星の守護者の箱庭遊戯録

agNi

prologue


 それは夏の終わりを感じさせる茅蜩ひぐらしが鳴く、空を燃やす夕焼けが雲の切れ間から見える刻。

 閑散とした縁側に腰掛け、九条しゅうは緋に染まっている庭の池の中で泳ぐ錦鯉を眺めながら一人、柿の木の御盆に乗っていた冷茶を飲んで黄昏ていた。


「………終わったんだな、本当に」


 その呟きと共に、白い椿の彩られた緑色の湯呑みを置いた右手は、無意識にシャツの中から覗く首に掛けていた指輪へと伸びる。


 繊細かつ芸術的な幾何学模様の銀色の彫刻を施された深い漆黒の指輪の腕は、中石に嵌め込まれた、息を呑むほどに美しく一点の穢れの見えない透き通った宝石を引き立たせている。その宝石の夕陽の光に照らされて輝きを放つ様は、宛ら夜空に瞬く星の光。

 宝石や調度品の愛好家が見れば、どれだけの札束を積んででも手に入れたいと思うだろう程の一級品である事は間違いない。

 しかし、その指輪の宝石にはまるで封印を施しているかの様に、似合いそうに見えない無骨な鎖が巻かれていた。


 愁はそんな指輪を指先で弄びながら、再度独り言を呟いた。


「未来での戦い………この時代にとっては一瞬の事でしかない出来事だったけど………明日、父さんと母さんの墓参りに行こうか」

『はい、お付き合いしますよ。愁』


 茅蜩の鳴き声とそよ風に揺られた風鈴の音。そして愁の静かな声しか聞こえなかった縁側に響いた、耳触りのいい優しい声。

 薄暗い廊下の向こうから縁側へと歩み寄って来たのは、臙脂色を基調とし金糸で鞠の刺繍が縫われた雅な着物に身を包む、見目麗しい銀髪の女性だった。

 手には愁の傍にあるものと同じ湯呑みと、茶請けの入った皿を乗せた御盆を持って愁の横まで来ると、物音一つ立てずに愁の置いた座布団の上に座り、御盆を置いた。


『どうぞ。お茶に合いますよ?』

「本当に最中が好きだな手鞠は。俺が用意しないといつも最中食ってるだろ………っておいなんだその量」


 手鞠てまりと呼ばれた女性が差し出した皿に山盛りに積まれた最中を、愁は苦笑しながら受け取って口に運ぶ。

 外側の皮がサクリと乾いた音を立て、噛み締める毎に中にたっぷり詰まった餡の優しい甘さが、口の中に残っていた冷茶の渋味と交わって美味い。

 一方、手鞠は愁の言葉にぷくりと頰を膨らませて、唇を尖らせた。その仕草は拗ねた幼子の様だ。


『だって好物なんですから仕方ないじゃないですか。それに未来にいた間は、全く食べられなかったんですもん。やっと帰って来れたんですから、抑えに抑えていた欲求を満たしても罰は当たらないのです!』

「………それにしたってその量は辞めろ。今日の夕飯はいなり寿司にするつもりだったんだが………茶漬けにするか? 手鞠だけ」

『はうっ!? だ、駄目です愁、それはいけません! ああ! 返してください! 食べられます! ちゃんと全部食べられますからぁっ!』


 この世の終わりに並ぶ絶望を受けた手鞠は顔を青くして、愁に覆いかぶさる様に取り上げられた最中の皿に手を伸ばしながら泣き喚いて懇願する。因みに彼女の瞳から溢れている涙は本気マジである。


