147 コミュニケーション不全症候群
1991.08/筑摩書房
1995.12/ちくま文庫
<電子書籍> 無
【評】うな(゚◎゚)
●評論家・中島梓の代表作……だけど
「現代人はみな病気であり、その病気の名前はコミュニケーション不全症候群である」という理論のもと、オタク、ダイエット、JUNEなどの問題を統括して語る現代社会論。
評論家としての中島梓の代表作は今作だろう。
宮崎勤事件の衝撃も冷めやらぬ当時、様々なオタク批判、オタク分析がなされたが、それをダイエット少女たちやJUNE文化とも結びつけ、すべては現代社会に対する過剰適応の形であると喝破した本論は、ベストセラー小説家としていくつものヒット作を飛ばし、JUNEという女性特有のジャンルの中核人物であった彼女にしか書けない評論であったからだ。ことにJUNE・やおい・BL等に関しては、当事者でなくてはわからぬ無数の機微があるのに、その当の腐女子たちは論としてあまり語ろうとはせず、まれに現れる論客すら(クレバーな作品をいつも物している作家たちでさえ)状況を鳥瞰した論ではなく個人の問題を訴える感情論になりがちだ。
そこで当事者そのものであり、評論家としての肩書も持つ中島梓が率先して語ったことの意義は大きい。男と男の恋愛ものになぜ少女たちが血道をあげ、しかもそれが女性向けポルノとは(重なる部分もあるとはいえ)微妙に違う存在であるかをしっかりと論じたのは、本書が初めてだったのではなかろうか。
本書の基本となるのは、「健常な」人間たちから見れば異常にも見える人々の行動は、彼らなりの釈迦への適応だ、というものだ。
かつての社会、弱者は生き残ることができずに淘汰された。しかし現代の進んだ文明は弱者にも生きることを可能とした。むしろ死ぬことを禁じた。にもかかわらず、どう生きればいいのかはだれも教えてくれない。そうした「生かされてしまった」弱者の過剰適応が他者を断絶することであり、それこそがコミュニケーション不全症候群である、というものだ。
その傍証として、中島梓は様々な事例をあげ、彼らの行為の根幹が自分の居場所を求めているがゆえであると証だてていく。
無論、梓のことであるので極論や牽強付会も少なくない。だが、作中で自ら「敢えて極論にすることによって見えてくるものがあると思っている」と云っているように、その論の中にはハッとする視点や言葉がいくつもある。これは七十年代に様々な分野に興味と愛を捧げ、八十年代に文壇界隈、オタク界隈、芸能界隈、JUNE界隈と様々な界隈を渡り歩いた中島梓であるからこそ持ち得た視野であり、現代論だ。
もはや四半世紀も前の本となってしまったが、現代社会に通ずる部分も多く、あの時代を端的に捉えた社会論として、博覧強記に古今の知識がふりまかれながら読みやすい文体も含め、まさしく中島梓の代表作にふさわしい評論だ。このレビューで端的にまとめることができるような内容でもないため、興味のある人は一読してみて欲しい。
と、云いたいのだが、ツッコミどころもある。ありすぎる。
社会問題に関しては、自分が無知だから「なるほど」と素直に感心してしまったが、自分もある程度の知見や考えのあるオタク界隈に関するものとなると、どうにも「そうか?」と首をひねりたくなる部分が多い。なにせ少年漫画を語るときに永井豪の時代で止まっているようにしか見えないのだ。九十年代にもなって鳥山明やあだち充などによる漫画シーンの変化も捉えられず、少年漫画の世界では女性を征服するものか賞品としてしか描いてはいけないという感覚は(この人、まだ梶原一騎の時代に生きているのかな……)という気分になってしまう。
だがもっとも違和感がはなはだしいのは、彼女の専門分野であり、本書の一番の目玉ともいえるJUNE論だ。
なにが違和感があるといって、少女漫画とJUNEを語るにあたって、萩尾望都にほとんど触れていないのだ。
客観的に云って、好き嫌いを抜きにして黎明期のJUNEを語るにあたって外せないのは森茉莉、竹宮恵子、萩尾望都、栗本薫の四人だろう。あと一人加えるならば山岸凉子だ。
しかし本書では森茉莉、竹宮恵子、木原敏江、栗本薫を中心に論じている。そしてJUNEを書く人間は長女が多いとか、JUNEにおいて母親は不在であるとか論じているのだ。三女で、母親との軋轢をず~~~っと描き続けている萩尾望都はガン無視である。どう考えてもおかしい。例外的な作家とするには、萩尾望都はJUNEと少女漫画における存在感が大きすぎるだろう。
感情的な少女漫画の世界において、萩尾望都だけがクレバーに問題の本質である家族と母親を正面から見据え、描いていたとも云えるが、しかし萩尾望都の作品が射抜いた正鵠を語らずにJUNEが語れるものだろうか。薫当人が終生母親に愛憎こじらせながら、ついぞそれを正面から書くことができずに天才ホモ妄想に耽って逃げていたことと、これは無関係ではないのだろうが、しかし自分に似ているものばかりを集めて「JUNEとはこういうものだ」という狭い論は、今作が評論の題材としてエポックメイキング――というか隙間産業というか――であればあるほど、世に誤解を産む有害な論であるといわざるを得ない。
またJUNEは少女たちの男性原理社会への反抗である、という論は、山岸凉子がまさしく『日出処の天子』で男性原理に対する憎悪を激しく描いたことにも通じているし、正解の一つではあるだろう。(もっとも、凉子の中のメスはそんな男をどうしても殺すことができずに許してしまうという敗北を続けているが)
だがこの評論が書かれた後、JUNEはBLとして社会により広く浸透し、その論ではとうてい語れない多様性を見せる。その結果として栗本薫はJUNE界隈にも居場所をなくし、小説道場を畳み「少女たちのアナーキズム万歳」といういささか見当違いな宣言をすることになる。そして「本物のJUNE」とやらを掲げてSMホモを称揚するのだが、こうした迷走と暴走の萌芽は本書に発見することが出来る。
要するにホモに関しては彼女は「私が正しくて本物である」という思い込みと欺瞞――おそらく精神的な過剰防衛――を抱え続けるわけで、誰も語るもののいなかった九十年代初頭ならともかく、いまとなっては「分かる人が少ないからっていい加減なこと云ってやがんな」という気持ちばかりが募る。
これは彼女の小説にも云えることだが、結局、門外漢が読んで知ったような気分になるには最適だが、その道のマニアから見ると失笑ものの知見を語っているのが栗本薫であり中島梓であるのだ。だからミステリ界隈でもSF界隈でもプロパーに受け入れられることはなかったのだ。
その「知ったような顔をしたい門外漢」こそ自分のような人間であり、だからこそ栗本薫を信奉し、裏切られたような気分にもなり、それでも忘れられずにいまさらこんなレビューを書いているわけだが、おっさんとなったいまとなってはここに書かれていることをそのまま信じることはとうていできない。散漫な各章の統括として書かれた最終章の、アジテーションにしか見えない感情論が、自分にある種の高揚をもたらすことは認めながら、やはり評論家としての中島梓は二流であったのだと思わざるをえない。
それでも八十年代サブカル文化の統括として一面を抉っているのは事実なので、数あるオタク論の一つとして、当時の一腐女子の主張として、読んでみる価値はあるだろう。
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