呪縛 四
『まあ、普通の人のようにはしゃべれなくても、それ以外は何も支障がないから、わたしはあまり気にしなかった。お父さんは、わたしが学校に上がってしばらくしたら、それまでのいきさつを説明してくれた。わたしも、まあ仕方ないかなって。でもね。お母さんが壊れちゃったの』
びっくりした卓ちゃんが、わたしに聞き返した。
「こ、壊れるって?」
『わたしのお母さんは、ちょっと線が細くて、いろいろ考え込んでしまう性格だったの。で、わたしがこんなことになったでしょ?』
「……」
『それはお父さんが余計なことしたからだって、ヒステリックになって当たり散らして。かと思えば、全部自分のせいだって急にふさぎ込んだり。お父さんは、お母さんを何度も精神科に連れてったけど、状態はよくならなかった』
どうしようか。一瞬迷ったけど、わたしの指は勝手に動いた。
『そして、わたしが中学二年の時に、とうとうお母さんが首吊っちゃったの』
卓ちゃんは、画面に釘付けになったまま、かちかちに固まってしまった。
『遺書もなにもなかった。お母さんが何かに追いつめられてたってことしか、残されたわたしたちには分からなかった。そして、その原因がわたしだってことははっきりしてた。それだけが、ね』
わたしの指は、わたしの意思の制御を外れて、どんどんその先を書き続けた。
『お母さんがいなくなって、家事はお父さんとわたしの分担になったけど、この頃から今度はお父さんがおかしくなってきた』
「え? 親父さんが?」
「う ん」
『わたしが戸締まりや火の元を確認したかを、異常なくらい気にする。それなのに、自分は家のカギをかけ忘れる。財布やカバンを持たずに家を出て、慌てて戻ってくるかと思えば、信じられないくらいスーパーの特売にこだわる』
「げ……」
『そんなことが一ヶ月くらい続いて。今度は、会社から学校に電話がかかってきた。お父さんの様子がおかしいって。もう会社の方でも、まともに仕事できてなかったらしい。わたしは会社の人と一緒に、お父さんを無理やり病院に連れて行った。そうしたら。多発性脳梗塞による記憶、性格障害だって言われたの。しかも、まだ症状はひどくなるかもしれないって。すぐに入院ってことになった』
「入院……か」
『それから一ヶ月の間に、お父さんの記憶と感情はどんどん壊れていった。その間わたしとお母さんに、すまないすまないとうわごとのように謝り続けながら。最後に謝り疲れたように、お父さんも逝った。死因は今でも分からない』
卓ちゃん、蒼白。
『わたしは独りになっちゃったけど、まだそんなに不幸じゃなかったの』
卓ちゃんが、びっくりしたように画面から目を離して、わたしの顔を見た。わたしはちょっとだけ笑ってみせる。
『本当の不幸はそこから』
そう。だってお母さんやお父さんの死は、わたしにはどうしようもないことだもん。仕方ないじゃん。
『わたしはまだ義務教育を受けてる未成年だったから、働けるようになるまでは、誰かに後見してもらわないといけなかった』
「そっか……」
『わたしの両親は堅実な人たちだったから、わたしの将来も考えてかなりの額の貯金をしてたの。お父さんの生命保険もおりたし。それに伯父が目を付けた。伯父夫婦が、わたしを引き取るって名乗りをあげたの。でもこの人たちね、とんでもない悪党だった』
わたしが強烈な怒りの表情をあらわにしたので、卓ちゃんはびびったらしい。
『伯父は好色で、血のつながりのある姪っ子なのに、隙あらばわたしの体をものにしようと狙ってた。伯母は、会話障害のあるわたしを役立たずと罵り続け、わたしの両親の財産をいいように食い潰した』
キーボードを叩く指に力が入った。
『わたしは高校を受験させてもらえず、伯父に家に閉じ込められ、伯母の監視下に置かれ、近所の店や図書館に行くくらいしか、外に出してもらえなかった』
「ひでえ」
『もう義務教育は終わってるんだから、わたしは自分の仕事くらいなんとかなると思ってたんだけど、中卒っていう学歴に加えて、会話障害があることが引け目だった。ハンデがあってもわたしを採ってくれるところはあるのかなって。悔しいけど、伯父のところを飛び出す踏ん切りがつかなかったの』
卓ちゃん、絶句。
「よく、それで今まで無事だったね」
『伯母が、すごい焼き餅焼きなの。伯父のオンナ関係で、昔から散々痛い目にあってたんでしょ。伯父がわたしに手を出したくても、常時伯母の監視の目がある間はどうにもならなかった。わたしもそれを利用したし』
「どわあ」
