第3話 七日目 ヌタリヌタリ
河右衛門は、鴨の島の湖岸に一人座っていた。
顔がこわばっている。
先程から何かを待っているようだった。
すると果たして、
“オイ、キサマ、何ノツモリダ”
湖の波の下から、おぞましい声が響いた。
とても不快で汚らしく、生理的な恐怖を覚えさせる声であった。
東京湾の底のヘドロが話し始めたら、きっとこんな声だろう。
「カ……パ……」
河右衛門は答えようとしたが、カラカラに口が渇いて声が出なかった。
慌てて唾を飲み込み、話し始める。
「も、申し訳ありませんカパっ。知り合いの人間だったため、つい捨て置けず」
平身低頭して、河右衛門はそう言った。
“言ッタハズダ。我ノ邪魔ヲ、スルナト”
声とともに水面上に浮かんできたのは、直径4-5メートルはあろうかという巨大な肉塊であった。赤黒いその肉塊には無数の目があり、そして無数の手が触手のように生えている。その怪異は無数の目でギョロリと河右衛門を見据えた。
“コノ湖ノ主ハ、誰ダト思ッテイル”
「そ、それはもちろん、あなた様カパ!」
ためらう様子も見せず、河右衛門は答えていた。
“ナラバ、私ノ命令ニ逆ラウナ”
“ナゼ貴様如キガ、マダコノ湖ニ住ムコトヲ許サレテイルト思ウ”
「それはもちろん、河中湖の主たるあなた様が慈悲深いおかげカパ! 今後はご命令を守るよう、いっそう気をつけますカパ!」
“ソウカ。ナラバ、カワリニ1人殺セ”
その醜悪な肉塊が発した言葉を聞き、河右衛門は一瞬耳を疑い。
やがてその意味を察して震えた。
“誰デモ良イ。1人助ケタ分、1人貴様ガ殺セ”
“ソレデ、償イトシテヤル”
それは恐ろしく悪意に満ちた命令。
ごく平穏な昔話妖怪である河右衛門にとって、想像を絶する残酷さであった。
「あ、あ、あ……それは、そればっかりはご容赦下さいカパ!」
ただでさえ低くしていた頭をさらに地面に擦り付け、河右衛門は懇願する。
「オイラにはそんな大それた才覚も、能力もございませんカパ! どうかそればっかりはご容赦下さいカパ! もう二度と、絶対に人間を助けませんカパ! だからっ……」
しかし、その妖怪は恐ろしく冷酷で、残虐であった。
“ナラヌ。必ズ、殺セ”
「そんなっ、どうか、どうかお許し下さいカパっ!!」
彼に出来るのは、ただ震えながら頭を下げることだけであった。
と、その時であった。
「お水こぼれてますよ」
声がした。
気づくと、まわし一丁の少年が歩いてくるところであった。
カルトがいつの間にか、鴨の島に戻って来ていたのだ。
「あ……女の子はどうなったカパ!? 無事カパ!?」
気になっていたため、思わず河右衛門は尋ねてしまった。口に出してから、この場で聞くのは不味かったと気付く。しかしカルトは、嬉しそうにロッキーのポーズをすると、
「ハッハー! 無事に目を覚ましたのでキッチリ病院送りにしてやりましたよっ」
「(え、こいつ何言ってるカパ……)」
“(エ、コイツ何言ッテルンダ……)”
妖怪二人の困惑を気にも留めず、カルトは上機嫌で話し続ける。
「いやいや、おかげで助かりましたよ。本当にありがとうございます」
「あっ、いやっ、違う、そんなことは全然っっ」
よりによってこのタイミングで、と大慌てする河右衛門。
だが、カルトは満面の笑みを浮かべて答えた。
「はぁ? 何言ってるんですか? 別に河右衛門殿にはお礼を言ってないですよ」
「カパ!?」
「俺がお礼を言ったのは、こちらの怪異の方にです」
彼は水面に浮かぶ肉塊を指差すと、そう言ってのけたのだった。
“ナニッ!?”
