112 魔界水滸伝 13

1987.10/カドカワノベルス

1991.05/角川文庫

2003.02/ハルキ・ホラー文庫

2016.07/小学館P+D BOOKS

<電子書籍> 有

【評】 うな∈(゚◎゚)∋


● 着々と進行していくホモ化とボケはじめる加賀四郎


 月面のネオ・テラ帝国より地球軍旗艦アークへ向けて降伏か攻撃かの最後通牒が突きつけられる。危急の事態に加賀四郎は北斗多一郎へ取引をもちかけ、多一郎率いる精鋭部隊が月面基地へと攻撃を仕掛ける。しかし同時に、アーク内部でクーデターが勃発する――


 冒頭、いきなりわけわからん名前のキャラがわけわからん会話をしていてなんだ? と思うと、ダゴンの治める魔界都市ケイオスに住むインスマウス人の視点で彼らの生活が描かれているのだとわかる。

 このくだり、なんとも判断に困る。

 ここでインスマウス人の視点をぶっこんでくるのは、流れとしては面白い。内部の視点から古き者どもの支配する土地を見ることができるというのは楽しい。前フリ無しでいきなりこのシーンからはじまるのもひきつけてくれる。なにより、すっかりインスマウス人になったものが、一瞬だけ人間時代の思考を取り戻し苦悩するも、すぐに元通りに戻ってしまうという悲哀が良い。

 が、単語が造語になっているだけで、意外と普通の思考で普通の生活をしているので、全然おぞましくないし、あんまり「この作者すげーもん想像しやがるな」という感じがしない。わりとインスマウス人の生活が楽しそうですらある。映像化するなら永井豪ではなく吾妻ひでおだ。のた魚とか「しっぽがない」のキモかわいい感じだ。その吾妻ひでおがよく描いていた気持ち悪い得体のしれない生物だらけの世界と比べてもどうも物足りない。(作者の鬱屈を反映して現代社会を怪生物だらけに描いた『夜を歩く』シリーズは傑作である)

 まあ、そういう頂点の作品と比べて「こちらはちょっと……」というのはあまり良くないことなのだろうが、いまとなっては多少ものたりないのは事実である。


 その後、前半はまだセンチメンタル・ジャーニーな気分のまま、嫁を意地でも抱かない多一郎の「やだやだ涼たんがいないとやだ」が続き、ほとんど主役のように出張ってきていることもあって「そろそろうぜえなこいつ」という感じが出てきている。第一部では長いことオールバックの陰険メガネスーツ野郎だったのに、気がつけば銀髪を背中に流した白い和服の美形キャラになっているのも「お前だれだよ」感が強い。豪ちゃんの描く三下っぽい笑い顔の多一郎さん好きだったのに……。これじゃ片岡孝夫が演じられないでしょ!?


 その後、ネオ・テラ帝国の最後通牒に進退極まった加賀四郎は多一郎に取引をもちかけ、月面基地への奇襲を依頼する展開。加賀四郎が頭を下げ、多一郎に率いられた地球軍の精鋭部隊が月面基地に侵入する展開自体は良いのだが、この辺りから加賀先生がポンコツ気味になる。

 多一郎に「伊吹風太を抱けるようにセッティングしてくれたら協力してやるよ」と無茶を云われて「いいよ」とあっさり受けて、部下から「いや、無理でしょそれ。どうすんですか」と問い詰められて、長々とした説明するがその要旨が「多分多一郎も本気で云ってないからヘーキヘーキ」と約束踏み倒すつもり満々で(アカンでしょ……)という気持ちになりましたよ。しかも部下の橘さんと相模忍はそれ聞いてなんか感服してるし。いや、アカンですよ、それ。加賀四郎に対してやたらと頬を赤く染めてる場合じゃないぞ忍。多一郎と涼のハードホモ展開に隠れがちだけどお前の師弟愛という名のホモ化もけっこうな問題なんだからな!