『でも、わたしももう十九になった。ここのところ伯父の行動がエスカレートしてきてたの。トイレや風呂を覗こうとしたり、着替えを覗いてたり。たぶん、チャンスを伺ってたんでしょ』
「う……」
『わたしも、もうヤバいかなあって思って。どのタイミングで家を出るか考えてた矢先に』
卓ちゃんが、ごくりと唾を飲み込んで画面を見てる。
『わたしの着替えを覗きに来てた伯父が、そのまま部屋に入り込んで、わたしを押し倒そうとしたの。ガマンできなかったんでしょ』
「げーっ!」
『わたしは大声を出した。伯母がすっ飛んできた。いつもなら伯父をこてんぱんにぶちのめすんだけど、その時は、わたしにすっごい勢いで八つ当たりしたの。出てけこの泥棒猫、ってね』
キーボードを叩く指がぶるぶる震えた。あの時の屈辱が鮮明によみがえる。
『泥棒はどっちよ! わたしの両親の財産を全部自分たちで食い潰して、わたしには何もしてくれず、野良犬飼うみたいなひどい扱いしておきながら。わたしは悔しくて。もうどうしようもなく悔しくて、伯父の家を着の身着のまま飛び出したの』
卓ちゃんは目を伏せて腕を組み、何かをじっと考え込んでいるようだった。
『でも、飛び出したのはいいけど、その後どうしたらいいか分かんなくて、そこのコンビニで途方に暮れてる時に、美月さんに拾われたの。うちに住み込みで来ないかって』
「そっかあ」
『だから今は天国。だって、仕事がある。給料ももらえる。住むところがあって、食べる心配もいらない。身の危険はない。自分の時間もある。美月さんも、卓ちゃんも、ほんとにいい人だし』
卓ちゃんは、そこでぱあっと笑顔になった。
「あさみちゃんは、乗り切ったんだね」
「え?」
「不幸を数えンのは簡単だけど、幸せ数えンのは大変だからさ」
卓ちゃんは、時々こういうぐっと来ることをさらっと言う。自分では意識してないんだろうけど。
心の中に溜まっていた汚れたものが少し掃除できたような気がして、わたしはほっとしていた。
『今まで、誰にもこんな話できなかった。卓ちゃん、聞いてくれてありがとね』
「いや、あさみちゃんには、先にオレの愚痴を聞いてもらったからさ」
卓ちゃんはそう答えると、もう一度画面に目を向けて。
「でも」
……と言った。わたしは卓ちゃんがその次にどんな言葉を足すのか、それを全神経を集中してずっと待ってた。
卓ちゃんは画面から目を離して俯くと、しばらくじっと黙っていた。それから、床にぽつぽつ水滴をこぼすみたいに小声で呟いた。
「これからだな。オレも、あさみちゃんも」
何が、これからなんだろう?
卓ちゃんは俯いたままで、ぼそぼそっと呟き続ける。
「オレたちは、まだ自分しか見えてねー。いや、もしかすると自分自身のことすら見えてないのかも知れねー。オレたちは、まだ捕まってる。本当の意味で前を見てねー」
卓ちゃんはそう言うと顔を上げて、わたしの顔を見た。
「あさみちゃんにはこの前話さなかったけどさ。オレはイタ電漬けのせいで、人間不信がつえーんだ。人にいつもきったねーとこばっか見せつけられると、そういうとこにしか目が行かなくなるんだよ。でも、そんなひん曲がった物差しで周りを見たかねー。だから、どうしても人付き合いが淡白になるんだ。深入りしなきゃ、自分を見せなきゃ、距離を置きゃあ、きたねー部分を見なくても済むって」
そう言って、目を瞑った卓ちゃんがふーっと深い溜息をついた。少し沈黙。それから、わたしの方を見て付け加えた。
「でも、それって逃げじゃん。周りがオレに合わせて変わってくれることなんかねーよ。だから、ホントは自分が変わんなきゃなんねー。でも、オレはまだそれに背中を向けてる。そういう逃げをね。美月さんに全部見透かされてるようで。時々すっごく怖くなるンだ」
それっきり。卓ちゃんは黙りこくった。
わたしたちの重苦しい雰囲気を壊すように、美月さんが何か口ずさみながら買い物から戻ってきた。
「あら、卓ちゃん、あさみちゃん、何深刻なムードで話してるの? 別れ話?」
卓ちゃんが、くくっと笑って答える。
「くっついてもいねーのに、別れ話なんて出来ねーっすよ」
美月さんは、カウンターの横に買い物袋を下ろしてにっこり微笑んだ。
「月は嘆く。自分のあばたを。月は知らない。それが自分の輝きを深めることを」
そして鼻歌を歌うように、わたしたちの前を通り過ぎながら言い置いていった。
「悩みなさい。それが、あなたたちを輝かせるんだから」
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