解かれた封印 二

 それからずっと、ぐっちぃは半月に来なかった。まあ、あんなことがあってもずうずうしく店に顔を出すようなら、美月さんからもパンチを食らってたかもね。わたしは、そんな人がいたことすらすっかり忘れていた。


 そんなある日。昼ご飯の後すぐに美月さんが買い物に行ったので、わたしが留守を預かってた。


 こん、こん、こん……店の扉を叩く音がした。誰だろ? 宅配か郵便かな? サンダルを突っかけて扉の窓から外を見たら、ぱりっとした背広姿のぐっちぃが立ってた。

 おやあ? まーた、こんな昼間になんで? 昼間に店に来られること自体、水商売の人間には辛い。まして愚痴りに来られた日にゃ、今度はゲンコツじゃなくって凶器が出るぞ。おい。


 でも、どうもこれまでとは様子が違う。えらくすっきりした顔をしている。ぽっかり、笑顔だ。窓越しにわたしの顔が見えたんだろう。手帳を出して、その空きスペースにボールペンで何やら書いて、わたしに見せた。


『美月さん、いる?』


 わたしは両手でバツを作った。


「る す」


 ぐっちぃは、ちょっと残念っていう顔をした。


『じゃ、夜来ます』


 それをわたしに見せて、すたたたた、と歩き去った。


 んー。なんでわざわざ昼間に来たんだろ? ちょっと考えてみて、一つ思い当たった。そうか。夜だと、また愚痴りにきたと思われるからだな。ぐっちぃは自分が変わったことを、早く美月さんに見せたかったんだろう。ふーん?


◇ ◇ ◇


 その日の夜。店が開くのと同時くらいに、ぐっちぃが来た。昼間と何も変わらない。ものすごく明るい表情。美月さんは、ほおおという表情でぐっちぃを見て、それからにっこり笑顔で話しかけた。


「ぐっちぃ、おひさしぶりね」

「あ、ご無沙汰してます」


 ぐっちぃは、すぐにウイスキーの水割りを注文した。


「あさみちゃん、グレンフィディック三十年があったはずだから、それを出して」


 げえっ! そ、そんな高いの出すのー? わたしが絶句してたら、ぐっちぃも慌てて手を横に振った。


「そんな高いもん飲んだら、気楽に話できません、て」

「あら」


 美月さんは、楽しそうに言った。


「旅立ちの宴はね。けちけちしてはいけないのよ。とても大切なんだから」


 え? 旅立ちって?


「んー、美月さんにはすぐばれてしまうなあ」


 ぐっちぃは頭の後ろをぽりぽりと掻くと、そこからカードを扇のように広げた。


「ピーコック。相変わらず、お見事ね」

「ははっ。毎日やってますからね」


 卓ちゃんは、どこかわくわくしている様子だ。わたし一人がまだ用心してる。損だよなあ。思いっきり、ぐーでぶん殴ってもーたからなあ。どうにも後ろめたい。


 美月さんが、ぐっちぃに尋ねた。


「で?」

「ああ。就職しました。食品関係の普通の会社です。営業ですけどね」


 えええっ!? あれだけプロのマジシャンにこだわってたのにぃ。どういう変節? それはそれで、ちょっとがっかりだなあ。


「そう。後悔はないのね」

「ないです。マジックは今でも毎日披露してますから。どこでも出来るってことです」


 ぐっちぃはいたずらっぽく笑って、わたしから水割りのグラスを受け取った。そして、それにちょっと口を付けると。うん? ……というヘンな顔をした。


「あさみちゃーん、これはないっすよー」


 わたしが慌てて覗き込むと、確かに水割りじゃなくてただの水になってしまってる。


「ごめん なさい」


 ぐっちぃの様子に気を取られて、うっかりヘマやっちゃったかなあ。


 もう一度、今度は慎重に。グラスに酒瓶を傾けて、って、って、ってー? え? あっれー、おっかしいなあ。今度は出ない。そんなあ。さっきちゃんと残量確認したわよ。口切ったばかりだからほとんど残ってるはずなのに、なんで出ないの? どうなってんだあ?


 美月さんも、卓ちゃんも、腹を抱えてげらげら笑ってる。わたしはわけが分かんない。


「あはははは。あさみちゃん、瓶の中をちゃんと見た方がいいわ」


 美月さんに言われて、中身を確認すると。バラの花ぁ? ぞ、造花、じゃないよね? 生花だよね、これっ! ど、どど、どっからこんなもんが沸いたのーっ!?


 わたわたしているわたしを尻目に、ぐっちぃが悪戯っぽく言った。


「前にがっつり殴られてますからねぇ。お返し」


 くっ。やられた。でも、あのお酒はすっごく高い。店にとっては大損害だよー、美月さん。そう思って美月さんの方をちらっと見た。


「心配ないわ。もう一度確認してご覧なさい?」


 再び、えっ、という感じで手元を見ると。バラの花は影も形もなくて、ちゃんとお酒が元に戻ってる。うわ……イリュージョンだ。マジックの中でも一番華やかで、一番度胸が要るのに。いともやすやすと。いったい……何があったんだろう?


「何があったって思ってるでしょう?」


 ぐっちぃがわたしの顔を見て、静かに笑ってる。


「大したことじゃない。見せるカタチにこだわらないことにした。ただ、それだけです」


 分からない。どういうこと?


「プロのマジシャンはね。カネを取るだけに絶対に失敗できない。お客さんの前では神である必要があります。でもね、お客さんは神を見たいわけじゃない」


 ぐっちぃが、さっき瓶の中に入っていたバラの花をすいっとかざした。


「お客さんが期待してるのは、夢。わくわくすること。それを見せてくれるのは誰でもいいんです」

「ええ、そうね」


 美月さんが、軽く頷く。


「俺は子供の頃に見たマジックの虜になった。でも、それを見せてくれた人が誰だかもう覚えていない。それでいいんです。だから」


 ぐっちぃが、ぱちんと指を鳴らした。ぐっちぃの持っていたバラの花は、いつの間にか美月さんの髪を飾っていた。


「まあ!」

「お礼を込めて。それと、ご報告。月の裏側から、太陽の表側に引っ越ししました」


 ぐっちぃの宣言を聞いて。思わず涙がこぼれそうになった。


 きっかけ。そう、なにか一つでもきっかけがあれば。全ては変化して転がっていく。それがどんなにイヤなことであっても。屈辱的なことであっても。ぐっちぃは、それを見事にものにしたんだ。見せるカタチにこだわらない、その一点だけで吹っ切って。わたしは……わたしは……。


 ぐっちぃが、美月さんに声をかけた。


「美月さん。俺が最初にこの店に来た時に、人質にしたコインがありましたよね?」

「あるわよ?」

「それを請け出しに来ました」

「そうね。もう、私の手元に置く必要はないもの」

「じゃあ。返していただきますね」


 美月さんがどこからか、銀色の大きなイミテーションコインを持ってきた。


「あの時。美月さんは俺にこう言ったんです。月を呼んでいらっしゃい。あなたの掌の上に。それまでこれは預かっておくわ、ってね。美月さん、それを俺の掌の上に置いてください」


 ぐっちぃは何かを掬うような手つきで両手を上に向け、くっつけて広げた。美月さんが、広げた手の真ん中にコインを置く。ぐっちぃが、それを包むように両手をすぼめた。


 手を開いた次の瞬間。ぐっちぃの手の中から輝く大きな水晶玉が現れて、四方にまばゆい光を放射した。うわっ! 眩しい!


「満月です。みなさんに、至福の時が続きますように」


 それは本当に至福の時だった。その光が絶えると同時に、それは元のコインに戻っていた。


 美月さんが、頬に一筋涙を流していた。そして、ぽつりと呟いた。


「帰りたいわ。月に」


 ぐっちぃはコースターの下に一万円札を敷くと、静かに言い残した。


「みなさん、いい夢を。では、お休みなさい」


 ぐっちぃが立ち去っても、わたしたちはしばらくぼーっとしていた。わたしは卓ちゃんと顔を見合わせて、はあっと溜息をついた。


「すっごいよなあ……」

「うん、すごいよねー。なんで、あんなのがささっと出来ちゃうんだろう? もう不思議で不思議でしょうがない」


 美月さんが、あれっという表情をした。そして穴が開くほど、わたしをじっと見ている。


「あさみちゃん、あなた……」

「なんですか、美月さん? やだなあ。わたしの顔に何かついてます?」


 卓ちゃんも、目が点になってる。


 え? あれ? 確かになんかヘンよね。あーあー、本日は晴天なり、本日はって、今は夜じゃん。いや、そんな滑ったギャグやってる場合じゃないっ!


「わたし、普通にしゃべってますね」


 美月さんと卓ちゃんが同時に頷いた。


「うん」


 わたしは意識を失って、その場にくずおれた。


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