 で、そこで白人将校によるクーデターが起こって「こんなときに白いの黄色いのと」と批判的な態度とってるけど、客観的にいってこの地球軍の首脳部が日本人ばかりなの、やっぱり問題だとぼくは思うよ?それに結成早々、総司令の雄介が修行だとかいっていなくなって隊員の前に姿をあらわさないというのも完全にあかんでしょこれ。それでクーデターが起こって「こうなるかも知れないことは予測してた」って、お前は現場にずっといるのに事件をまったく防げず一通り死んでから犯人を指摘する金田一耕助か。

 これで「加賀四郎は天才で合理的であるがゆえに他人の気持ちががわからないという欠点のある人間だ」と設定されているならいいけど、そういうわけじゃないからね。

 で、結論として「なんとなくわかるんだけどあのクーデター将校たちはクトゥルーにサイコ・コントロールされている」とか云いだして、いやなんとなくわかるじゃねえよ。そこで理屈つけろよ加賀先生!ていうか薫!

 大局を意識しすぎて足元がお留守で内部分裂する、という展開自体はわりと熱いのに、なんでそこではじまってすぐにするっと「敵に操られている」ってしちゃうんだよ。限界状況での同士討ちの醍醐味がまるで台無しじゃん!もっと『ウォーキング・デッド』とか観て!(三十年前です)まあ『ウォーキング・デッド』じゃなくても、この時期にはとっくに公開されていたロメロ三部作とかのゾンビものって「結局一番愚かしいのは人間」ってオチになるじゃん。ていうか『デビルマン』自体がそうじゃん。人類崩壊の引き金を引いたのは悪魔だけど、きっかけ作っただけでその後は放置して自滅させたってところがあの作品のすごいところじゃん。ちゃんと読んで!

 

 で、人類同士の争いということで、元アメリカ上層部が月面に作ったネオ・テラ帝国の基地を強襲するんですけど、はい、出ましたインスマウス人。ネオ・テラ帝国はとっくにクトゥルーに乗っ取られていたのだ!

 人類の同士討ちなしかよ! 天敵を前にして心を一つにできない人類の愚かさいきなり投げ捨ててるよ!ショートケーキのイチゴを最初に投げ捨てるみたいなもったいないことなんでしたん!? つうかこの展開にするならなんでネオ・テラ帝国とか出す必要あったんですか……意味わかんないよ……。


 かなり批判的に云ってしまったが、ここで何人ものキャラクターが惜しげもなく死んでいくのはなかなか冷酷で良い。でも那須俊明は三巻から出ている雄介の股肱の臣で、夏姫が死んだら「どうも、代わりの美少女枠です」とばかりに出てきた那須たまこの兄で、とわりといろいろありそうなキャラだったのにまったく出番がなく、やっと出番がきたと思ったら即死で、さすがにこれは雑な使い方すぎるんじゃなかろうか……。死に方がかなり残酷で予想外な感じなのはいいんだけどね……。


 あれ……なんか批判ばっかしているな……。

 いや、全体ではまだ全然面白いんですよ、先が気になるし。

 でも展開や理屈に粗が見えるというか、その粗をふきとばすほど夢中になれていないというか……。より面白くなりそうな流れに棹をさされて気持ちが冷める瞬間が多いというか……。読者が粗がある作品に寛大なのって気持ちが良いときだからね……それを阻害されると妙にこまかいことが気になってくるんだよね……。時代設定が198X年なのに「ヒットラーが生きていたら百歳を優に超える」とか書かれていることまで気になっちゃうものね……(ヒットラーは1889年生まれ)

 まだ面白いし、まだ好きな作品と云えるのに、二部に入ってから急に批判的になってしまっている自分におどろくくらいだ。


 ここで書くのは尚早すぎるが、このシリーズの評価は「二部以降はホモ化していまいち」というのがよく挙げられる。まあ、それも原因ではあるのだが、まかすこ一部がかくも魅力的であり、反して二部が失速していくのは、結局のところ、栗本薫という作家が「彼岸の人」ではなく「此岸の人」であったからではなかろうか。

「彼岸の人」――手塚治虫とか永井豪とかもそうだが、要するにぶっ飛んでいる人、凡人の理解を超えている人、天才だ。彼らの見せてくれる意想外の世界に、我々凡人は魅了される。

 彼女は、そうではなかった。

 後年の作品になるが『バサラ』では作者の分身ともいえる出雲のお国が、自身が本物だと認めている唯一の男にその踊りを「なかなか面白い。それなりによくできている。きっと大評判になるだろう」と、客観的に評され、決してその男を夢中にはさせられなかったことを悔しがった。

