないと気が済まんのか。いやファンタジーでも現代ものでもなんでも隙あらば火事にするからもうとにかく火事にしたくて仕方ないだけか。そりゃ火事起こせばカタストロフ感は出るけど、もうちょっとバリエーション増やしてよ……災害なんてたくさんあるのにいつも火事にすることないじゃん……あと白痴の妹も一作目で出したばっかじゃん……いくら自分に障害者の弟がいたからってモチーフかぶりすぎだろ……しかも扱い雑だし……。

 そんでもって連続殺人鬼赤マントを追う話としても、みんなして「ひと目みてあいつが赤マントだと思った」とか云い出すし、しかも当たってるし、なんやそれ。普通そこまで露骨に怪しまれてるキャラって外すよね……。ミステリー風味が薄いにもほどがあるだろ……。


 描きたかったのは、タイトルの通りに青春時代の輝きと、それが変容していってしまう時の流れ、といったものだったのだろう。

 また今作のみならず、このシリーズ自体が大導寺竜介という人物を時代と状況とによって別人かと思うほどに違う姿で描くことによって、そうした時の流れ、人の多面性、同じ性質のもつ光と闇を描こうという意図をもって書かれたシリーズであると思われる。今作はタイトルの通り、竜介の光を強く描いた作品だ。(逆に同一人物の闇を描いた、今作の対となる作品が第五作目『死者たちの謝肉祭』である)

 その意図自体はわかる。悪くない。元軍人で、戦後の混乱期に様々なことをしてのし上がった人物というのも、そうしたテーマを描くに良い題材であると思う。

 問題は、光と闇をもつ傑物であるはずのこの大導寺竜介、「こいつやべえよパワフルだよすげえよ」って何度も作中で書かれてるわりに、実際にはほぼなにもしていないのである。ホモセックスはしょっちゅうしているが英雄的な行動など全然していないのだ。

 これは栗本薫自体が「すごいよー」という前置きはしまくるが、実際に活躍するシーンは案外あっさりというか、まあハッキリ云うとしょぼい作風の作家なんだけど、それでも八十年代はまだちゃんと行動するシーンを盛り上げて英雄としてみてもらおうという努力をしていた。けれど九十年代半ばを超えると前置きだらけでほぼなにもしない、しても凄いしょぼいことだけ、という英雄がやたらと増えてしまった。

 このシリーズの竜介はまさにその典型で、完全に設定に沿ったものを実際に書く実力が作者になかったパターンである。

 

 つうか根本的に、時の流れやそれによって変わっていく人を描きたいと薫はよく云ってたけど、その部分は上手くないよね……。わい、大河作品のそういう「昔はいい人だったのがこんなことに……」とか「あの重要キャラがこんなにあっさりと無駄死にを……」とか、そういうのだいたい好きなんだけど、栗本作品は「お前の変わり方おかしいわ」「適当に殺すなや」って思うのばっかのだもの……。

 なぜかというと、そりゃ時の流れ、運命の無常さを描くのと、メアリー・スー作品って思いっきり相性悪いんだよ。作者の思い入れやえこひいきによって作中の扱いや運命が変わっていると思うと、露骨に萎えるもん……。ああいうのは好きなキャラや思い入れのあるキャラを敢えて雑にあつかうことによって生まれる感慨なんだよ……薫も大好きな『摩利と新吾』の最終回みたいな、主役も美形もモブも一緒くたに死ぬみたいなの、薫できないじゃん……向いてないんだよ大河作品に……自己愛が強いから……。


 なんかなんの感想を云っているんだかわからなくなってきたけど、少年時代の淡い同性愛を描く作品としてはダメ、連続殺人鬼を描いた作品としても適当でダメ、人が変わってしまう様を描いた作品としてもただのいつものクソビッチでダメ、昭和初期の陰のある時代を描いた作品としても論外。

 今作に関して総じて云うと「ひどい」というより単純に「下手」である。ストーリーやモチーフ自体を見ると面白くできそうなものを、文章力にせよディテールにせよ構成にせよ、全体的に作者の力量不足のせいで駄作になってしまった感が強い。


 栗本薫は生涯新人賞以外の文学賞から縁遠かった。それは実力もあるが、そういう賞レースに向いた作品がなかったというのも大きい。だが六道ヶ辻シリーズは、旧家の戦前戦後のゴタゴタを描くというコンセプトと、八十年代にベストセラーを連発していた作者の過去の実績などからすると、文学賞を狙えるような作品だったはずだ。具体的に云うと山本周五郎賞や泉鏡花賞を狙えるコンセプトだった。だが実際はまったくそういう作品の愛好家の目には止まらず話題にはならなかった。

 単にクオリティが低かったからである。

 ファンとして、そう判断せざるを得ないのが切ない。


 ところで文庫版巻末の解説で、2001年にシリーズ最終作である六作目が刊行予定と書いてある。やっぱり全六作予定で良かったのだ。

 第一作目のタイトルである『大導寺一族の滅亡』は本来はシリーズタイトルだったということ、シリーズを通して大導寺竜介というまだ存命の一族の中心人物をチラチラと出していること、五作目の『死者たちの謝肉祭』で竜介の闇を描いたこと、などを考えると、おそらく老いた大導寺竜介が現代で死ぬ話が最終作だったのではないかと思われる。昭和の象徴である竜介の死によってあの時代は幕を閉じ一族は滅んだのだ、としたかったのではなかろうか。だとするなら、その最終作を書かなかったことは画竜点睛を欠くというか、シリーズ全体が台無しになった感がある。大正浪漫伝説じゃねーよちゃんと六道ヶ辻の尻拭いてから次行けよ。

 いやまあ、現代編に出てくる大導寺の末裔と藤枝家の末裔がホモカップルだから、子孫がホモになったから子供ができないで一族滅亡というオチだったのかもしれないけどね!

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