最後にして偶然の剣聖

さよなら本塁打

剣聖、最後の“仕事”

剣聖、最後の“仕事” 1

 小雨が降る夜だった。マイアミの多湿な夏は、物騒なこの街にふさわしい陰湿な空気を運んでくるが、頻繁に事件の香りをも漂流させる。いや、死体の匂いと言ったほうが的確なのかもしれない。その裏にある陰謀を嗅ぎつければ、まっとうな人間ならば自己の五臓が腐り落ちそうな嫌悪に襲われるのだろうが、慣れてしまえば、日常生活になんの支障もきたさない。ここはそんな環境の街である。セレブが多く訪れるビーチ近辺とは違い、治安は悪い。


 ダウンタウン裏手の路地を、ひとりの日本人男性が傘もささずに歩いていた。その姿、まさに闇と光が生み出した幻影のごとし……点滅している街灯の中、浮かぶ女性的なルックスが美しかった。Tシャツにスキニージーンズというラフな格好が、細くしなやかな身体を強調させている。男であっても、欲望にかられそうな美形である。


「ねェ、お兄さん……?」


 艶めかしい声がした。彼が珠玉のような双眸を向けた先に、傘をさした日系人の女が立っていた。


「あんたみたいな綺麗な男が夜、出歩くと、あっという間に掘られるよ」


 彼女は言った。見ると、ミニスカートの上に着ているタンクトップは、ところどころに切り刻まれ、素肌が大胆に露出していた。大事なところは隠れているが、情欲をそそる立ち姿だ。若い娼婦である。


「遊ばない?」


 傘を持たぬ左手で肩の布地を少しずらし、雨ではない別のなにかに濡れた仕草で彼女は誘った。ブラジャーはつけていない。タンクトップに乳首が透けて浮き上がっていた。


「悪りィ、実は“用事”があってね」


 男は肩をすくめた。美しく端正な顔からは想像できないほどに、口調は乱雑だった。


「残念! あんた、ハンサムだから安くしたげようと思ったのに」


「運が悪かったな。俺のほうが」


「あら、褒め言葉?」


「もちろん……ところでさ、“ロドリゲス総合病院”って知らねェか?」


 彼の、その質問に娼婦はファンデーションを塗りたくった首筋をかしげた。


「そこを左に曲がって、二本目を右行った先のとこだけど、こんな時間じゃ閉まってるわよ?」


「いや、“開いてる”さ。俺の情報が正しければね」


「あんた、どっか悪いのかい?」


「“見舞い”さ」


「そう……気をつけなよ。あそこは“ヤブ医者”って評判さね」


「らしいな」


「名前、教えとくれよ?」


一条悟いちじょう さとる


 美しい彼はウインクをした。その瞳から星が飛び散らないのが不思議だった。いや、一条悟という人自身がゴミ溜めみたいな街にあらわれた流星なのか。雨の中、立ち去るうしろ姿を見おくりながら、娼婦はそう思ったかもしれない……






 ダウンタウンの真ん中に位置するロドリゲス総合病院は古ぼけていても大きい。治安の悪いこの街では、日中、銃で撃たれた者やナイフで刺された者、レイプされたと泣きわめく女が頻繁に担ぎ込まれる。ダウンタウン住人の血液で潤沢な経営が出来ているなどと揶揄する者もいる。


 無機質な手術室の電気は灯っていた。ベッドの上に若いアメリカ人男性の死体が眠っている。傍らに術着姿の医師が立っていた。


「何者かね?」


 医師は訊ねた。年齢は五十代ほどか? ヒスパニック系の風貌をした男で、髪が薄い。やや小太りだ。


「面会だよ」


 無断で入って来た一条悟は答えた。小雨に濡れた姿すら美しい。


「無意味だ……即死だったらしい。不運な事故だ」


「事故?」


 悟は不敵に笑った。


「急ブレーキをかけた跡がねぇな。車体が沈まなかったから、金玉が潰れてやがる」


 見ると、その死体の下腹は原型をとどめていなかった。


「これが事故なら、膝がブッ潰れるもんさ。万事休すだな」


 勧告する悟。顔に似合わぬ粗野な口調だ。


「その男は“適合者”らしいな。そして、心臓移植を求めているのは某上院議員。公権力にしがみつくために長生きを選ぶのは勝手だが、殺すのはどうかねェ……」


「臓器移植ネットワークに適当な登録者がいなくてね。特殊な血液型なのだよ」


 医師は溜息をつき、そして……


「条件付きで手を引かないかね?」


 と、もちかけた。


「医師としての私の腕は世界中に鳴り響いている。それに見合った報酬も得られる。君は黙って手を引くだけで、大金を得られるよ」


「金なら一生分稼いだよ」


 悟は言った。


「ちなみに、その上院議員はさっき逮捕されたよ。理由はこの件じゃなく、女子大生に対する強制わいせつさ。体調不良のわりに元気なオッサンだぜ」


「ならば、私に関わる理由はなくなったのではないかね?」


「あるさ。あんたは過去にも、似た事例に関わってきた。有名俳優、大富豪、自動車メーカーの会長に金持ちの実業家……カルテの改ざんが罪状さ。裁くのは医師法だ」


「交渉は決裂かね?」


「悪党と組む手なんか、ハナッから持たねェよ」


「悪党か……君も同類だろう?」


「まったくだ」


 悟は笑い、そして……


「同類なだけに、悪党をのさばらせとく危険性を知っているのさ」


 と、締めた。


 医師の背後にあるドアが開いた。


「おや……?」


 と、悟。幾多の修羅場をくぐってきたこの男も、予想外の“再会”に少しは驚いたのだろうか?


「私の“用心棒”だよ」


 医師が紹介した。さきほどの娼婦が、そこにいた……

 


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