2-3


「なんのバイトだよ」

「飲食店」

「お前が? 人見知りなのに? どこで働いてんの」

「教えない」

「なんでだよっ」

「とにかく、あたしらもう行くから。元カレもさっさと教室帰ったら」

「だからまだ認めてないっつの」


 行こ、と、めぐちゃんがわたしの背中を押す。やっと足は本来の役割を思いだしたようで、一歩二歩と、たどたどしくヨルの横を抜け、その場を立ち去る。

「とりあえず、ちゃんと話しよう。また」まだぶすりとしたままの声で、ヨルは言った。わたしは答えなかった。




「ちゃんと話し合ったほうがいいんじゃない?」


 ずいぶん離れてから、めぐちゃんは言った。

 ゆるゆる頭を振った。「話せるようなことは何も」頭が重くて、刈り入れ前の稲穂のようだ。地面を見つめたまま、わたしは答えた。

「だからって、言わなきゃあんたが悪者になるじゃない」

「しょうがないよ。……悪いのはこっちだし」

「アサ」悲しそうに、めぐちゃんはわたしの髪を撫でた。「あんたがいつ悪かったのよ」


 わたしは答えなかった。







 ギョウザ…コーテル

 チャーハン…ソーハン

 天津飯…テンハン

 焼きそば…ソーメン

 唐揚げ…エンザーキー


 口の中で呪文をとなえながら、廊下をゆっくり歩いてゆく。17時からはバイトだ。

 放課後までのことは、全然おぼえていなかった。ホームルームで学園祭の話をするなど、いろいろ取決めがあった気がするけれど。目だけひらいて、ずっと人形のようにぼんやりとしていた。

 クラスの女の子たちが、これからお昼を食べてカラオケに行くんだと誘ってくれたのも、断ってしまった。惜しいことをした。ぼんやりなんて、いいことはひとつもない。しかたがないので、帰宅することにした。


 ギョウザ一人前は、「コーテル・イー」または、「イーガ・コーテル」。ギョウザ2人前みっつは、「コーテル・リャンガ・サンテー」。チャーハン大盛りは、「ソーハン・ヤザワ(ヤザワ?)」。

 謎の呪文。もといバイトの用語をとなえつつひとりで下駄箱、そこに待ち受けていた人影をみつけ、ちいさくあげてしまいそうになった悲鳴を、わたしはあわてて、飲みこむ。


「ヨル」


 泣きそうな声が出てしまう。わたしたちの教室は一年生の教室の中でも一番端にあるから、下足へ行くには他クラス全部の教室前を通らなくてはならない。だから、みんなが帰るまでわざわざ教室で時間をつぶしていたのに。それが、あろうことか、一番会いたくないひとに会ってしまうなんて、まったく意味がない。

 助けをもとめるみたいに、ついうしろを振りかえった。わたしの救世主は、いなかった。


「岸なら委員会。一時間は終わんないんじゃね?」

「もう帰るから。そこどいて」

「こうでもしなきゃ、アサは逃げるだろ」

「お願い」とほうにくれて、わたしは言った。「そこどいて」話すことなんか、なんにもないの。


 ヨルが、うごいた。それだけでビクリと反応してしまう。

 それまでもたれていたロッカーからいったん離れると、ヨルは体の方向を変え、ロッカーのドアを開け、わたしのスニーカーを出した。それを片手に、肩にかつぐようなかたちで高いところ――わたしの背が低く、ヨルの背が高いから自然とそういうことになるのだけれど――へ持ってゆき、こちらと正面から向き合った。


「どうせバイトまで時間あんだろ。話させろ」


 靴を人質に。なんという、こそくなまねを。

 わたしはちからなく頷いた。




「でも、話すことなんかホントに何もないのに」

「しつけーな。俺はあるんだって。なあ、悪かったよ。こないだのこと」

 わたしは首を振った。「ヨルは、」いまさら謝られたところで。


 わたしがどんな気分だったか。

 あの日、ヨルは。


「……ヨルは何も悪くないよ」


 ヨルはわたしの腕をひき、サッカー部の部室へと連れこんだ。他に部員さんのすがたはない。今日は各自昼食を摂ってからの練習になるらしい。


「なんだよそれ」今日のヨルはずっと、いらだっている。わたしのせいだ。「納得できねー。納得できるようなこと言えよ」

「だから」部室中央のブルーの長椅子に肩を並べて座って、わたしは落ち着かない。「ない。話すことは、なんにも」


 ヨルは舌打ちをすると、押し黙った。

 わたしも、こわくて、となりでただ無言でいるほかない。


「……わかった」


 いくらかの沈黙ののち、空気が震えるような低い声でヨルは言った。え。わたしは顔をあげ、ヨルをみた。わかってくれた?


「じゃあ俺絶対アサとは別れない」

「な」わたしは戸惑う。「なんでそうなるの」

「お前が勝手なことばっか言うからだ。別れたい。でも理由はない。話すことは何もない。納得できるかっつーの」

「わたしはもう、ヨルのこと好きじゃない。好きじゃなくなったから、一緒にいたくない」一生懸命、その整った横顔を睨む。

「どうして急に?」

「……。」

「ほら、答えられない」この話はもうおしまい、と、ヨルは立ちあがった。


 困った。泣きそうだった。

 まさかヨルが、こんなにしぶるとは思わなかったのだった。別れたいって言えば、ああそうかわかったじゃあな、と、こうなるとばかり思っていたのに。

 とほうにくれていると、頭上に影がさした。思わず顔をあげてぎょっとする。すぐそこに、ヨルのきれいな顔が……


「や、やだ! やめてっ」

「止められっか。こっちは一ヶ月もおあずけくらったんだから。ヤらせて。どうせ誰もまだ来ねーから」甘い声。


 左手のうえに、おおきな手のひらが重ねられる。急な体重移動により、チープな長椅子はミシリと不穏な音をたてた。顎を持ちあげられ、鼻と鼻がぶつかりそうな至近距離で、ヨルが目を閉じた。

 ヨルが愛用している、男の子用の制汗剤のにおいが鼻腔をくすぐった。

 その瞬間、わたしは思いっきり左手を振りあげた。


 バチン。


 手のひらが焼けるようにあつくって、われにかえる。

 ヨルは不自然な姿勢のまま、すべての動作をストップさせて、ただポカンとしている。


「す」わたしもパニックだ。叩いてしまった。叩いてしまった!


「好きな人ができたっ」

「は?」


 あっけにとられたふうにまるくなった目が、怒りや不快感を孕んでみるみるうちに険しく歪められてゆく。


「は? 何。それ、別れたい理由?」

 やぶれかぶれに、頷く。「だからもう、ヨルとは付き合えない。ごめんなさい」

 ヨルは立ちあがるとくるりとうしろを向き、吐き捨てるように「最低」と言った。


「冷めた。がっかりした。もういい。お前なんかいらない。こっちから願い下げだ。別れる」


 わたしは、知らず歪んでしまう口もとにギュッとちからを入れ、一文字にむすぶ。わなないてしまいそうな、下唇を噛む。

 ここで泣いたら、すべて台無しだ。

 わたしは立ちあがると、みじかくごめんなさいとつぶやいて、逃げるように部室をあとにした。

 そのまま一度も立ちどまらず振りかえらず、自転車置き場まで走った。


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