184 あずさの元禄繁昌記

1994.08/読売新聞社

2001.12/中公文庫


【評】うな


● 毒にも薬にもならない元禄エッセイ


 栗本薫が、『好色屋西鶴』のために元禄時代の資料を調べたりしてたので、一石二鳥とばかりに元禄時代についてとりとめもなく語ったエッセイ。


 作家には資料を集めないとぐだぐだになる人がいる一方で、資料を集めても何の役にも立たないタイプの人もいる。

 では栗本薫・中島梓がそのどちらにあたるかというと、どちらでもない。

 第三のタイプ、資料を読めば読むほどダメになるタイプなのである。


 歴史小説は連想ゲームのようなものだ。

 いくつかの史実から、それを貫く一本の筋を連想し、その筋に沿って史実をつなげ歴史を配列しなおす。この長い一本の筋をこそ史観という。この筋はたゆんでいてはならない。曲がってはならない。切れてもならない。まっすぐ突き進んだ鋭いものでなくてはならない。

 チンコ感覚による漢の浪漫ですべて筋を通してしまった司馬史観や、無常観によってすべてを貫いた風太郎史観などは、一貫しているからこそ理屈をこえた説得力を有する。

 なにも歴史物にかぎらずともよい。とにかく資料を調べる場合は、その先にある自分なりの筋を見出さなければ無意味というものだ。それができない人間の場合は資料集めは無為に終わる。いや、それをできるまでやってはじめて「資料」と呼べると云うべきか。


 栗本薫などの場合は、もっと悪い。

 筋を通すことなく、散漫に散らばった史実を片っ端からひろいあつめて、ひたすらにぐにゃぐにゃと曲がりくねった、たるみきった物語にしてしまう。それでいて言い訳は「でも史実だから。資料にあるから」

 こういうタイプは資料を読まないほうがよろしい。妄想だけで書いた方がよいのだ。

 薫に必要なのは史実を明かす資料などではなく、先人のすぐれた同ジャンル作品だ。それを浴びるように読み、自己流アレンジを加えてパッチワークすればよろしい。そうすれば面白い作品ができる。その点に関してはまさに類稀なる才能の持ち主だったのだから。

 もっとも、それしかできないせいで、栗本薫という作家は行き詰まっていたわけだが……じゃあどうすれば良かったというのか。それは誰にもわからないんだ……。


 なんかエッセイに関する話を大きく逸脱してしまった。

 このエッセイはつまり、そうした資料を調べてわかった事柄に対してきゃーきゃー云ったり一席ぶったりしているのだが、江戸風俗に対する理解力が浅薄にとどまっているため、あまり面白い話にはなっていない。印象に残らない。資料の上っ面しか読めていない。

 愛というものは本当に不思議なもので、どんな言葉を使おうがどんな態度をとっていようが、なにをどれだけ愛しているかは第三者に伝わってしまうものなのだ。栗本薫も愛読した池波正太郎、友達だった杉浦日向子などの江戸愛に比べると、このエッセイや『好色屋西鶴』にあらわれる江戸の、なんと浅薄なことか。

(一方で昔の栗本作品の時代劇物がなぜそれなりに読めたかといえば、それはもちろん池波先生たち先人の名作に対する愛があったからだ)


 このエッセイ自体は毒にも薬にもならない梓らしいいつものアレなのだが、しかし主産物である『好色屋西鶴』が資料をマイナスに使った作品であったため、副産物である本作も低めに評価せざるを得ない。

 小林智美先生の表紙絵がエロイのが救いではある。

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