剣聖の記憶 〜一億ポンドの約束〜

剣聖の記憶 〜一億ポンドの約束〜 1

 八年前、冬のロンドン。この日の気温は六度と寒かったが、空は晴れていた。むかし産業革命による大気汚染がもとで“霧の都”という肩書きがつけられたこの国の中心都市は、歴史的な建造物と近代的な構築物が地上に共存することで、時の流れと技術の発展が歩調を合わせ進むものだと人々に教えている。遥か上空に時刻を伝える雄壮なビッグ・ベン。バッキンガム宮殿は大英帝国繁栄の証として大地に君臨し、テムズ川を橋架する立派なタワーブリッジは第二次大戦を生き抜き、今も市内を南北につなぐ。その周囲には高層建築がたち並び、網の目よりも細かい無数の電子化されたネットワークが縦横に走る。


 おなじ島国であるせいか、日本と似通った部分が多い。立憲君主制の国といえば真っ先に両国を思いつく。右ハンドルの英国車は左側を通り、イギリス人はタクシーを待つとき秩序正しく列を作る。マナーは重要視され、それを守ることが最善とされるが、食事中の会話はフランクで、ときに皮肉も飛び交う。食卓は明るいもので、そこも日本に似る。


 違う点は空の機嫌の善し悪しだろうか。日本と比ベ、ずいぶんと日照時間が短いこの国は十六時頃には暗くなる。今日も、あと二時間ほどすれば夕闇のカーテンが冬空をつつみはじめるだろう。イギリスの太陽は動く距離も居座るときも短く、あっさりと月に天空の支配権を譲渡する。






 そんな空からやって来た旅客を迎え入れるヒースロー空港内は数千の観客と数百の報道陣、そして、それらを懸命に仕切る多くの警備員でごった返していた。寒々とした外との温度差は何度あるのか? 異様な熱気に包まれていた。


 客たちは皆、これからここに現れる“ひとりのスーパースター”を見に来たのである。『I Love You!』『Make love to me.』などと書かれたプラカードを掲げる女たちもいれば『Welcome to the Great Britain!』と書かれた横断幕を広げる集団もいる。その姿形、年齢は様々だが、皆が“彼”を待つ目に興奮の光を宿していることは同じだ。そして報道陣は、スターが顔を見せる世紀の一幕を映し、撮すため、周囲にスタンバイしている。


 到着ゲートが開いた。すぐには誰も出て来ない。一瞬しんと静まり返った数千の英国人たちは、まばたきも呼吸もせず、ただ見守った。万を超える視線がゲートの一点に穴をあけるかのように注がれる。まだかまだか、と静かな興奮の中、待つ。


 数秒後、黒服の男たちをともなった“彼”が姿を見せたとき、ヒースロー空港の中は開港以来最大の大歓声に包まれた。スピーディア・リズナー……“最後にして偶然の剣聖”と呼ばれる男がゲートをくぐったのである。熱気が高潮に達したこのとき、空港内部に流れた離発着のアナウンスがまったく聴こえなかったせいで飛行機に乗り遅れた保守系の政治家が夜、“迷惑な日本人の到着が私の出発に支障をきたした”とブログに書いたことで大炎上した。当然だ。自国の政治家より異国の剣聖のほうがよほど英国民に人気がある。


 剣聖スピーディア・リズナー、一条悟はカメラのフラッシュが数えきれないほどに光る中、自分に向けられた大渦のような歓声と熱視線に手をあげて応えた。スーパースターは、そんな仕草もごく自然なものである。端正に浮かべた微笑は、やや気障なニュアンスはあっても、わざとらしさは感じられない。


 世界中のファッション評論家も注目する今日の彼のアウターは藤代ふじしろアームズ製の黒いCWU-45P型フライトジャケット。下は、そのしなやかなスタイルを強調するスキニージーンズ。履いているマウンテンブーツと、かけているサングラスもまた藤代アームズのものである。カッコいいので、よく似合う。


 観客たちは悟が着ているフライトジャケットの右肩を見た。そこに刺繍されているワッペンこそ、光剣オーバーテイクと並ぶスピーディア・リズナーのトレードマークで、世間では“into the fire”と呼ばれている剣聖の紋章だ。


 観客のボルテージは、それを見てさらに沸騰した。燃え盛る炎に向かって伸びる手が描かれたその紋章は“どんなヤバい仕事でも引き受けるぜ!”という意味を持つ。彼の熱く危険な生き様を象徴するものとして有名だ。


 数千の客たちは、渡英したスーパースター見たさに、張られたロープの前まで殺到していた。そんな彼らを必死に食い止める警備員すら首を精一杯うしろに曲げ、ひと目でいいから悟の姿を拝もうとしている。港内の職員たちまで仕事も我も忘れ、惚れ惚れとした視線を悟におくる。後列の客たちは見ることができぬなら、せめて携帯電話で悟の姿を撮ろうと手をいっぱいに伸ばしている。大変な事態となった。


