第1話 おじいちゃんの遺産
「あなたのおじいちゃんは、ずっと昔に亡くなったのよ」
ぼくは幼い頃に、母からそう教わった。
あれは小学校3年生のときだっただろうか。
学校で「おじいちゃん、おばあちゃんの子供のころの話を聞いてみましょう」という宿題が出た。
ぼくが家に帰り、母にその話をすると、彼女は眉に軽くシワを寄せながら、冒頭のセリフを吐いたのだった。
素直な子供だったぼくは「そういうものか」と思い、学校の先生にそれを報告し、自分の祖父母の代わりに、校長先生に話を聞くことになったのだったけど、いまそんなことはどうでもいい。
端的に言えば、母は嘘つきだった。
彼女の大嘘が露見したのは、ぼくが大学を卒業し、うだつの上がらないアルバイト生活に突入して5年目のことだ。
いつものように本屋のアルバイトから帰ると、ぼくたち一家——ぼくと、母と、猫のミー助が住むオンボロ一軒家の前に、不似合いな黒塗りの高級車が停まっていた。
それは、明らかに堅気のものとは思えない車だった。
ぼくは車には詳しくないけれど、フロントのボンネットに掲げられたエンブレムは誰でも知っているような高級車メーカーのそれだったし、第一、ナンバープレートの表記がおかしい。
「EL-115」
こんな番号、見たことがない。映画に出てくる外交官ナンバーでもないし、朝霞基地の近くをときどき走っている自衛隊の装甲車両のナンバーとも違っている。表記の形式は、在日米軍のそれに近いように思えた。
車のそばには、背の高い黒服の男が一人立っている。
日本人らしいが、大きめのサングラスをかけているため、本当にそうなのかは分からない。
自転車に乗ったぼくが家に近づくと、黒服の男がこちらを向いた。
「
黒服の男が、ぼくの名前を呼んだ。
持ち主の平凡さに反して、いささか大仰なその名前は、ぼくのもので間違いない。
「……そうですが、どちらさまでしょうか?」
ぼくが声に警戒の色を滲ませると、黒服の男はぎこちない笑みを浮かべてみせた。よく見ると、けっこう若い。ぼくとそんなに年は変わらないかも。サングラスをつけているからよく分からないけど、少し伸ばした柔らかな黒髪と、その下から覗く広めの額、整った鼻筋から知的な印象を受ける。
男はぼくの問いかけに、慌てて一礼を返した。
「失礼いたしました。慌てておりましたもので……。私は内閣府特別外交室補佐官の八木雄一郎と申します」
いそいそとポケットからカードケースを取り出し、そこから抜き取った名刺をぼくに差し出した。
気楽なアルバイターゆえ、名刺をどう受け取っていいか分からずにいると、彼は強引にぼくの手に名刺を押し込んできた。
慌てているというのは本当なのだろう。
「あの……うちに何かご用ですか?」
そう問うと、黒服——八木さんは軽く咳払い。
「コホン……! あ、あの! 落ち着いて聞いてくださいね!」
まずは君が落ち着け、と言いたかったが、黙っておく。
「単刀直入に申し上げます。あなたのお祖父様が亡くなられました。お祖父様は……少し説明が厄介なのですが、あまり一般的とは言えない財産をお持ちだったのですが……その受け取り人に、あなたを指名しています」
思わず「えっ」と驚きの声が漏れる。
ぼくの祖父とは誰のことだろう。母方の祖父はずいぶん前に亡くなったと聞いているが、もしかしたら、ぼくが顔も知らない父の、その父のことだろうか。
八木はぼくが当惑しているのを見てとったらしい。
慌てた口調で言葉を足した。
「亡くなられたのは、あなたのお母様の父親に当たる方です。
「祖父は、ずっと昔に亡くなったと聞いていますが……」
ぼくが答えると、八木は「困ったな」といったふうに眉を下げ、ため息をついた。
そのとき——。
「ああん、もう! まどろっこしい!」
鈴を転がすような声とは、このような声のことを言うのだろうか——思わずそう感心してしまいそうな美声が、黒塗りの高級車の助手席から響いた。
と同時に、車のドアがガチャリと重々しい音を立てて開く。
「ユウ、
美声に似合わぬ物騒な言葉を吐きながら、車から降りてきたのは。
「……
そう形容するしかない、美しい生き物だった。
それは確かに、ぼくたちと同じ、人型の生き物である。
しかし、一目見て「人間とは違う」と思わせる、人外美を漂わせている。
肩から背中に流れる金髪は「絹のような」という形容が陳腐に思えるし、白く滑らかな肌も「陶磁器のような」という喩えでは表せないほど。
優美なラインを描く顔の輪郭、猫のようにパッチリとした大きな瞳、柔らかな唇……顔のパーツひとつひとつが、この世ならざる美を備え、絶妙のバランスで並んでいる。あまりの造形美に、性別や年齢を推測するのを忘れそうになるが、おそらくは——少女。
そして何と言っても特徴的だったのが、金髪からにょっきりと上に突き出した尖った長耳と、身を覆う中世風の短衣とスカートだった。
その生き物を指す言葉を、ぼくは一つだけ知っていた。
森の妖精——エルフ。
でもそれは、小説や漫画、ゲームの中にしかいないはずの存在だ。
「ユウ、早く!」
呆然としていたぼくは、彼女——エルフとしか言えない少女の声で我に返った。
その瞬間、ぼくは自分の体が宙に浮くを感じる。
「深蔓さん、失礼します!」
八木さんがぼくの体を担ぎ上げたのだと気がつくには、数秒の時間を要した。
ぼくは悲鳴を上げる間も無く、高級車の後部座席に放り込まれた。
どういう素材でできているか見当もつかない高級そうなクッションがぼくの体重を受け止め、体が弾んだ。
「よし、拉致完了! 急いで発進!」
「かしこまりました!」
パワフルなエンジン音が轟き、車が動きだす。
ぼくがどうしたらいいか分からないでいるうちに、愛しい我が家はどんどん遠ざかっていく。
「すみません、手荒なことをするつもりはなかったのですが……」
運転席から、八木さんの済まなそうな声を投げかけてきた。
誘拐犯とは思えない気弱な声色に、ぼくは自分の置かれた状況にもかかわらず、変な笑いが込み上げてくるのを感じた。
「いいのよ。別に。この車の中は治外法権なんだから」
おどおどした八木さんに反して、助手席の少女の言葉はぞんざいだった。
「あの……ぼくをどうする気なんですか?」
ぼくは助手席に向けて、恐る恐る尋ねる。
この場でイニシアティブを握っているのは、あのエルフ(?)の少女に他ならないと思ったからだ。
すると、車のシートの間に、あの非現実的な美貌がにゅっと現れた。
形容しがたい美を持った顔には不似合いな、いたずら小僧のような笑みが浮いている。
「あなたを、王様にしてあげる」
柔らかな薄桃色の唇が、いたずらっぽく言葉を紡ぐ。
「王様……?」
「そう。あなたのおじいちゃん——ソージローが、この国の中に作り上げた、あたしたちの王国。正式名称は、デルストリア聖王国辺境伯領。またの名を——」
少女は歌うように言葉を吐き出していく。
「日本国埼玉県エルフ保護特区」
我ながら、トンチキな夢を見ている——そう思った。
しかし、自分でほおをつねってみても、目の前にある美しい生き物が消える気配はなかった。
車内ミラーには、ため息をつく八木さんの姿が写っていた。
「歓迎するわ、王子様」
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