月鏡 一

 ぐっちぃの奇跡の翌日。わたしは半月が店仕舞いしてから、居間に上がった美月さんに声をかけた。


「すみません、美月さん。ちょっと相談があるんですけど」

「なあに?」


 座卓の前に横座りして、いつものように上げてあった髪を下ろして柔らかく微笑む美月さん。


「わたしね。こうやって普通の人と同じように話せることがすごく嬉しいことのはずなのに、不安で不安でしょうがないんです」

「どうして?」

「わたしはうまく話せないので、自分自身を小さく畳んでおく必要があったんです。余計なことはしない。言わない。黙ってるって。普通に話せるならその必要はないですよね」

「うん」

「でも、自分を小さく見せることに慣れてしまったから、どこまで話したらいいか、どこまで自制すればいいか、その加減が分からないんです」

「ふーん」


 美月さんは笑顔を崩さず、しばらくわたしの顔を見つめていた。そして、今までは一度も触れなかったことをわたしに聞いた。


「それより先に、あさみちゃんが急にすらすら話せるようになったわけ。いいえ、これまでうまく話せなかったわけを知りたいわ。病気とか、そういうのじゃないんでしょ?」


 そうよね。最初に拾ってもらった時に美月さんに状況説明をしたけど、これまでの経緯全部は話してなかったんだ。美月さんに相談に乗ってもらうなら、わたしの過去をきちんと話さないと……。


「ちょっと時間がかかりますけど、いいですか?」

「かまわないわよ」


 わたしは卓ちゃんとパソコンで筆談した時と同じように、これまでのことを美月さんに話していった。


 小さい頃に会話を封じる催眠術をかけられたこと。それを外す鍵を失ったこと。母がわたしの障害を気に病んで自殺したこと。父も母の後を追うように病死したこと。強欲な伯父の家に引き取られて、そこで不自由な生活を送ってきたこと。


 今度はパソコンの画面を通してではなく、わたしの口から直接。淡々と。


 美月さんは、わたしの過去の出来事をじっと聞き続けた。薄目を開け、まるでさわちゃんが酔っぱらって店にいる時いつもしてたみたいに、無表情のままで。わたしの話に一度も口を挟まず、なんの感想も反応も示さない。わたしは、だんだん不安になってきた。


「それで」


 わたしの話を聞き終えた美月さんに、思いがけないことを尋ねられる。


「あさみちゃんの話を聞いて、卓ちゃんは何か言った?」


 えっ? わたしのこれまでのことでなにか言われるかなと思ってたのに、ちょっとびっくり。なんで話が卓ちゃんの方に行っちゃうんだろ? っていうか、なんでわたしがこの話を卓ちゃんにしたことを知ってんだろ? 相変わらず、フシギな人。


「ええと」


 わたしは、あの時の卓ちゃんとのやり取りを思い出す。


「最初に、わたしが不幸を乗り切ったんだねって言いました。不幸を数えるのは簡単だけど、幸せを数えるのは大変だからって」


 それを確かめた美月さんが、にっこり笑った。


「さすが卓ちゃん。そこから入ったのね」

「入ったって?」

「卓ちゃんが言ったのは、それだけじゃないでしょ?」


 ええっ? どうしてそんなことまで分かるんだろう?


「え、と。それから……」


 そうだ。


「わたしも卓ちゃんも、これからだって。そう言いました」

「うん」

「わたしたちは、まだ自分しか見えてない。もしかすると、自分自身のことも見えてないのかも知れない。わたしたちは、まだ捕まってる。本当の意味で前を見ていないって」


 美月さんは、笑顔のままで何度か頷いた。それから、ゆっくりわたしに視線を移して問いただした。


「あさみちゃん、卓ちゃんの言ってること、意味分かる?」

「うーん、全部は分かんないです」

「そう……」


 わたしから何かをえぐり出そうとするかのような、美月さんの真っ直ぐな視線がわたしを突き通す。


「あさみちゃんが淡々と話したことはね。本当はとてもじゃないけど、淡々となんか話せないことなのよ。分かってる?」


 うん。そうなんだけどさ。でも、終わっちゃったことをぐだぐだ悩み続けたってしょうがないし。


「卓ちゃんと話した時も、たぶんこんな感じだったんでしょう?」

「ええ、そうですけど」

「あさみちゃんは、辛いことがいっぱいあったのに目線が前を向いてる。最初はね、卓ちゃんはそれを見て、あさみちゃんが不幸を自力で乗り越えたと単純に思ったのかもしれない。でも自分の経験に照らし合わせて、そうじゃないなって思い直したの。だから、最初のハードルは跳べて良かったねと喜んで。その後で、それはもっと高いハードルを越すために必要なんだよって、あさみちゃんを戒めたの」

「もっと高いハードルって、なんですか?」


 美月さんは、わたしにやいばのような言葉を投げかけた。


「不幸を、不幸として、逃げずに認めること」


 え? わたしは逃げてなんかいないよ?


「あさみちゃんは、自分の不幸を外から見ているの。全て過ぎ去ったこととして」


 うん。そうだけど?


「あさみちゃんはね、こう考えてる。不幸に囚われていてもしょうがない。自分はもう前を向いてるから、大丈夫。だから、辛い過去には全部蓋をしよう」


 美月さん、その通りだよ。だって、後ろ向いていたってしょうがないもの。


「もちろん、蓋が出来ることは強い精神力の証し。それが備わっているのはとてもいいことよ。でもね、蓋をしただけじゃ過去は消えないの。その中に、あさみちゃんが目を背けちゃいけない大事なものが入ってるから」


 わたしは不服だった。過去をほじくり返したって、なんにもならないと思う。未来を見る邪魔になるだけじゃないか。美月さんの指摘が、ものすごく的を外しているように感じる。


「美月さん、なんで過去を見なければいけないんですか? せっかく前を向いてるのに」


 美月さんは、膨れ面になったわたしを見て、なぜか微笑んだ。


「卓ちゃんは、本当の意味で前を見ていないって言ったんでしょ?」


 そうだけど。本当の意味ってなんだろ?


「あさみちゃんが思い描いている未来は、過去を単純に裏返しただけ。過去になかったものを、反転して将来に貼付けているだけなの。薄っぺらな未来。だって……あさみちゃん自身はなにも変わってないから」


 う……。返す言葉がなかった。ひとっつも。


「新しい未来を描くためには、何より先に自分を新しくしないといけないの。そうしないと、これまでと同じ過ちを懲りずに繰り返しちゃう。じゃあ、あさみちゃんにとっての新しい自分って、なに?」


 美月さんに、じっと見据えられる。わたしはなにも答えられない。


「新しい自分にするには、今の、そして過去の自分を知らなきゃならないでしょ? だから、どんなに辛くても、見たくなくても、そこから目を逸らしちゃいけないの」


 その指摘には、ほんの一ミリの逃げ場も猶予もなかった。


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