「いやいや、ご謙遜を」
よく見るとカルトが浮かべているのは、悪い笑みだった。
「この怪異の方が手を放して下さらなかったら、今頃俺も彼女も湖の底ですよ。俺達を助けたのは、むしろこちらの御仁でしょう」
そして彼はさらにたたみかける。
「しかし話を聞いて俺は感心しました。こちらの河中湖の主? とかいう? 御仁は自分が我々を助けたのを鼻にもかけず、まるで河右衛門殿の手柄のように話しなさる。いやぁ、大した器の大きさです」
最初に自分がミスって逃したんだろ。カッパさんのせいにすんなよ。器超ちっちぇーな。
そう言ったも同然だった。
“…………”
肉塊の怪異は答えない。答えられるわけがない。
妖怪としてのプライドに関わる、実に痛いところを突いているからだ。
「カパ……」
そして河右衛門にとって、それは驚くべき光景だった。
ただの人間であるカルトが、あの恐ろしい怪異を黙らせていた。
「ヌタリヌタリ……ですね」
さらに彼は、その醜悪な肉塊の怪異の名を言い当てた。
ヌタリヌタリ。水難と溺死の恐怖から生まれる底なし沼の怪異である。
「知っているカパッ!?」
「知識としては知ってますが、見るのは初めてです。そして――」
「――倒すのも、これが初めてになりますね」
その言葉とともにカルトの歩き方が変わる。
両腕をだらりと下げ脱力するとともに、体がほとんど上下しなくなる。
――古流拳法吉備流・運足『水舟』
しかし戦闘モードになったカルトの前に割り込んだのは、河右衛門だった。
「ちょ、ちょっと、何するつもりカパ!?」
「義を見てせざるは」
「しなくて良いカパァァァッ!!」
カルトの胴に抱きつくと、必死で歩みを止める。
「敵うわけないカパっ! 死んじゃうカパっ!身の程わきまえるカパ!」
「ちょ、ちょっと止めて下さい、河右衛門殿っ」
そうして二人が揉めている間に、ヌタリヌタリは呆れたように溜め息をつくと。
“くだらん……カッパ、よくその馬鹿に言い聞かせておけ”
ずぶずぶと水の中に沈み、姿を消したのだった。
それを見た二人の反応は、正反対だった。
「た、助かったカパ……」
ヘナヘナと座り込む河右衛門。
「逃げられましたか……」
不満そうに水面を睨みつけるカルト。
「いやいや見逃してもらったんだカパっ! 何考えてるカパっ!」
「え、いや、あのまま怒りに任せて掴みかかって来たら、陸上に引き上げて戦える公算があったんですが」
「水中だろうが陸上だろうが、お前さん程度すぐお陀仏だカパ!」
「かなり用心深い性格。自分が絶対優位な水中以外では戦わないつもりでしょうか」
「話聞いてないカパね!!」
「水中戦を行う準備が必要ですね」
そう言ってケータイをかけようとしたカルトに対して、河右衛門はさらに慌てて言った。
「おいおいっ、本当に戦うつもりカパ!?」
「え、あ、はい」
「なんでカパっ!?」
「人命に関わる被害が出ている。その理由だけで十分でしょう」
「で、でもっ、それでお前さんが犬死したって……」
「逆にお尋ねしますが、なぜ河右衛門殿は戦わなかったのですか?」
「え……」
河右衛門は、言葉に詰まる。
気づくとカルトが真っ直ぐな瞳で、河右衛門を見据えていた。
「あのヌタリヌタリがこの河中湖に現れたのは、たった3ヵ月前でしょう。そんな新参者に、あんな邪悪な妖怪に、なんで湖の主の座を譲ってるんですか」
「あ……え……、どうして3ヵ月前なんてこと知ってるカパ?」
「来る途中で水難事故の発生数を調べました。3ヵ月前から、この湖のは月3-4人の死亡事故が頻発しています。遺体が発見されてないのを含めればもっとでしょう」
「月3-4人……そんなに……死んでいるカパ……」
河右衛門は絶望に目を見開くと、頭を抱えて座り込む。
