月への誘い 佐之原卓人 一
オレが店に行った時、店はまだ閉まってた。六時過ぎだから、もう開いてんのかなって思ったんだけど。出直そうと思ったちょうどその時、店の戸が開いて、小柄なママさんらしい人が出てきた。んで、オレの顔を見てすぐに。
「あら、この店は未成年は入れないわよ?」
……と言った。それが、ママさんの最初の言葉だった。
「えーと。ケンジに聞いたんですけど。バイトの件で。ちょっと話を聞いてみたいな、と思いまして」
「いや、だから未成年は……」
「オレはもうとっくにハタチ過ぎてます。そんなにガキっぽく見えるのかなあ。やだなあ」
「そう。それならいいけど。でも調理師の免許は持ってるの?」
「あー、親父に無理やり取らされたんで、持ってます。一応」
「へえー。お父さんはお店出されてるの?」
「おふくろと二人で小料理屋やってるんですよ。なかきたって言うんですけど」
「んまあ。名店じゃないの!」
ママさんのテンションがどかあんと上がった。いや、親父の店とオレとは特にかんけーねえんだけどな。それに……。
「有名ったって、名前だけっすよ。親父も変わりもんで、予約客しか取らないから。お客さんが少ないんで、商売としてはかつかつです」
「あら、そうなの? 意外ね」
意外なのはアンタの顔だ。思わずママさんに突っ込み入れそうになったぜ。こんな顔見たことねー。年齢が全く分かんねーんだもん。四十くらいかなあと思ったんだけど、もっとずっと若いようにも見えるし、実はすごいババアなのかも知れねーし。
若作りしてるとか、そういうのは感じない。ホントに自然に、穏やかな表情の不思議な雰囲気の女性が立ってるってー感じだったんだ。
ママさんがオレの前で考え込んでいる間に、店の中からママさんを呼ぶ声がした。
「みづき さん?」
「あ、はーい。君も中に入って。お客さんの邪魔になると困るから」
背中を押されるように店内に入ると、そこはカウンター席しかない小さなスナックだった。うわー、こりゃまた、なーんにもねー店だなー。
ママさんに声をかけたのは、美人系の若いお姉さんだった。店の一番奥のバーカウンターにすいっと立ってる。バーテンダーの服装で、カクテルグラスを磨いてる。すっげー独特のオーラだ。
肩下まである長いストレートの黒髪を、後ろで白い紙で束ねて、細い赤い紐で留めてる。まるで護符みたいに。そこだけ巫女さんの雰囲気なんだ。なるほどぉ。ケンジが気にするのもよく分かるなー。美人なのに、化粧っけがほとんどねー。無愛想じゃなくって、雰囲気は柔らかい。けど、口を開かないから取りつく島もねー。
あー、そうか。このお姉さん、水商売なのに擦れた感じが全くしねーんだ。言っちゃ悪いけど、こういう場所が全く似つかわしくねー。
オレがその娘の方をじっと見てるのに気が付いたのか、ママさんがオレに言った。
「えーとね。あの子はあさみちゃん。先週から、バーテンをやってもらってるの。しゃべらないと思うけど、気にしないでね」
えー? 気になるがなー。なぜしゃべらねー? さっきママさんを呼んでたやん。
でもママさんは、オレの疑問符をまるっと無視して話を続けた。
「今くらいの時間から十時までなんだけど、週三回くらいは来れる? 自給は一時間千五百円。突き出しの準備と、オーダーがあった時だけちょっとした料理を作ってくれればいいわ。それと……」
「ナンですか?」
「私のことは絶対に『ママ』と呼ばないでね。そう言った時点でクビにするから。私は長戸美月って言うの。だから美月って呼んでちょうだい」
おっと。これは注意しねーとな。三時間ちょいで五千円になるってーのは、めっちゃぼろい。これを逃がす手はねーな。
「ってところで、やってくれる?」
「あー、オレで良ければお願いします。毎日でもいいすよ。夕方以降は特にすることもないし」
