添い寝する女 5

 汗ふきシートで腋を拭いている姿のままで、八重子は固まった。黒いパンティは穿いているが、ブラジャーは着けていない状態だ。そこに、この一条悟という男は入って来た……


「あ、着替え中だったの? 悪りィ」


 頭をかきながら言う彼は左手にハンバーガー屋の紙袋を持っている。


「ビッグバーガーのLセットだけど、ドリンクはコーラで良かったかな?」


 それは彼なりの善意だったのかもしれない。が、今の八重子は裸で腋を拭いているところだった。


「いりません……」


 と、いつもよりさらに低い声で八重子。手元に武器がなくて良かったと本気で思ってしまった。もしあったら、投げつけていただろう。


「でも、腹減ったでしょ?」


 とは、悟。普通なら謝って立ち去ろうとするものではないか? この男、わざとやってはいないか?


「ジャンクなものは食べない主義なのです……」


 追い出すために、そう言った。


「あー。でも美味いよ、これ」


 悟は言った。通常、人の好意を無下にすることはない。が、この格好では……なにせ自分は黒いパンティ姿のままで腋を拭いていたのだ。


「一条さん……」


「はい」


「これがどういう状況か、わかっているのですか?」


「ああ、腋の下を拭いてたんだね。暑いからねぇ」


(この男は……!)


 八重子はキレそうになった。


「これから着替えますので……」


 それでも精一杯の忍耐力をフル発揮して言った。


「わかったわかった。あ、ところで……」


 いったんうしろを向いた悟が、こちらをふりかえった。


「下着は黒に限るね!」


 そう言って悟はドアを閉めた。八重子は使いかけの汗ふきシートをびりびりに破り捨てた。






 普段、仕事中はヴェールに覆われている長い黒髪をポニーテールにまとめ、濃いグレーのTシャツとルーズなシルエットを持つテーパードジーンズに着替えた八重子。彼女が家の中を手際よく片付けている最中、廊下に携帯の着信音が鳴り響いた。自分の物ではない。


「もしもーし」


 寝室から悟の声がした。八重子は廊下に立ち、そっと聞き耳をたてた。隆信から受けた使命とは剣聖スピーディア・リズナーの監視。断じて掃除洗濯ではない。


「なんだ、鵜飼か」


 悟は言った。


(鵜飼……? 薩国警備の鵜飼丈雄か)


 八重子は、その名を知っている。超常能力実行局鹿児島支局、つまり薩国警備の鵜飼丈雄といえば、鹿児島の異能業界では有名人だ。EXPERにして徒手空拳の達人であり、若くして隊長職をつとめているという。知り合いだったのか?


「おまえな、それくらい自分とこでやれよ。俺は潜伏の身だぜ。つーか、なんで俺に頼むんだよ?」


 頼むとは? “仕事”の依頼だろうか。なにか不穏な動きがあったのか。


「部下が取り逃しそうだって?…………おまえが行けば大丈夫だろ。…………は、非番?…………カミさんと日帰り温泉でこっちにいない?…………夫婦喧嘩の火種を作る気はないっておまえなァ、俺は便利屋か」


 通話はその後しばらく続き、そして……


「報酬は?…………いいだろう」


 どうやら折り合いがついたようだ。剣聖が要求する報酬とは、やはり金か? 別の“なにか”である可能性は低いだろう。異能業界も、やはり金銭で成り立つ側面がある。一般世間と変わらないものだ。


「畑野さんに、相手の居場所を逐一、報告させてくれ。すぐ向かう。じゃあな」


 通話が終わったらしい。八重子はそそくさと、この場を立ち去った。






「高島さん、ちょっと出かけて来らァ」


 ラフな格好のままの八重子が居間で掃除機をかけているとき、Tシャツにストレートジーンズ姿の悟が顔を出した。


「わかりました。何をしに?」


 知らんぷりして訊いてみた。彼は鵜飼からの依頼で外出するに違いない。


「散歩」


 悟は言った。


「そうですか」


 と、八重子。行き先を訊こうかとも思ったが、あまり詮索すると怪しまれるかもしれない。こちらの任務は“監視”だ。


「合鍵は玄関に置いてあるから」


 悟は言って背中を向けた。Tシャツの裾に隠されているホルスターを八重子は見逃さなかった。それは腰に巻かれたベルトの後ろに横向きでくくりつけられていた。






 悟が住む城山から三キロ弱ほどの場所にある永吉ながよし甲突こうつき川沿いに面しており、九十年代におきた8・6水害では大きな被害を受けた。今となっては町にそのころの爪跡は見えないが、鹿児島に住む人々の心には消えない傷跡を残したものだ。


 かつて鹿児島刑務所があったことでも知られる。そのあたりが現在、多目的施設鹿児島アリーナとなっており、広く一般に開放されている。敷地内に大きな石門があるが、これが刑務所の正門だった。市民の要望を受け現在でも残されている。鹿児島の石造文化史を今に伝える貴重な存在だ。


 そんな永吉の一角に人も車もめったに通らないような狭い道がある。一条悟はそこに立っていた。そして曲がり角からその様子を覗くポニテ姿の八重子。尾行してきた彼女の主目的は剣聖スピーディア・リズナーの監視だ。だから、ここまでつけてきた。


(ヤツの実力を見ることができるかもしれない)


 気づかれぬように塀からこっそりと顔を出し、八重子は悟の背中を見た。あまり強そうなうしろ姿ではないが果たして……? なにせスピーディア・リズナーは最後の剣聖とも“偶然”の剣聖とも呼ばれる男だ。世間の評価は二分している。


 向こうの大通りからひとりの男が走ってきた。歳は二十代くらいだろうか? チェックの半袖シャツを着ており、短髪でやや小太り。必死の形相だ。悟は一歩前に出て立ちはだかる。


「どけ!」


 男は言った。鵜飼の部下が取り逃しそうになるほどの力を持つらしいが?


「ダメ!」


 と、悟。子供を叱るような口調だ。


「ギャンブルでこしらえた借金が返せなくなったからって、人を殺していい道理はねェよ。おとなしくお縄につくんだな」


 そう言って両手を広げる悟。通せんぼのサインだろうか?


「うるせぇぇえっ!」


 叫んだ男の体が発光した。次の瞬間、彼は高さ三メートルほどの巨大な馬に姿を変えていた。どうやら人外の存在に取り憑かれていたようだ。

 



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