2-3
「なんのバイトだよ」
「飲食店」
「お前が? 人見知りなのに? どこで働いてんの」
「教えない」
「なんでだよっ」
「とにかく、あたしらもう行くから。元カレもさっさと教室帰ったら」
「だからまだ認めてないっつの」
行こ、と、めぐちゃんがわたしの背中を押す。やっと足は本来の役割を思いだしたようで、一歩二歩と、たどたどしくヨルの横を抜け、その場を立ち去る。
「とりあえず、ちゃんと話しよう。また」まだぶすりとしたままの声で、ヨルは言った。わたしは答えなかった。
「ちゃんと話し合ったほうがいいんじゃない?」
ずいぶん離れてから、めぐちゃんは言った。
ゆるゆる頭を振った。「話せるようなことは何も」頭が重くて、刈り入れ前の稲穂のようだ。地面を見つめたまま、わたしは答えた。
「だからって、言わなきゃあんたが悪者になるじゃない」
「しょうがないよ。……悪いのはこっちだし」
「アサ」悲しそうに、めぐちゃんはわたしの髪を撫でた。「あんたがいつ悪かったのよ」
わたしは答えなかった。
★
ギョウザ…コーテル
チャーハン…ソーハン
天津飯…テンハン
焼きそば…ソーメン
唐揚げ…エンザーキー
口の中で呪文をとなえながら、廊下をゆっくり歩いてゆく。17時からはバイトだ。
放課後までのことは、全然おぼえていなかった。ホームルームで学園祭の話をするなど、いろいろ取決めがあった気がするけれど。目だけひらいて、ずっと人形のようにぼんやりとしていた。
クラスの女の子たちが、これからお昼を食べてカラオケに行くんだと誘ってくれたのも、断ってしまった。惜しいことをした。ぼんやりなんて、いいことはひとつもない。しかたがないので、帰宅することにした。
ギョウザ一人前は、「コーテル・イー」または、「イーガ・コーテル」。ギョウザ2人前みっつは、「コーテル・リャンガ・サンテー」。チャーハン大盛りは、「ソーハン・ヤザワ(ヤザワ?)」。
謎の呪文。もといバイトの用語をとなえつつひとりで下駄箱、そこに待ち受けていた人影をみつけ、ちいさくあげてしまいそうになった悲鳴を、わたしはあわてて、飲みこむ。
「ヨル」
泣きそうな声が出てしまう。わたしたちの教室は一年生の教室の中でも一番端にあるから、下足へ行くには他クラス全部の教室前を通らなくてはならない。だから、みんなが帰るまでわざわざ教室で時間をつぶしていたのに。それが、あろうことか、一番会いたくないひとに会ってしまうなんて、まったく意味がない。
助けをもとめるみたいに、ついうしろを振りかえった。わたしの救世主は、いなかった。
「岸なら委員会。一時間は終わんないんじゃね?」
「もう帰るから。そこどいて」
「こうでもしなきゃ、アサは逃げるだろ」
「お願い」とほうにくれて、わたしは言った。「そこどいて」話すことなんか、なんにもないの。
ヨルが、うごいた。それだけでビクリと反応してしまう。
それまでもたれていたロッカーからいったん離れると、ヨルは体の方向を変え、ロッカーのドアを開け、わたしのスニーカーを出した。それを片手に、肩にかつぐようなかたちで高いところ――わたしの背が低く、ヨルの背が高いから自然とそういうことになるのだけれど――へ持ってゆき、こちらと正面から向き合った。
「どうせバイトまで時間あんだろ。話させろ」
靴を人質に。なんという、こそくなまねを。
わたしはちからなく頷いた。
「でも、話すことなんかホントに何もないのに」
「しつけーな。俺はあるんだって。なあ、悪かったよ。こないだのこと」
わたしは首を振った。「ヨルは、」いまさら謝られたところで。
わたしがどんな気分だったか。
あの日、ヨルは。
「……ヨルは何も悪くないよ」
ヨルはわたしの腕をひき、サッカー部の部室へと連れこんだ。他に部員さんのすがたはない。今日は各自昼食を摂ってからの練習になるらしい。
「なんだよそれ」今日のヨルはずっと、いらだっている。わたしのせいだ。「納得できねー。納得できるようなこと言えよ」
「だから」部室中央のブルーの長椅子に肩を並べて座って、わたしは落ち着かない。「ない。話すことは、なんにも」
ヨルは舌打ちをすると、押し黙った。
わたしも、こわくて、となりでただ無言でいるほかない。
「……わかった」
いくらかの沈黙ののち、空気が震えるような低い声でヨルは言った。え。わたしは顔をあげ、ヨルをみた。わかってくれた?
「じゃあ俺絶対アサとは別れない」
「な」わたしは戸惑う。「なんでそうなるの」
「お前が勝手なことばっか言うからだ。別れたい。でも理由はない。話すことは何もない。納得できるかっつーの」
「わたしはもう、ヨルのこと好きじゃない。好きじゃなくなったから、一緒にいたくない」一生懸命、その整った横顔を睨む。
「どうして急に?」
「……。」
「ほら、答えられない」この話はもうおしまい、と、ヨルは立ちあがった。
困った。泣きそうだった。
まさかヨルが、こんなにしぶるとは思わなかったのだった。別れたいって言えば、ああそうかわかったじゃあな、と、こうなるとばかり思っていたのに。
とほうにくれていると、頭上に影がさした。思わず顔をあげてぎょっとする。すぐそこに、ヨルのきれいな顔が……
「や、やだ! やめてっ」
「止められっか。こっちは一ヶ月もおあずけくらったんだから。ヤらせて。どうせ誰もまだ来ねーから」甘い声。
左手のうえに、おおきな手のひらが重ねられる。急な体重移動により、チープな長椅子はミシリと不穏な音をたてた。顎を持ちあげられ、鼻と鼻がぶつかりそうな至近距離で、ヨルが目を閉じた。
ヨルが愛用している、男の子用の制汗剤のにおいが鼻腔をくすぐった。
その瞬間、わたしは思いっきり左手を振りあげた。
バチン。
手のひらが焼けるようにあつくって、われにかえる。
ヨルは不自然な姿勢のまま、すべての動作をストップさせて、ただポカンとしている。
「す」わたしもパニックだ。叩いてしまった。叩いてしまった!
「好きな人ができたっ」
「は?」
あっけにとられたふうにまるくなった目が、怒りや不快感を孕んでみるみるうちに険しく歪められてゆく。
「は? 何。それ、別れたい理由?」
やぶれかぶれに、頷く。「だからもう、ヨルとは付き合えない。ごめんなさい」
ヨルは立ちあがるとくるりとうしろを向き、吐き捨てるように「最低」と言った。
「冷めた。がっかりした。もういい。お前なんかいらない。こっちから願い下げだ。別れる」
わたしは、知らず歪んでしまう口もとにギュッとちからを入れ、一文字にむすぶ。わなないてしまいそうな、下唇を噛む。
ここで泣いたら、すべて台無しだ。
わたしは立ちあがると、みじかくごめんなさいとつぶやいて、逃げるように部室をあとにした。
そのまま一度も立ちどまらず振りかえらず、自転車置き場まで走った。
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