「あ、そうなの? それは助かるわ。でも、無理はしないでね。来れない日は、そう言ってくれればいいから」
「定休日はないンですか?」
「私が居る時は必ず店を開けるから、ないみたいなもんね」
「へー……」
「あ、調理師免許の書状は持ってきてね。掲示するから」
「そーすね。じゃ、明日持ってきます」
「あと、男物のユニフォームはないから、エプロンでもつけて作業してちょうだい。それと、仕込みに必要な食材は予め言ってね。買い出ししておくから」
「買い物なら、ここへ来る時についでにしますけど」
「ええとね。うちのプライベートな食事の材料も一緒に買うから、それはいいわ」
「分かりました。でも、コメとか大物買う時は気軽に言ってください。運びます」
「ありがとう。それは助かるわ」
すんなりバイトの話がまとまって、俺はごっつ嬉しくなった。
「ケンジも、たまにはいい話を教えてくれるなあ。いつもはろくな話を持ち込まないんすけど」
「ふふっ。いい話かどうかはまだ分からないわよ?」
ママ、でなかった美月さんが横目でオレを見て、意味ありげに笑った。いや、ちょっとやすっとイヤなことがあったって、たった三時間の辛抱やん。ちょろい、ちょろい。オレの長年の苦労に比べれば、はるかにお安い御用だぜ。きっと。
「君は、名前はなんて言うの?」
カウンターの中に入った美月さんに尋ねられる。
「あ、そういやまだ名乗ってませんでしたね。すんません。オレは
「じゃあ、卓ちゃんでいい?」
「いいすよ。ケンジたちもそう言ってるし」
「卓ちゃんもバンドやってるの?」
「いや、オレは音楽は全然できないんで、ケンジたちのバンドの、マネージャーの真似事みたいなことをやらされてんですよ」
「マネージャー?」
「ケンジたちは一応音楽事務所と契約したんで、本当ならそこでマネージメントしてもらうのが筋なんすけど」
「ふうん」
「駆け出しの無名バンドなんで、ロードの会場交渉や、問い合わせへの対応なんかは自分達でやれって言われてんですよ。それをケンジがオレに押し付けたんです」
「あらら。大変じゃないの」
はああ……。そん通し。
「そっすね。ケンジとはガキの頃からの長い付き合いなんで、断り切れずにって感じっす。バイトっていうけど、ほとんどタダ働きみたいなもんで割に合わないっす」
「ふーん、じゃ他になにか仕事してるの?」
「いや、一応学生なもんで」
「あら。じゃ、やっぱり未成年……」
「止して下さいよー。一浪して大学入って今三年ですから、もうとっくにハタチは過ぎてますって」
オレは定期入れに挟んである学生証を引っ張り出して、美月さんに向けて掲げた。
「まあ。ホントだ。童顔なのね」
「美月さん、それはお互い様だと思いますけど」
オレは思わず本音を吐いてしまった。あさみちゃんが微笑を浮かべて、オレと美月さんを見比べてる。
「え? 私? 私は……何歳でしょ?」
美月さんは、澄ました顔でオレに言いにくいことを聞く。ちぇ。
「うーん。分かんないっすよ。女性のトシなんか分かんないし、聞けないし」
「そうね。じゃあ三百歳ってことにしときましょうか」
「美月さん、それじゃ化けもんですって」
「あら、そう?」
美月さんは、そんなのあたりまえーみたいな表情でオレを見た。結構おもろいオバはんだなあ。
「ああ、そうだ。卓ちゃんの後にはうちの旦那が入るから。十時までって言ってるけど、旦那と交代するまではよろしくね」
「うす」
「旦那は文三っていうんだけど、あさみちゃん以上に無口だから、卓ちゃんがいてもいなくても一切口は利かないと思う。それは気にしないでね」
オレはだんだん心配になってきた。店にいるのがこんなサイレントな方々ばっかりで、飲み屋として成り立つんかいな。オレだって口数は多くないのにさ。うーん……。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます