時計塔を守れ! 2


 “好きです、わたし村永先生のこと……”


 内気な雫の人生で、ただ一度の愛の告白はシンプルな言葉だった。そのひとことを口から出すのに、どれだけの精神力と体力を要したか……


 多香子は笑顔で“ありがとう”とだけ言った。愛の告白などと思ってはいなかったのかもしれない。だから休みの日も、プライベートでも一緒にいたいと告げた。


 あとから思えば、突然の告白に多香子も言葉を選ぶのに苦労しただろう。優しく、そして丁寧に断られた日の夜、雫はひとり家で泣いた。仕事漬けの母の帰りが遅いことを幸運に思ったものだ。


 その後、互いの関係がどこか不自然になったと感じた一時期があったが、やはり多香子は大人だった。ただの“先生と生徒”に戻ることが出来たのは、彼女が前と変わらず接してくれたからだと思っている。そうでなければ肩を並べて歩くことなどなかっただろう。


「ずいぶん、涼しくなったと思わない?」


 多香子は言った。


「そうですね」


 と、雫。真夏に比べれば、という意味だろうか? 風があっても陽光は眩しく強い。先月まで大地を灼きつけていた極限の猛暑のなごりが未成熟の肌に刺激を与える。


 多香子の服装はパンツスタイルである。水色のブラウスは長袖で、肘のあたりまでまくっている。着痩せするタイプだが、歩くと上下する胸は意外と豊かなものだということには気づいていた。知的で上品なルックスとのギャップも魅力がある。


「お兄さんは、元気?」


 多香子が訊いてきた。“お兄さん”とは一条悟のことであろう。夏休み期間中だけのメイドとして彼の家に出入りしていたため、心配した多香子がのりこんできたときは困ったものだ。そのとき咄嗟に“兄妹”と嘘をつくことができる悟には半ば呆れた。


「たぶん……」


 と、雫。


「たぶん?」


「夏休みが終わってから会ってないんです」


 雫は、そう言った。今、悟のもとには別の“メイド”が派遣されていると聞いている。教えてくれたのは薩国警備の畑野茜だった。


「そう……強くて、いいお兄さんよね」


 と言った多香子の頬が少し赤く染まったように見えた。彼女は先月、バスの形をした人外のストーカーにさらわれたが、悟に助けられた。雫はその場にいなかったが、そちらの詳細も茜から聞かされた。


(一条さんのこと、気になるのかしら……?)


 女の勘のようなものがはたらいた。格好よくて頼りになるのだから当然なのかもしれない。


 雫にとっても一条悟は気になる存在だった。男性を愛せない体質であるはずの自分がなぜ? 彼が女性のように美しいからだろうか? それとも家事が一切できないぐうたらなあの男に母性を感じているのか? よくわからなかった。


「電話とかもしないの?」


 と、多香子。


「しないんです」


 とは、雫。以前、交際を断られたこの女と三角関係にでもなったらどうしようか、などと一瞬考えてしまった。もし、そんな事態になったら奇妙なことである。






 敷地の入り口に立つ時計塔は午後四時前をさしていた。静林館高校のシンボルとして無限の時を刻んできた存在は、これまで数え切れないほど多くの生徒たちの顔を迎え、背中を見送ってきたに違いない。そして、今後も、それは続くはずだ。


「さようなら、津田さん」


 ポケットから鍵を取り出し、多香子は言った。これから時計塔の中に入り、掃除でもするのだろう。“たまには電話してあげなさい”などと彼女は言わなかった。立ち入ったことと考えているのかもしれない。


「さようなら……」


 挨拶を返し、雫も多くの生徒たちが下校する中に加わった。時計塔が毎日見ているであろう背中のひとつとなり、敷地の門を出た。






 雫はバス通学だ。“静林館高校前”という名のバス停に向かう途中、立ち止まり、バッグの中からスマートフォンを取り出した。母からメールでも来ているかもしれない。


(え……?)


 なんと、つい三分ほど前に一条悟からの着信があった。音を消していたので気づかなかったのだ。何用だろうか?


(噂をすれば、かしら……)


 などと思いながら、雫は通話ボタンを押した。向こうはすぐに出た。が、返答がない。


「あ、一条さん。雫です……」


 いぶかしく感じながらも、雫は話した。すると………


 ────しぃ〜ずぅ〜くぅ〜……


 電話の向こうで、今にも消え入りそうな一条悟の声がした。いったい何事があったのか?

 

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