車庫、あるいはトンネルの中

kenko_u

第1話_ある彼の時間_1

 ――ぼやけた視界、身体はずっしりと重く、動かない。

 半覚醒状態。

 体には動かそうという意志がない。脳は睡眠を求める一方で、一部だけが完全な覚醒状態になっている。頭の中を大量の記憶が駆け巡っている。


 眼球だけを巡らせる。

 視界の端に見えるカーテンの外の明るさから察するに、時刻は午前三時前後といったところか。

 それ以外は何もわからない。自分が何者か、いまが何年何月何日なのか、そういう情報が全てあやふやになり、自我がどろどろに溶けて、存在が薄れている時間。


 長く生きていれば、そういうことも何度か、あるだろう。

 睡眠と睡眠のあいだ、自分という存在のバックボーンが全て溶けて消えたような錯覚に陥ることが。


 夢を見ていた気がする。

 電車に乗って、別れた恋人と再会する古い記憶。本当に偶然に隣に座り、再会とも言えないような微妙な時間を過ごした、遠い遠い記憶。夢なのか、起きてから過去の記憶がよみがえったのか、それも判らない。

 いや、もしかするとそれは妄想、もしくはこれから体験することの予知夢かもしれない。時間感覚は信用できない。


 目の前を見る。ダブルサイズの布団の、自分の反対側には、タオルケットに身を包んだ人物のシルエットが見える。

 彼女だったか。妻だったか。愛人ということはないと思うが。


 顔は見えない。

 自分の脳が自分には見えないように仕向けているのか、それが自分との何番目の相手なのか、そもそも自分は何人の人と褥を共にしたことがあるのか、すべてがぼんやりとしている。


 どうでもいい、寝て起きればもう一度現実は形を取りもどし、殻を纏った日常へと戻る。

 そう思う一方で、夢と現のあいだ、どろどろになった自分の目の前に見えたシルエットはとても、扇情的だった。

タオルケットのあいだから両の腕が伸び、胸元に折りたたまれている。

 肋骨から腰、尻へと続く柔らかな曲線はひどく動物的で、美しい。


 頭の中で氾濫している情報が、一瞬だけある人物の記憶をこぼし、見せた。

 学生時代の数年間、心と体を共有した一人の女性。


 記憶は過去かも、創作の未来かもわからない大学時代へと連想し、飛ぶ。

 なにもかもが鮮烈で、青くて、甘かったあの頃。

 泣き、笑い、怒り、ただただ全力で、本気で。生きているだけで、幸せだった。

 歌を歌っていた。日本中で歌われた、底抜けに力強い、青春のうた。

 何度――声を枯らすほどに歌っただろう。

 そう言えばあれも「電車」だったなと思い出す。

 あの頃から――自分は間違わずに、ここまでこれただろうか?

 すばらしい今日を、意味のある今日を、重ねられただろうか?


 混濁した意識の中で、脳は左手だけに動くことを許可した。するすると目の前の愛しい、愛しいはずの顔に手を伸ばす――届かない。

 仕方なく左手を折りたたんで、鼻の頭を掻く。

 昨晩の行為の残り香が、左手の指先にまとわりついていた。

 獣のようなそれに安心をして、自分は再び、眠りの中へ落ちて行く。

 どろどろとした記憶のスープとともに。

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