「その様子だと、河右衛門殿の見てないところで襲っていたようですね」
「知らなかった……カパ……」
だが河右衛門は、震える声を搾り出す。
「で、でも、オイラが戦ってても、それは変わらなかったカパ! お前さんには分からんだろうが、アイツは強いんだカパ! 人を殺す妖怪は、強さが根本から違うんだカパ! 勝手なこと言うなカパ!」
それはカルトも知っていた。
怪異は人の感情や想像が結晶化して生まれる者である。元となる感情は様々だが、基本的に知名度が高く、そして長く感情エネルギーを集めた古株妖怪の方が強い。
しかし人を殺す妖怪は例外的に強いのだ。人生の最期にあたり撒き散らした大量の恐怖を喰らい、あわよくばその死者の狂える魂すら喰らう。そうして力を蓄えた妖怪は、通常とは別格である。
「お前だってっ! オイラに簡単に投げられてる奴が、敵うわけないカパ!」
「いや、そんなことありません。正直、あの時俺は全力とはほど遠い感じでした」
「いや、さすがにその言い訳は見苦しいカパ」
「本当にです。せいぜい60%程度……そう、つまり禍留戸60%状態でした」
「いや、いやいや、そんな戸愚呂弟みたいなこと言っても騙されないカパ!」
食ってかかる河右衛門に対して、しかしカルトは微笑んだのだった。
微笑んで、こう言ったのだった。
「ならどうでしょう。もし俺が河右衛門殿に相撲で勝ったら、一緒に戦ってくれませんか」
「は……なに言ってるカパ?」
「今度俺が勝ったら一勝一敗。俺に河右衛門殿と互角程度の力があれば、同盟を組むに十分でしょう。二人力を合わせれば百人力です」
「……」
「逆に今度も俺が勝てなかったら、身の程わきまえてヌタリヌタリとは戦いません。そういう賭けはどうでしょう」
彼はそう言った。
「な、なんでそんなこと急に言い始めるカパ? さっきまで戦う戦う言ってたのに」
戸惑う河右衛門に対して、カルトは少し寂しそうに答えた。
「立ち向かってほしいからです」
「カパ……?」
「俺は戦います。すでに人が死んでいる。俺はヌタリヌタリを見逃せない。人命は最優先です。……でも……しかし……それでも……俺は人命と同じぐらい、河右衛門殿の誇りを大切にしたい」
「誇り……カパ?」
「例えばもし俺や退魔師がヌタリヌタリを勝手に倒したとして、それで湖の主に返り咲いて河右衛門殿は満足ですか? それで今後胸を張って生きられますか?」
「それは……」
「もしそうなったら、今後同じことが起きた時には、また誰かが退治してくれるのを震えながら待つことになるでしょう」
カルトのその言葉は、決して責めるものではなかった。むしろ深い同情と優しさがこもっているのが、河右衛門にも分かった。だからこそ反論を許さず辛かった。
「だから俺が相撲に勝って認めて下さるなら、一緒に立ち向かいましょう。大切なのは勝つことではなく、立ち向かうことです。立ち向かったという誇りが、きっとまた河右衛門殿を支える日が来るはずです」
ただの少年であるカルトが、そう言って大きな笑みを浮かべていた。
河右衛門はその光景を見て初めて理解した。
異能もなく、腕力もさほどない。
でもこの少年の強さは、別にある。
「ありがとうカパ」
まず口をついて出たのは、感謝の言葉だった。
「心から礼を言うカパ……でも、やはり、アイツと戦わせるわけにはいかなカパ。危険である以上、やはりオイラは燃崎殿を全力で止めなくてはならんカパ」
これもまた河右衛門にとって偽りない本心だった。
しかし少年はむしろ、その言葉に満足そうに応じた。
「望むところです!」
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