3-2
暑さのあまり、床がとけてぐにゃんてなって、底なし沼みたいにわたしをまる呑みにしてくれたらいいのに。そう思いながら目を閉じた、とき、唐突に閉まったばかりの鉄扉が不吉な音を立てながら開かれた。急なことで、もちろんわたしはそのままの姿勢のまま反応できなかった。
「おわっ、ああ、朝ちゃんか」谷さんだった。
「そっか、今日から二学期か。制服初めて見たー。可愛いじゃん」で、何してんの? と言って、靴を履いたまま床にのびている死体的なわたしのかおをのぞき込む。そして第一発見者は驚き、あわてる。「な、なんで泣いてんの? どうした?」
わたしの腕を掴み、持ちあげ、座らせる。
「谷さん……」谷さんのかおを見たら、ますます泣けてくるのだった。「どうして女子更衣室にいるんですか」
「なんかクセ? 男子更衣室は社員ばっかで重苦しーんだよ、空気が。パートさんとかと喋ってる方が面白いし」
「そうなんですか……」
「や、そうじゃなくて」違う違うというように、胸の前で手のひらをひらひらさせ、谷さんは言った。「どうしたの、そんなに泣いて。何かあった?」
「谷さあん」うわーんと言って、わたしはぼろぼろ涙をこぼした。
「何、あ、彼氏にでもフられたか?」冗談めかしてしっかりと図星を指す。
さめざめと、わたしは頷いた。
ギョッとしたのは谷さんだろう。
「え!? え、ごめ、……え? てか、いないって言ってたよね、彼氏。だから冗談のつもりだったんだけど……」
「うう、違うんです、今日あらためて、うう、うわあーん」
「お、おお、よしよし! 話きいたげるからとにかく一回落ち着こう、な。ほら、深呼吸してみ?」
ほら、息吸って、次吐いて。
谷さんの手のひらが、わたしの頭に置かれる。それだけでとめどなく泣けそうだったけれど、谷さんの言うとおり、深呼吸をし、一旦泣くのをやめる。それから、ぽつぽつと、ことの顛末を打ち明けた。
でも核心部分はやっぱり言葉にできなくて、途中途中を欠落させたまま喋るので、話の筋はめちゃめちゃだし、日本語としてもおかしいし、ときおり嗚咽も混じるので聞きとりにくく、きちんと意味がとおったのか、ちゃんと話は伝わったのか、とても不安になった。それでも谷さんは静かに頷き、ときどき控えめに相槌を入れ、最後までちゃんと話を聞いてくれた。
「そっか。朝ちゃんにも朝ちゃんの恋物語があったんだな」
はい。すこし落ち着いて(それでもまだときどきしゃくりあげなければならなかった)、床の汚れた板目の模様を漫然と眺めながら、わたしは頷いた。
「今日で完全に嫌われちゃいました」
「うーんそうだなあ、ちゃんと理由話さないのに納得はできないよね」
「……ヨルはわたしの味方だと思ってたのに」
言ってしまって、また視界が揺れて曇った。そうか、わたしはそれで絶望したんだった。ヨルはわたしの味方だと思っていたんだ。そう、ヨルだけは。
「ま、細かいところはどうであれ、うん」やさしくほほえみ、わたしの頭に手を置く。「よく頑張ったね」
「うう、ありがと……ござ、」
「こら、もう泣くな。ちょっと待ってて、お兄さんがジュースでも入れてきてあげよう」
そう言ってわたしの髪の毛をわしわしとして、谷さんは立ちあがって更衣室をあとにした。
ポツンと一人のこされたわたしは、無人の更衣室の静かな空間に身を置くことで少しずつ冷静さを取り戻し、自分のさらした醜態をふりかえって、顔から火がでそうになった。わたしは、なんてことを。しかしそうやって恥ずかしがりながらも口もとはゆるみ、心がぬくぬくするのを感じた。やっとまともに呼吸ができるようになった。なんていいひとなんだろう。わたしは思った。
そこで、まただしぬけにギイッとドアが開いた。
「シンヤー」