 思うに、栗本薫の憧れた先達からの彼女の作品評は、そういったものだったのではなかろうか? 「悪くはない」「売れるだろう」と評され、しかし決して夢中にさせ、クリエイターとしての嫉妬はされなかった。あるいはデビューより五年位はそう思った同業者もいたかもしれないが、『バサラ』を発表する九十年代には「売れてはいる」人でしかなく、天才に嫉妬や焦燥を呼ぶ存在ではなかった。それを悔しがり、舞台という新たな形で一つ上にいってみせるという空回りな気持ちを作品に落とし込んだのが『バサラ』なわけだが、それはここでは置いてくとして。

 ともかく、彼女は彼岸にたどりつく天才ではなかった。だがそうでありたかった。翼あるものでありたくて仕方なかった。そしてあがき続け、彼岸に達した先人である永井豪の、オマージュとい名の真似事をして、自身も彼のいる場所に到達しようとしたのがこの『魔界水滸伝』だと云えるだろう。その此岸から彼岸へと手をのばそうとする魂の営為が、現実から魔界へと足を踏み入れていく狭間の状態を描く第一部の筆致と一致したから面白かったのだ。そしてまた、それゆえに異形・異質に変化しきった世界――彼岸そのものを書かねばならぬ第二部では力不足が露呈し、失速したのだろう。書き始めれば早いくせになかなか書きはじめる気になれず刊行速度が落ちたのも、その力不足に自身で気づいており、届かない作品になることを恐れていたからではなかろうか。ホモ展開への傾倒も、あるいは正統な力で挑むことを恐れた彼女の逃避であったのかもしれない。


 評論(っぽい変な)本『わが心のフラッシュマン』において、中島梓は「嫁にいじめられている」という現実には存在しない状況を必死で主張し、そこから脱する方法を他人から提案されても決して肯わない老女の話を挙げ、その老女には「嫁にいじめられている」という自己の物語化が必要なのだ、と論じた。その物語によって、老女は悲劇のヒロイン心かなにかが満たされるか、なにもできないことかを正当化できるため、「そうでなくてはならない」のでその状況のままでいるのだと中島梓は論じたのだ。これは、自分もまったくその通りだと思う。

 彼女の長編シリーズは、ホモ化が激しくなるのと同時に世間の評が下がっていく。これはよく「ホモ化したせいでつまらなくなった」と論じられることが多いが、上記の理屈にあてはめて「もしかしたら逆なのではないか」と自分は思うことがある。自作がつまらなくなっている、己の力不足を感じているときに、栗本薫は登場人物をホモ化させてしまうのではなかろうか。

 彼女は長編のキャラが途中からホモ化したことに対する批判に「それは同性愛者への偏見であり、読み手の心の問題だ。だったら読まないで結構だ」という論旨で答えていた。その視点に立つ限り「差別主義者が離れていっただけ」であり「つまらなくなったから読者が離れた」と思わないで済むからだ。九十年半ばからやたらとアナーキー主義やメジャーへの反抗を唱えたのも「売れなくなったのはつまらないのではなくマイナー志向だからだ」と納得することができるからだ。

「自分は正しいはずなのに評価が下がり売れなくなっている」状況を正当化するための物語が必要であり、その道具がホモ化だったのではないか……。

 彼岸の世界を描ききれずに激しいホモ展開に落ちていったまかすこ二部を思うにつけ、その思いが強くなる。


 だが、栗本薫は別に彼岸の人になれなくてもよかったのだ。

 天才は天才であるがゆえに時折、凡人には意味がわからない方向に暴走し、時にはそのままどこかへ行ってしまう人もいる。

 栗本薫は天才に憧れ、なりたくてなりたくてたまらずあがいた。書きまくるという形であがいた。あがいたから、時折、その伸ばした指先が彼岸に届き、彼岸と此岸のあいだにかかる橋となった。

 我々のようなもがき方もわからない凡人や若輩者にとって彼岸よりもなお必要だったのは、その橋だ。彼岸そのものよりも、その橋のほうがよっぽど多くの人間に求められていた。橋に過ぎぬことを悔しがり、必要以上にあがいて橋を壊すことなどなかったのだ。


 と、二部完結巻にでも書くべきなことをその場のノリでだらだらと書いてしまったが、ともかく面白くはありながらそうした凡人の限界が見えてしまう、なんとなく物悲しい巻であった。

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