添い寝する女
添い寝する女 1
鹿児島市に隣接する
陽光眩しく残暑厳しい好天の午後一時半すぎ、その3号線沿いの
いや、赤いのは目だけではなかった。牙をはやした口から血が流れている。人間を食ったのだろう。さらなる獲物を求めて道路を歩く姿は、我々人にとって恐怖でしかない。人外がもたらす被害は生命にも財産にも及ぶ。
ケルベロスの前にひとりの女が立った。服装から察するにキリスト教のシスターだ。黒い修道服を着ており、右手に彼女の背丈と同じくらいの長さの“棒”を持っている。頭に被るヴェールは背中まである。
なぜか、陽射しが強まったような気がした。いや、気のせいではないのかもしれない。太陽神の恋心に火がついたのだとしたら、それはこのシスターの美しさが原因に違いない。ヴェールの下にのぞく切れ長の目は鋭い眼光を放つものの、顔の造形は極めて繊細だ。目鼻口の配置に黄金比の概念が存在するのか否か? 友人と討論になったら彼女をその場に連れていけばよい。一発で決着するだろう。
シスターの名は
早くも敵と認識したのか、ケルベロスはいきなり襲いかかった。両者間に数メートルほどの距離しかなかったため、近接戦闘の幕はすぐにあがった。猛然と走る獣が四本の足で宙を舞い、上空からの攻撃を仕掛けたが、八重子は既にその場にいなかった。大きくサイドにステップを踏んだのだ。
八重子が手に持っていた銀色の棒が伸びた。その先端は花の蕾に似ていたが、なんと“開花”した。三叉の槍となったのだ。それは藤代アームズ製FS-0302。通称“アウフブリューエン”と呼ばれる伸縮式の槍だった。天才マイスター
『Gyaaaaaaaaaaaaaaaannnn!』
地獄の底から響くようなケルベロスの悲鳴。八重子が両手で繰り出した槍に左の腹を突き刺されたのだ。さらに濃紺の刃が強烈な光を放った。
『Gyaaaaaaaaaaaaaaaannnn!』
もう一度、同じ悲鳴をあげるケルベロス。すると、みるみるその巨体が縮んでゆくではないか。黒い体毛が引っ込み、元の人間に戻るその様は、まるで大人が子供に戻る退行現象を思わせる。
“返り魔の力”……
今の光は、そう呼ばれる。退魔士、つまり宗教的能力者が扱う異能力だ。ある物体を通すことにより正の気を放出するものである。八重子はアウフブリューエンを媒介とし、ケルベロスの体内にそれを送り込んだに違いない。
勝利した彼女……だが、その美しい瞳に勝者がたたえるべき歓喜の光はなかった。なぜか? もともとそういう女だからだろうか? それとも目の前に横たわる“ケルベロスだったモノ”が幼い少女だったからだろうか? それは当人のみぞ知る。
退魔連合会とは仏教、神道、キリスト教などの団体が宗教宗派の垣根をこえて結成した異能者の集団だ。歴史は古く明治時代まで遡る。超常能力実行局とは違い、その存在は世間に公表されている。そして、そこに所属する宗教的能力者たちのことを退魔士という。
加算性気質者……異能学上、彼らはそう分類される。負の気と対となる強い正の気を持つ者たちであり、その能力は“返り魔”と“効き魔”のふたとおりに分かれる。前者は負の気を理論上、相殺するもので戦闘に向く。後者は負の気の存在を感じ取るレーダーのような役割を果たすことから“探知能力”と呼ばれる。
なぜ彼ら加算性気質者が“宗教的能力者”もしくは宗教能力者と言われるのか? この力を持つ者の大半が宗教団体を母体とした退魔連合会所属の退魔士となるからだ。そして、その使命は人外の存在への“対処”。彼らは生涯を、こことは異なる世界からやってくる異形のモノたちとの戦いにささげている……
八重子が勤務先の退魔連合会鹿児島支部伊集院北出張所を出たのは午後七時半のことだった。昼間の戦闘に関する報告書を仕上げ、その他の業務を済ませたら、こんな時間となった。この日は九月三日。すでに日は沈み、昼間より気温は下がっている。だが、湿気が多い夜だ。
ケルベロスとなった少女は11歳だった。両親の不仲が原因で、負の側面に堕ちた彼女は“しかるべき施設”へと搬送された。そこで“しかるべき治療”を受けることになるはずだ。だが八重子が上に提出した報告内容は戦闘に関することだけである。少女が抱える背景を調査するのは、別の者の仕事となる。
正装である黒い修道服姿のまま、八重子は駐車場に停めてあった大型のオフロードに乗り込んだ。エンジンをかけると、センターコンソールや機器類が点灯し、無骨な外観と真逆の優雅な内装を闇に映し出す。美しすぎる女主人とともに……
発進し、三分もたたないうちに、予報どおりの雨が降りはじめた。最初はぱらつく程度だったが、幹線道路に出たころには雨足が強まった。目線の高いフロントガラスの外側をワイパーがせわしく往復し、視界の確保に貢献する。この時間はまだ車が多い。夜景に溶け込むあまたのヘッドライトたちが路上に散らばる濡れた宝石となり、人口二万五千のちいさな町に彩りを添えていた。
四十分ほどをかけて八重子が辿り着いたのは鹿児島市にある
「八重子様……ああ、今日は“おつとめ”の日ですね」
やはり傘をさし、出迎えたのはこの家の家政婦、取手さわ子だった。おつとめとは、なんなのか?
「こんばんは……」
八重子は挨拶をした。女性にしては低い声である。
「土砂降りになりましたね」
そう言い、さわ子は八重子を中に通した。門から少し歩いた先の立派な玄関の外に傘を置き、八重子は大邸宅の客人となった。オックスフォードタイプの紐靴を脱ぎ、スリッパに履きかえた。黒い修道服の肩が濡れている。
「夕食は?」
さわ子は訊いた。八重子はヴェールをかぶった頭を振った。
「では、すぐに用意します」
「その前に“会長”に挨拶をして来ます」
そう言って、八重子は二階にあがった。
八重子は寝室のドアをノックした。反応はない。
「八重子です……」
声をかけた。すると……
「入りなさい」
渋い声で応答があった。中にいるのはこの家の主にして藤代グループの会長、藤代隆信だ。八重子はドアを開けた。
寝室は薄明かりのみがついていた。カーテンに覆われた窓の外から雨音が聴こえてくる。舶来物の家具が並べられた部屋の中、やはり舶来物のベッドに、ここの主人は寝ていた。
「来たか……」
と、隆信。
「はい……」
とは、八重子。中に入り、ドアを閉めた。
「こちらへ来なさい」
そう隆信に言われたとき、修道服姿の彼女は、すこし迷った。
「昼間、“仕事”で汗をかいたのです。シャワーを……」
「構わん」
観念した。この老人に逆らうことなどできる身ではない。いや、たとえ卑しい立場の自分でなくとも、誰も及ぶことなどあるわけがない。隆信とはそれほどまでに大きな存在だ。
八重子はヴェールを外しテーブルに置いた。長い黒髪のロングヘアがかすかな芳香を放ち、肩にかかる。次にベッドの脇へと立った。寝ている隆信の視線が熱く突き刺さる。
そして彼女は、その場で黒い修道服を脱ぎはじめた……
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