 特別措置で最前列に陣取った報道陣がマイクを向けた。


剣聖スピーディア! ようこそ大英帝国へ!」


「今回の来英は、やはり“例の少女”に会うことが目的ですか?」


「先月、剣聖が解決した異能テロリストによる豪華客船シージャック事件についてコメントを!」


「先週、南極に出現したペンギン型人外を討伐したのは剣聖だという情報を得たのですが!?」


「明日、女王陛下との面会が予定されていると聞いてますが!?」


 サングラス姿の悟は、それらの質問を聞き……


「“仕事ビジネス”に関することならノーコメントだ。悪いが先を急ぐんでね」


 と、歩きながら答えた。すると……


「今日のファッションのポイントは?」


「CDリリースに関しては、比較的乗り気だとか?」


「節税のため、スイスに移住するというのは本当ですか?」


「最近、噂になったハリウッド女優アメリア・サンダーソンとの関係は?」


 報道陣は質問を変えた。


「“私生活プライベート”に関する件は、さらなるトップ・シークレットさ」


 悟は右手をあげ、歩みを速めた。


「スピーディア!!!」


 報道陣をおしのけ、“ I’m all yours.”と書かれたプラカードを持ったひとりの女がロープ際まで押しかけてきた。悟との距離、わずか三メートル。


「スピーディア! あなたのその見事なお顔を見せて!! 私に微笑んで!!!」


 周りの迷惑そうな目をものともせず、懸命に叫ぶ女は熱烈なファンのようだ。うしろに束ねた栗毛色のロングヘアをふり乱し、大きな声をおくっている。彼女が着ているMA-1型フライトジャケットは左胸に悟のものと同様“into the fire”のワッペンが刺繍されている。民生品のレプリカモデルで、悟と独占契約を結ぶ藤代アームズのアパレル部門が販売している。異能業界の世界的スーパースター、剣聖スピーディア・リズナーモデルだ。


「スピーディア! 後生よ!! お顔を見せて!!!」


 なりふり構わぬ必死の形相で訴える彼女。MA-1の下はジーンズだ。このような格好の女を英語圏では“スピーディア・ガール”と呼び、日本では“剣聖女子”と呼ぶ。つまり、スピーディア・リズナーと同じ格好をする大ファンということである。


「やれやれ、しゃーねーなァ……」


 近くで懇願されたのが運の尽き、とでも言いたげな悟はサングラスに手をかけた。その仕草に、またも場内が沸きに沸く。


「一回きり、だぜ?」


 悟はサングラスを外した。世界中のファンを虜にする女性的で美しいルックスが晒されたとき、ヒースロー空港内の気圧は、この日のマックスボルテージを観測した。その場にいる数千の観客たちが、警備員たちが、職員までもが、一斉に沸点まで達した視線をおくり、男たちは野太い歓声をあげ、女たちはよろこびの悲鳴をあげた。そして、焚かれた無数のフラッシュは光の集中砲火となって、悟が立つ空間を陰影による明暗両極に染めた。


「これからも俺のこと、世界で一番愛してくれよな? かわい子ちゃん」


 素顔でとびきりのウインク……そのあと美しい表情を投げかけ悟は言った。それは英語圏でも日本でも。いや、中東でもロシアでもアフリカでも東南アジアでもオセアニアでも、世界中どこの国でも共通して“スピーディア・スマイル”と呼べば通じる剣聖の甘い笑顔である。女は一発で、とろける。


「はあああっ……………………!」


 そして、ここにも、スーパースターの魅力にとろけた女がひとり……


「スピーディアが……スピーディアが、私に微笑んでくれたわ……私に話しかけてくださったわ……」


 人生最高のものであろうよろこびに糸の切れた人形のごとく脱力し、その場に両膝をついた彼女。栗毛色のロングヘアの下にある顔と目は真っ赤である。なんと泣いているではないか。


「私……一生この目を洗わないわ! 私……一生この耳を洗わないわ! ああ……私のスピーディア……」






 歓声の中、サングラスを懐に入れた悟は、周囲の黒服たちとともにロープに沿って進んだ。空港の出口が近づいたそのとき……


「剣聖様……!」


 またも彼を呼び止める声が……出口の前にオーバーコート姿の老婆が立っていた。おくるみに巻かれたかわいい赤ん坊を抱いている。


「剣聖様……私は大変な“罪”を犯してしまいました……」


 老婆は大変恐縮した様子である。


「罪?」


 悟は立ち止まった。どうやら興味を持ったようだ。雲の上の存在であっても、地を這う市井の人に関心をしめすものらしい。


「はい……この子は私の孫なのですが、おそれ多いことに剣聖様と同じ名前をつけてしまったのです」


 老婆は目前に眩しく立つ悟を直視できぬようで、睫毛を伏せた。


「俺と同じ名前?」


 赤ん坊を見る悟。藤代アームズ社長、藤代真知子がつけた“一条悟”という名は今では戸籍上のものだが、この男が対外的に使ってきたいくつかの偽名のひとつでもある。世間には知られていない。つまり、老婆が抱いている赤ん坊の名は“スピーディア”というのだろう。


「そいつは問題だな。やすやすとなのっていい名前じゃないんだぜ?」


「まことに……まことに申し訳ありません……剣聖様のように強く立派な男児に育てたいと思い……」


 老婆の声は、そこでつまった。当然だ。彼女の前にいるのは世界的スーパースターであり、異能業界の至宝とも言われる男なのだ。パンピーとは立場が違う。


「どうか……どうか……この子に今後も剣聖様と同じ名をなのる資格を与えてくださいませ……剣聖様のような強い子になれるよう……」


 老婆は脆弱そうな腰を精一杯に曲げ、深々と白髪の頭を垂れた。だが、悟が彼女に向ける視線にあたたかみはない。スピーディア・リズナーの美しい瞳は、割れたガラスのように冷たく鋭利……そう評する者も少なからずいる。


 これまで悟を好意的に見ていた周囲の報道陣や観客らの間に緊張が走った。剣聖スピーディア・リズナーは妙齢の婦人に対しヴァニラのごとき甘い慈愛をそそぐが、その範囲外にはハバネロのごとき辛辣な厭悪を振りまくとも言われる。つまり若い女には優しいが、そうでない者には冷たいということだ。これは彼を“偶然の剣聖”と呼ぶ批判的な一部マスコミがよく新聞雑誌に書きたてることだが、ファンの中にも信じる者がいる。子供嫌いという噂もある。


「そいつァ無理な相談だな」


 悟が、そう言ったとき、湧き上がっていたはずのヒースロー空港内の空気は一瞬、凍結した。嗚呼、天上人が下界に情を傾けぬのと同じで、スターたる剣聖は世俗に優しさなど向けないのだ。わかっていたことであっても、心のどこかで信じていた者たちから落胆のため息が聴こえる。


「この騒ぎの中で寝ていられるとは、たいした神経だ」


 悟は老婆の腕の中ですやすやと眠る赤ん坊に神のごとき眼差しを向けた。


「“俺のような男”ではなく、“俺なんかよりいい男”に育てろ。それが、その名をなのる条件だ」


 そして赤ん坊の頬を人差し指でつついた。


 ふたたび、ヒースロー空港内が大歓声に包まれた。新聞各社が“剣聖の洗礼”を受けた赤ん坊を撮し、放送局全社が感涙を滝のように流す老婆を映した。間近にて剣聖の真心を目撃した観客たちは人生最大の眼福に歓喜し、知らぬ者同士で感激を分かちあうため抱き合っている。感動的なこの光景は全テレビ局が本日のトップニュースでとりあげ、翌日には全新聞社が一面で提供した。


「スピーディア! あなたを慕うイギリスの少年少女たちに、なにかひとこと!」


 いまだ泣いている老婆の横からリポーターがマイクを差し出した。幾千もの尊敬の眼差しを背に受けながら空港の出口をくぐる直前、悟は振り返り、テレビカメラに神々しい尊顔を向け、子供たちへ熱いメッセージを送った。


「好きなあのコには優しくしろよ」


 と。






 外もまた、美貌の剣聖を一目見ようとする人々で溢れていた。何人、いや何千人いるのか数えきれないが、歩道にもロープがはられ、皆が今か今かとスーパースターの登場を待つ。賑やかな場所にあるここヒースロー空港は高いビルやバスターミナル、レンタカーショップ、タクシー乗り場などに囲まれているが、そこまで大勢の人、人、人でごった返していた。


 黒服の男たちに囲まれた悟が出口からあらわれたとき、ロンドンの冷たい風は熱い潮流と化し、猛烈な歓声に寒空が揺れた。幾千にもわたる熱烈大歓迎の嵐に手をあげて微笑む“最後にして偶然の剣聖”は“史上最年少の剣聖”でもある。七年前に獲得したタイトルは剣聖制度の廃止により、若い彼が背負う永劫の肩書きとなった。異能犯罪者を斬り捨てるたび、人外の存在をたおすたび、世界中で話題となる日本人のこの男は、お忍びでもない限り、どの国に渡っても同じ扱いを受ける。どこに行ってもスーパースターなのである。


 ひととおり歓声に応えた悟は歩き始めた。そのしなやかな足が行く方向に、観客とは異なる数十人の集団が待ち構えていた。


「これはこれは、ロンドン警視庁のアーノルド・マッカン警部じゃねぇか。ひさしぶりだな」


 ファンたちとは異なるいかめしい表情の連中を前にした悟は飄々と言った。よれよれのコートを着て集団の真ん中に立つ中肉中背の冴えない中年男とは、どうやら見知った仲らしい。


「剣聖スピーディア・リズナー……」


 マッカンと呼ばれた男は嬉々とした声で、こう言った。


「貴様を殺人の容疑で逮捕する」


 

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