『しゅう〜……しゅう〜………』

「泣くなよ……人化も解けてるし。今はそれだけにしとけ」

『むぐっ』


 涙声で愁の名を呼び、瞳を潤ませてを寝かせる手鞠は、まるで捨てられた子犬の様。

 そんな彼女に愁は半ば呆れながら、皿から一つだけ最中を取って皿を置き、彼女の口に押し込んだ。

 手鞠はピタリと動きを止めると、段々と恍惚の表情を見せ、頬を赤く染めながら幸せそうに最中をもぐもぐと咀嚼し始めた。

 静かになった手鞠を横目に愁は太腿に肘をついて、『お前は子どもか』という突っ込みを心の中で入れながら小さく笑った。


『愁、もう一個』

「駄目」

『ケチ』

「お前のいなり寿司の具は焼きしめじな」

『いゃぁぁぁああああああッッッ!!!??』


 鳴いていた茅蜩、庭の木に止まっていた鳥が一斉に飛び立つ程の手鞠の絶叫が、屋敷中に木霊したのだった。




 結局。

 手鞠が今度は愁に背を向け、しくしくしくしくと声に出して啜り泣きし始めて煩かったので、愁は観念して手鞠の首根っこを掴むと膝枕状態にしてその口に最中をもう一つ捩じ込み、漸く縁側は静寂を取り戻した。


『ふぁ、ほうえふ』

「全部喰ってから喋れ」

『もごもご………けふっ』


 愁に仰向けになったまま、口から最中を咥えた状態で何かを思い出して話し始めた手鞠を愁は窘める。

 最中をシュレッダーの如き速さで口に押し込んだ手鞠は、自身の膨よかな胸の谷間に手を入れると、一枚の白い封筒を取り出して愁に差し出し、


『最中を焼いていた最中に、突然愁宛の手紙が降ってきました!』


 ドヤァという幻聴が聴こえてきそうな程に綺麗なドヤ顔でそう言い放った。


「何で今胸の中から取り出したおい。普通袖だろせめて。変に生暖かいんだけど。嫌に生暖かいんだけど」

『調理中で袖を捲ってたんですから仕方ないじゃないですか』

「だからってそこに入れるなよ………というか何だって? ? 台所に?」

『はい。突然天井がピカッて光ったと思ったら、ひらひら〜っと。危うく最中の皮の生地に浸かってしまうところでした」


 可愛らしい手の所作でその時の状況を表現している手鞠だったが、それを見る愁の瞳は何か可哀想な生き物を見る悲痛な視線を送っていた。


「………お前、最中食い過ぎて頭の中まで餡子になっちゃったか?」

『酷っ!? ホントです! 本当に降ってきたんです!!』

「今度からアン○ンマンって呼ぶぞ」

『私女ですからッッッ!!!』

「え、突っ込むところそこ?」

『というか愁ッ! 私の渾身の駄洒落を無視しましたねっ!?』


 ……………。

 一瞬沈黙が訪れる。


「………え?」

『【最中もなかを焼いていた最中さいちゅう】って言ったんです!』


 縁側の床をバンバンと音を立てて叩き、手鞠は渾身のギャグの不発とその説明をさせられるという羞恥に顔を真っ赤にして叫んだ。

 愁は顔を覆い、盛大な溜息と共にを零した。


「字面じゃないと分かり辛いだろ………」

『もう愁なんか知りません!』


 完全に不貞腐れた手鞠は、庭先に身体の向きを変えて愁から顔を背けた。

 愁はいつもの事だと特に意に介さず、そんな手鞠の頭と耳を撫でながら受け取った封筒を裏返したりして観察し始めた。


 封筒には『九条愁へ』という宛名だけ。

 差出人は不明。

 手鞠の封筒を受け取った経緯を信じるなら、怪しさで言えば100%である。


「………ま、どうせまたリボーンの奴が何か企んで用意したんだろ。今更SFチックな事を何されようと驚きもしないわ」


 脳裏に全身黒尽くめで首にオレンジ色のおしゃぶりを掛け銃を構える赤ん坊の姿を思い浮かべた愁は、また厄介事かと肩を落とした。


 そもそも阿保みたいに強い赤ん坊のスパルタ教育から、タイムスリップして世界滅亡を掛けた戦いに身を投じるなどというSFの極致みたいな事まで様々な経験をしてきた愁からすれば、手紙が突然降ってくるなど生易しい話である。


 そして、自身の膝の上で耳を弄られて蕩けている手鞠もまた、非科学的な存在であるのだ。

 これ以上SFやファンタジーやオカルトが襲来した所で、愁が動じる要素など皆無であった。


「鬼が出るか……蛇が出るか………」


 これから起こるであろう災難に戦々恐々としつつ、愁はその手紙の封を切るのだった。

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