落ち着き始めていた胸が、ふたたび早鐘を打った。
その場に凍りついていると厨房の先輩が顔が覗かせた。長谷川さんだ。背が高くて、バイトの先輩のなかではいちばん男前かもしれない。谷さん同様、ヤンキーだけれど。
「あれ? 杉村さんだ。一人? あいつまだ休憩じゃねーのかな」
「え、あの」
「シン、ああ、谷。谷見なかった?」
中に。声がうわずった。そっか、ありがとうと長谷川さんは言って、そこでようやくわたしの顔に気づいたようだった。
「えっ、泣いてる? どうしたの?」
や、ちょっと。蚊のなく声で言ったところで、谷さんが戻ってきた。
「お、どうした? お前今日バイト休みじゃなかったっけ」
「先輩に呼ばれて××行くことになって。バイク借りてっていい? 夜返すわ」
「はあ? おれの足はどうなるんだよ」
「チャリ置いてくから」
「ガソリン入れて返せよ」
「サンキュー」
傷なんか付けたらしばくからな。舌打ちをして、でもずぼんのベルトループにつけていた鍵束からバイクのキーをはずし、さしだす。長谷川さんはそれを受けとると、交換に自転車とカギを渡した。
「じゃ、あとで。杉村さん、谷になんかされたんだったら言ってよ? こいつオオカミだからふたりっきりなんの危ねーよ」
「朝ちゃんに余計なこと言うなよ! さっさと行けよ」いらだった風に、でも笑いながら、谷さんは長谷川さんの肩に軽くパンチをした。仲がいいんだなあ。
「朝ちゃんごめんな、騒々しくて」
谷さんが、オレンジジュースを差しだしてくれた。受けとりながら、わたしは笑って首をふった。ちいさくお礼の言葉をのべる。その口もとが、こわばったように少し引きつってしまった。それを谷さんは見つけてしまう。
「どうした? 変なこと言われた?」
いえ、と言ってわたしは首をふった。「ちょっと、びっくりしちゃっただけで」
「びっくり?」あいつのドアの開け方乱暴だもんな。
「や、」わたしはいったん口をつぐみ、それから「谷さんの名前、知らなくて」
「あれ、そうだった? おれシンヤっていうの。谷慎也。平凡な名前だろー」
いい名前だと思います。心からわたしは言った。
「さっき話した人もおんなじ名前だったから、ちょっと、びっくりして」
「え? 元彼?」
元彼。その響きに、つい笑ってしまう。そのとおりなのだけど。
「けど、夜って呼んでなかった?」
「真夜中の、真夜って書いてシンヤって読むんです。だからわたしとかアキちゃん……お姉ちゃんとか両方の家族はむかしからその人のこと、ヨルって呼んでたので、今もそのまま」
「へえー!すげー偶然だね。朝ちゃんにとって、特別な名前なんだ。シンヤくんかー。けど、何かいいね。朝と夜。兄妹みたい」
「わたしたちのとこ、父親ふたりが親友どうしで。深夜ってしたかったみたいなんですけど、真夜の方が字がきれいだからって、市役所に提出するギリギリで変更したらしいです」
わたしの名前は、男の子でも女の子でも「朝日」にすることはもう姉が生まれたときから決まっていたから、それにちなんでヨルは「真夜」となったらしい。
「へえ、じゃあゆくゆくは二人、結婚させたかったんじゃないの?」
「それは」ありえない。わたしは笑った。「ないんじゃないですかね」
「なんで?」
「結婚するメリットとか、ないですし」
父たちがそれぞれの会社を統合することに決めたのは、わたしたちが生まれるまえのことだったときく。そこにどんないきさつがあったかはわたしのあずかり知るところではないけれど、ただ、思った。ほんとうに仲がいいのだ、と。現在父たちは共同経営者として、ふたりで会社を運営している。
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