189 今岡家の場合は ―私たちの結婚―(共著:今岡清)

1994.11/学習研究社


【評】うな(゚◎゚)



● おれ専用資料本


 中島梓が夫である今岡清と自分たちの結婚生活について交互に語っていくエッセイ。


 なかなか判断に困る本である。

 単純になにも知らない人間が手にしたとして考えると、エッセイ本としてはさほどクオリティが高いとは言い難い。

 多くの人がご存知の通り、中島梓の夫である今岡清はかつての早川書房での担当編集者であり、不倫の末に結婚し、それから十年近く経ってから早川を退職、家庭に入って中島梓のサポートに回っている。今作は退職したあまり間がない時期に書かれたものだ。

 こうした経緯と関係から、ワイドショー的な下世話な興味では略奪婚の顛末が気になるし、作家ファンとしては編集と作家の夫婦生活というものが気になるというものだ。しかし、どちらも過去のことであるためか、あるいは語る気がないのか、本書ではほとんど触れられていない。語られているのは基本的に現在の日常生活についてである。


 ではその日常生活が面白く書かれているかというと、これもまた疑問だ。

「稼ぐ妻と家庭に入った夫」の一例として読むにはいささか特殊であり共感がしづらく、かといってトンデモ夫婦の日常として読むには踏み込みが足りず、有り体にいってしまえば見世物としての価値が薄い。

 率直に云ってしまえば、そもそも今岡氏による部分がほとんど面白くないのだ。文筆業ではないため仕方がないのだが、もってまわった語り口で客観的なことばかりを書いているため、ミスをおそれてお茶を濁しているように見えてならない。こうした企画で読者が見たいのは、端的に云ってしまえば夫婦の誌上プロレスだ。明らかに妻に遠慮をした文章では面白みを感じることは出来ない。

 いやまあ、たった一冊のエッセイのために夫婦関係に亀裂を入れかねないことをしろというのも無茶というものだが、読者はわがままなのでそれを求めてしまうものだ。ことに中島梓のように、どう考えても社会性の欠如を才能で補っているような典型的な作家が相手となればなおさらだ。どんどん内部告発していただきたかった。ていうか死んでからのエッセイではちまちまとそういう話してるから「結局梓の逆鱗に触れたくなかっただけかよ」と思わざるを得ない。

 

 いやまあ、配慮を感じる書き方の中でも、梓が飲んで帰ってくると不機嫌で、なんで不機嫌なのかはじめはわからなかったが、どうやら「妻が飲んで真夜中に帰ってくるなんて夫は怒るだろう」という自分の予測のせいで不機嫌になっているらしいとわかったなど、人としてどうかと思うことが書かれているので、余計なこと云えないのはわかるけどさ……。梓の書いた部分にも「ずっとあずさの癇癪を起こさないような言い方をしなくちゃと思ってばかりいるのでなにをいっていいかわからなくなってきた」など、とてつもないDV被害者発言があるしね……。


 ともあれ、そんなわけで旦那の書いたもののなかで、文章としての面白みがあるのは、妻とあまり関係のないパソコンの話をしている項くらいである。この項はパソコン黎明期からウィンドウズ95前夜までのパソコンオタクの行動や心理が書かれていて、なかなかに面白く読めた。どんな人間であれ、やはり好きなものを好きなように語るのが一番おもしろくなるのだ。


 梓の方の文章も、普通に考えてあまり興味のそそる内容ではない。普遍性がなく、鋭い知見があるわけでもなく、暴露性があるわけでもなく、栗本薫のプライベートをいくらでも知りたいという重度のファン以外には需要がないのではなかろうか。

 が、いまだにこんな文章を書いていることからもわかる通り、自分はそうした病的な人間なので、楽しめてしまった。この本が出た時期もまた自分にとっては絶妙であった。初読時の九四年はファンになったばかりで栗本薫の文章はなんでも読みたい時期であったし、亡くなったいまとなっては、およそ三十年の作家生活のちょうどど真ん中の時期に書かれた本書は、中間報告として最適なのである。

 実際、この九四年、九五年という時期は、栗本薫という作家にとって大きな分水嶺であったと思う。これまでとは違うタイプの作品をいくつも立ち上げた(そしてほとんどが失敗に終わった)、流行作家栗本薫の華やかなりし最後の時期である。文章の質も、粗が散見されるとはいえ良質さが保たれていたと自分が思うのが、この時期までである。

 このことは無論、九五年末に上演された舞台『グイン・サーガ 炎の群像』が興行的に失敗に終わり、数千万の借金を負ったことと無関係ではないだろう。この後、グイン・サーガの発刊速度が上がり、それに比例するように一巻ごとの密度も文章の質も下がっていったのは明白である。「仕事として小説を書いたことはない」とよく云っていた栗本薫だが、明らかに借金は彼女の創作から自由さを奪っていた。


 話がそれてしまったが、ともあれ今作はその前年、まだギリギリで保たれていた時代のエッセイである。云っている内容はわりとどうでもいいようなことばかりでありながら、自由闊達な語り口にはどうにも引き込まれてしまう。

「私の一日」という項では架空の立派な作家のそれっぽい一日をでっちあげて語り「なーんていう生活を送っているとでも思ったかね」とのたまう。パソコンの話では自分のタイピング速度の速さを延々と自慢する。「私はペット」と書こうとしてつまらないからと「私はピアノ」という意味不明な文章を書く。唐突に大河小説『クォ・ヴァディス』に出てきたペトローニウスという大敗帰属の魅力を語りだす。そのあらゆる合間合間にこれでもかと様々な自慢話が混ざってくる。まったくもってフリーダムである。

 冷静に話を読み解くと、いい加減で失礼で明らかに自己評価が高すぎて気持ち悪いこともたくさん云っているのだが、 この自由さと大言壮語はまさに中学生の自分が憧れたものであった。いまさらそれを否定することはできない。


 ほかにもクラブピアニストという仕事への憧れがたびたび語られ、晩年になってピアノライブをやり続けたことに納得したり、旦那の文章や語り口に晩年の薫を思わせる部分があり、夫婦で影響しあった結果があの文体であったのかと思ったり、中間報告資料としては、実に優秀である。


 正直、自分には「旦那のせいで栗本薫はああなったのではないか」という八つ当たりめいた気持ちがある。しかし改めてこのエッセイを読むにつけ、純代の幼児じみた全能感を受け止められる相手はこの旦那しかいないのだろう、と感じた。だが、だからこそ、やはりこの夫婦関係が彼女を大人の作家とさせなかったのだな、と思う。彼女は限界がくるたびに表現媒体やジャンルを変えることで誤魔化し、作品の根底を変えることをしなかった。結局、甘え続けていたのだろう。

 

 このように、書いている内容以上に余計なことを考えてしまい、複雑な気持ちになるエッセイである。おなじような人がいれば読んでみることをオススメする。

 それにしても最後の一文「今夜はビーフシチューとサケ汁とナスのグラタンだよん」の破壊力よ。それ全部メインおかずですよね……わりと傾向かぶってますよね……一度に食べるものじゃないですよね……これが今岡家の普通の食事か……謎はすべて解けた……!


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