203 好色屋西鶴 第二部
1995.06/実業之日本社
2001.10/ジョイ・ノベルス(実業之日本社)
【評】 う
● やり逃げクソ作家宣言して終了
いろいろあって(いろいろあるとは云っていない)井原西鶴は寿命で死にました。おしまい。
うわ、つまらんなこれ(ストレート)。
第一部を再読した時は当時の印象より面白かったので「おっさんにならないとわからない類の話だったのかな?」と思いかけてしまったが、そんなことはまったくなくこの下巻はクッソつまらん。
まず第一部に比べてストーリーがない。第一部は趣味で俳諧をする商人であった平山藤五が、名を挙げ専業の俳諧師となり、妻を亡くし、夢の中で世之介と出会い、浮世草紙作家に目覚めていく、といういわば井原西鶴誕生までの物語として成立していた。
一方、この第二部の内容は、陰間とのホモセックスにハマり、昔処女喰いしたブスに迫られて逃げ、遊郭に泊まっているときに娘が死んで「わしは好色屋だから帰らん!」とよくわからん宣言をしただけである。前半はずーっとはじめてのホモセックスだし、中盤はずーっと夢の中での男女3Pを描いているだけだ。浮世草紙作家としての西鶴がどのような作品を重ねどのような反響を得たのかの描写は極めて薄く、草紙作家となった後に達成した一晩で二万三千吟句という偉業に関しても過去のこととしてサラッと流し、「たくさん書いた」ということ以外には西鶴がどのような作家であるのか、この作品から知ることは出来ない。このタイトルで分厚い上下巻で、これほど西鶴についてなにも知ることが出来ないというのはビックリである。
文章も第一部に比べてずいぶんと荒れている。時代小説なのに場違いな横文字がアクセントの領域をはるかに逸脱して増えて雰囲気を壊し、同じ言い回しが同ページに連発するという推敲してない物書き特有のアレが多発し、完全に後期栗本薫の駄目な特徴が目立つものになっている。
登場人物の使い方の下手さも凄い。真面目だがそれゆえに才覚に欠ける一番弟子の鶴扇も、妙に処世に長けた弟子の鶴水も、西鶴に処女喰いされてそのまま女中として居着いたブスのおあきも、第二部になって唐突に登場した馴染みの色子も、人物配置からすればもっと面白いことをしそうなのにまったくなにもしない。なにかするために出したのだろうと思ってたのに、本当になにもしない。
特におあきはひどい。普通に考えると西鶴のせいで人生をめちゃくちゃにされたこの女中がなにかをするか、あるいはこの女のせいで西鶴がどうかなるかすると思いがちだが、一回西鶴に迫ってものすごいブサイク罵倒された上に「外見じゃなくて性格が嫌」と存在を全否定されるだけである。
どうも栗本薫の小説では「下女」という存在は外見も内面もとことん愚弄してよく、なにも報われずなにもせず無為な存在として扱っていいことになっていて、ストーリーに生かさないなら胸糞悪くなるだけのこの扱いになんの意味があるのかと疑問に感じてならない。
その元凶は、栗本薫が実家で働いていた住み込みのお手伝いさんに対するよくわからん恨みである。栗本薫は「このお手伝いさんがいろいろ食べさせるから太った、辛かった」と実家を出て二十年以上も経ってからのたまいだしたのだ。「子供だから気をつかって断れなくてトイレにおにぎりを捨ててた」とかの時点で「おい、てめえ被害者ヅラしてなにやってんだ」感のある告白であったが、仮にお手伝いさんのせいで太ったのが事実だとしても、薫はハイティーンの頃にダイエットして痩せたじゃん……また太ったのは結婚して実家出てからだからお手伝いさん関係ないじゃん……なんで今の自分が太っている憎しみをお手伝いさんに向けてんだよ……という気分にしかならない。
そんなお手伝いさんに対するキモい憎しみが悪い影響を与えている作品が栗本薫にはちょくちょくあるのだが、本作はその中でもトップクラスにひどい。ひたすらに馬鹿にするのが悪いのではなくて、それがストーリーにまったく生かされないのが本当に最悪。というかストーリーの前半から出ているし、その後もたびたび出番があるので、なにか大きな役割を果たすのかと思っていたのに本当になにもないなんて、信じられない。
幻の存在である世之介のセックスに影響されていく長い描写も、第一部では男色に興味を持ち浮世草紙作家として目覚めるという役割があったから納得のいくものであったが、第二部のは本当に無駄に長いだけで、なにか目覚めたようなことばかり云っている西鶴が、目覚めてなにをしたのかという中身がまったくないので、なにに目覚めたのかさっぱりわからない。
クライマックスの、娘が死んだことを伝えにきた弟子やおあきに「お前も俺もみんないずれ死ぬんだし葬式になんて帰らん」という長い長い宣言も、好色屋としての宣言というよりは「面倒くさいことはしたくないから帰りたくないもん」という駄々っ子にしか見えない。おあきに迫られたことに対してまったく説得力のない罵倒を内心でして逃げるだけで、実際的な処置はなにもしていないことも、それに拍車を掛けている。まったくもってどうしようもない人物であり、ストーリーである。
別に西鶴を立派な人物や、道理の通っている人物として描けといっているわけではない。ひどいのは、このどうしようもない西鶴が受けるべき因果の応報をまったく描かないストーリーだ。かなり面倒な状況を謎の宣言で全ツッパして、次のシーンでは唐突に死ぬ間際の走馬灯がはじまり、そのまま女護島に行くという形で寿命を迎える。社会性のないわがままな人間が現実にとっ捕まる顛末も描かず、さりとてうまく逃げ続ける姿も描かずでは、全然おもしろくない。
第一部の感想で「栗本薫の当時の内面の問題を投影した観念的な小説」というようなことを書いたが、第二部ではその傾向がより強まっている。粗製乱造や様々なものに手を出す節操の無さ、それゆえに古い読者から批判され愚痴を云う姿などは、完全に栗本薫のメアリー・スーである。
その結果として、本作は駄作となった。栗本薫が当時に直面し、しかし向き合いたくない様々な現実から、西鶴も目を逸らすことになってしまったからだ。現実の様々な問題に対し、現実的な対処を一切せずよくわからん精神論だけで勝利宣言をし、その逃げた報いも受けず、なぜか肯定されなくてはならなくなった。それが栗本薫の精神性・生き方そのものだから否定してはいけないのだ。
ある種、本作は予言、あるいは宣言の書である。なにか問題が起きても、好き勝手しかしないし、私は絶対に悪くないし、責任など死んでも取らん、という栗本薫の気持ちが実に素直に書かれている。その性質ゆえに起きるトラブルを描けない=正しく認識できないのも、その後の栗本薫を見ればまったくもって道理である。
要するに、作家としての転換期を迎えていた栗本薫の心情をトレースするように描いた本作は、結果として栗本薫が作家としてダメになる道を選んだためクソになってしまったのである。
栗本薫が粗製乱造に拍車をかけることになった大借金の原因である舞台『グイン・サーガ 炎の群像』が上演されるのは、本作の出版された1995年の末。まさに本作はその後の栗本薫を暗示した予言の書である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます