わたしを殺して……! 〜愛と哀しみのオーバーテイク〜 9

 悟の洋館から車で数分のところに冷水町ひやみずちょうがある。城山トンネルの裏手にあたるせまい道沿いにしなびた温泉銭湯があった。


「まぁ、やっぱ鹿児島といえば温泉だよな」


 藤代真知子から借りているコンパクトカーの運転席を降りた悟は言った。実は彼、最近ここの常連となり週に二度ほど通っているらしい。


「なんか、すごい名前のお風呂屋さんですわね」


 八重子は傾きそうな看板を見た。“ぼっけもん温泉”と書かれている。建物前のこの駐車場は三台分ほどのスペースしかない。しかも自分たちが乗ってきた車一台しかいない。


「玲美さん、本当にこんなところで良かったのですか? 足を伸ばせば、もっときれいなところがあるのですよ?」


 八重子の言うとおりだ。タウン情報誌にのっているようなところならば、もっと広くてきれいだ。


「いいえ、いいんです。こういう“昔ながらの温泉”に入りたかったの」


 サングラス姿の玲美は八重子にそう言った。


「わかってるね、玲美さん!」


 悟は偉そうに頷いた。


「ここは創業六十年の歴史を誇る由緒正しき風呂屋だ。鹿児島温泉史を語る上では外せないとまで言われている」


(ただ古いだけではないかしら?)


 と、八重子は思いつつも


「でも、玲美さんだと気づかれたら、大騒ぎになるのではなくて?」


 彼女は問うた。誰もが知っている国民的トップアイドル杉浦玲美と一緒なのだ。


「大丈夫大丈夫、平日のこんな明るい時間なら客はいねェよ。いても玲美さんのことなんか知らない高齢者ばっかさ。みんな忘れ物はないか?」


 悟は訊いた。三人ともバッグを持っている。中は入浴セットと着替えだ。ちなみに八重子は悟から借りた長袖Tシャツとジーンズを着ている。シスター服では目立つからだ。


「ならいいのですが……」


 男物の服はやはり大きめだ。ロールアップした裾とベルトでしめたウエストを気にしながら八重子は言った。サイズが合わないので、あまり着心地がよくない。


 三人は中に入った。狭い玄関の横に古い下駄箱があった。壁に“ここから先は土足厳禁”と太字で書かれた紙が貼ってある。全員、靴を脱ぎ裸足になった。


 外観どおりにロビーも質素だ。ジュースの自動販売機と長椅子が置かれており、その前のテレビが刑事ドラマの再放送を流している。突きあたりが番台になっており、その左右に“女湯”、“男湯”と書かれた暖簾がかかっている。一丁前に券売期がある。悟は千円札と小銭をいれ、入浴券を三枚買った。


「あれ一条さん、今日は早いねぇ」


 番台に座っている女性が言った。年は六十代くらいだろうか。


「今日は連れがいるのさ」


 悟は券とスタンプカードを差し出した。常連らしく馴染みの仲のようだ。


「おやおや、美人さんだねぇ」


 彼女はサングラスをかけた玲美、ではなく八重子のほうを見た。


「三人分押してくれよ、おばちゃん」


「はいはい」


 悟はハンコをおしてもらったスタンプカードを受け取ると


「よし、あとスタンプふたつで一回分タダになるぜ」


 と後生大事そうに財布にしまった。


「じゃあ、ふたりともごゆっくり」


 そう言って悟は、先に男湯の暖簾をくぐった……






 悟の言うとおり、長椅子と扇風機が置かれた脱衣場に先客の気配はなかった。八重子と玲美はそろって服を脱ぎはじめた。


 八重子は横に立つ玲美の胸を見た。そこにある陰化性紋は、こうやって見るとタトゥーというより“あざ”に似ている。


 人外と憑依体の契約の証ともされる陰化性紋は早期のシンクロを目指すものといわれる。通常、人外は人知れず体内に潜伏し、発現のときを待つものだが、潜伏期間が長ければ長いほど、憑依体とのシンクロ的融合度が増すとされる。そのような状態を“末期”といい憑依体が助かる見込みは薄くなる。


 陰化性紋の場合、その末期の状態と似たような融合力を早期に得られる。ただし、覚醒するためには強力な“精神的トリガー”を必要とする。玲美が取り憑かれた理由はわからないが刺激しないほうが安全だ。悟もそれをわかっているから彼女をリラックスさせるためここに連れてきたのだろう。だがもし、トリガーが引かれてしまったら……陰化性紋を突き破って人外が発現し、玲美は獣化する。融合力を増した状態ならば、憑依体が死に至る可能性は高い。


「どうしたの八重子さん? 人の身体をジロジロ見て……」


 服を丁寧にたたみながら玲美は言った。国民的有名人の裸を見る機会など滅多にない。一緒に風呂に入るというのも貴重な体験である。同性とはいえ、意識してしまうのも事実だ。なにより憧れのスター、杉浦玲美なのだ。


「ひょっとして八重子さん、“そういう趣味”があるの?」


 さすが日本中を魅了するトップアイドルは流し目も色っぽい。


「い、いいえ違うのです。綺麗だと思いまして」


 それは八重子の本音だった。薄いピンク色のブラジャーとパンティだけになった玲美は完璧な身体をしていた。今では女優、歌手としての活動が主だが、かつてグラビアアイドルとして鳴らしただけのことはある。たしかバストサイズはEカップ。そのくせウエストはかなり細い。


「実は、わたしにも“そういう趣味”があるのよ。よかったら、お風呂の中で抱き合わない?」


 玲美が言った。そういえば、芸能人でありながら浮いた話が少ない彼女には“レズ疑惑”がある。八重子は思わず服で自分の身体を隠した。


「うふふ、冗談。わたしはノーマルよ」


 悪戯っぽく笑う玲美。さっきまでは暗かったが、少しは心がほぐれたようである。


「でも、八重子さんも綺麗よ……」


 玲美はまじまじとこちらを見た。八重子の下着はFカップの胸を覆う黒いブラジャーとパンティである。


「胸、大きいのね……美人だし、スタイルもいいわ。シスターじゃなく女優になればよかったのに」


「私は、そんな……」


「芸能界に興味あるなら、うちの社長に紹介するわよ?」


 含み笑いをする玲美。


「肌も綺麗……ねぇ、すこしだけ、触ってもいいかしら?」


 彼女は、ほそい手を伸ばしてきた。いま、憧れの杉浦玲美が自分の素肌に触れてこようとしている。高鳴る心臓、高まる鼓動……


 このとき、八重子は動けなかった。金縛りにあったかのように……


(嗚呼、なんてこと……どうして、抵抗できないのかしら……?)


 彼女は身の危険を感じた。ひょっとしたら、これは人外に取り憑かれた女が持つ淫質の“魔性”なのかもしれない。それに退魔士たる自分がとらわれてしまったのだ。


「八重子さんって、素直でとってもかわいいのね……悪戯したくなっちゃう……」


 と、語る玲美の瞳が淫媚な光をたたえている。それは人ならざるモノを内に秘めた証なのか? 生と性の境界線をこえた彼女の手はゆっくりと、だが確実に、自分の胸に到達しようとしている。


(しっかり、しっかりするのよ八重子! このままでは、玲美さんに犯されてしまうわ!)


 自分に言いきかせ、八重子は下着姿の我が身を奮い立たせようとした。だが、原因不明の脱力感が襲い、指先一本にすら神経が行き届かない。なんという魔性力……


(見動きひとつとれぬとは……不覚……)


 八重子は自身の失態を恥じた。退魔活動に従事して数年たつも、いまだに自分は未熟だったのだ。玲美の手が迫るこの状況を切り抜けられないとは……


 だが一方で、玲美のいやらしい愛撫を心待ちにしている“もうひとりの自分”がいるような気がする。いや、それもまた人外の“淫力”なのか? 身体を犯される前に心がすでに犯されていたのだ。気づくのが遅すぎた。


(兄さん……)


 人は人外の快楽に身を委ねる直前、まるで走馬灯のように、これまでの生涯を振り返るものだと言われる。今、八重子が思い出しているのは異能犯罪に手を染め、出奔した兄、まことのことだった。名門高島家が生み出した最高傑作とも呼ばれた彼の行方は杳として知れない。


(兄さん、私を置いてどこに行ったの? いまどこにいるの……?)


 自分にとって誇りであり、最高の男である兄……それを失ったときの悲しみはどれほどのものだったか。今まで誰かに語ったことはない。他人にわかるものではない。そして妹として、その罪をそそぐため、八重子は実力者である藤代隆信の“添い寝相手”となった。あの老人に肌を捧げることで一族の立場を守ってきたのだ。


「動いちゃダメよ……八重子さん……」


 手を伸ばす玲美は濡れた小声で言った。今、国民的スーパーアイドルにより、この身は蹂躙されるのだ。誰もいない、誰も見ていない。


 観念した八重子は触れられる直前、目を閉じた……


(たすけて……兄さん……)


 そう願ったとき、ドアが開いた。


「悪りィ、八重子。シャンプー忘れた。貸してくれ」


 女湯に堂々と悟が入って来た。下着姿のふたりは完全に硬直した……






「見損ないましたわ! 女湯に堂々と入って来るなんて……痴漢ですか? 変態ですか?」


 石鹸の香りが充満する帰りの車内で八重子は頬を膨らませていた。助手席の玲美は真っ赤になって俯いている。


「いやぁ、まだ服を着てるかなと思ってさ」


 ステアリングを握りながら悟は笑った。


「毎回毎回、わざとじゃありませんの?」


「違う違う」


「本当かしら?」


「ホントホント」


 彼はニヤけているので本心はわからない。実は助けに来てくれたのではないかと八重子は思ったが……


(考えすぎだわ、きっと……)


 との結論に至った。


「一条さん、八重子さん。ありがとうございました」


 玲美は言った。


「子供のころ、亡くなった母がああいう小さなお風呂屋さんによく連れて行ってくれたんです。そのときのことを思い出せて楽しかったです」


 昔のことを思い出したかったのかもしれない。だから彼女は温泉に行きたいと言ったのか?


「そうか! いやぁ、よかったよかった。なぁ、八重子?」


 悟はバックミラーごしにこっちを見てきた。八重子はそっぽを向いた。


(でも、一条さんも気をつかっているのだろう)


 八重子は流れる車窓を見ながら思った。人外に取り憑かれた玲美にとって重要なのは精神的な安定である。


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