月への誘い 伊東あさみ 一

 ずいぶん変わったお店だなー。それが、わたしの第一印象。スナックって言ったよね。飲み屋さんなのに、華やいだとこがどこにもない。看板とかネオンとか、なんにもない。それが……不思議だった。


 おばさんは細長い木の扉をきいっと引いて店に入ると、壁際のスイッチをぱちりと押して、照明を点けた。いくつかの小さい頼りない灯りが、天井から床に丸い燈明を

灯す。暗い店だなあ、と思った。幅が狭くて、奥行きはそこそこある。壁が黒っぽい色で、飾り気も彩りも、なーんにもない。長いカウンターに面して、丸椅子がずらっと並んでるだけ。これでもかってくらいに殺風景だ。


「中に入って」


 おばさんが、わたしの手を引くようにしてカウンターの中に入った。小さな流しとコンロが手前にあって、それを抜けたところにのれんで仕切られた奥の間。


「こっちは私の部屋なの。プライベートスペースね。あとで案内するから」


 そこを抜けると大きな冷蔵庫があって、一番奥が小さなバーカウンター。


「あなたにはここに立ってもらって、お酒のサービス全般をお願いしたいの。ほとんどがビールか水割り系だけど、たまにカクテルのリクエストがあるわ」


 そんなの、わたしに出来るのかなあ。わたしの不安を読み取ったみたいに、おばさんが微笑んだ。


「大丈夫よ。ジントニックとか、マティーニとか、ギムレットとか。そういうポピュラーなものしか出してないから」


 カクテル作るための道具があるのは分かるけど、どうやって使うんだろ。いやいや、出来るように練習しなきゃね。


 そこまで説明してくれたおばさんは、わたしにいくつか質問をすると言った。そりゃそうだ。今のままじゃ、わたしは正体不明のぷーたろーだもん。


「ええと。まず名前を聞かなきゃね」

「いとう あさみ です」

「あら、話せるんじゃないの」

「わたし はやく はなせ ないん です。だから あまり はなし たく ない」


 おばさんはそれまでのにこやかな表情をどこかに隠すと、わたしの上から下まですーっと見渡した。


「ん。あとで文ちゃんに診てもらいましょか」


 は? なにそれ? 意味不明。


「じゃあ、あさみちゃん、でいいのね」

「は い」

「年は?」

「じゅう く です」

「そっか……」


 おばさんが、思案顔になった。あ……そうか。未成年だとまずいのかな。


「もう すぐ はた ちに なり ます」


 ほんとはまだ半年以上あるけど、サバ読まなきゃ。ここで放り出されるわけにはいかない。


「そう」


 おばさんは、ふっとさっきまでの笑顔に戻った。


「私は、長戸ながと美月みづきって言うの。飲み屋では、女将おかみさんのことをママって呼ぶことが多いんだけど、私はそう呼ばれるのが大嫌いなの。だから、必ず美月って呼んでね」


 ん。それは、おばさんなりのこだわりなんだろな。りょーかいです。


「えっと、お給料と住み込みの条件ね。お給料は固定。月八万。うちは儲からない貧相な店だから、高給は出せないの。その代り、三食と住居、光熱費はただ。それでどう?」


 わお! どうもこうもありません。若い身空でいきなり住所不定無職のホームレスになることを思えば、充分すぎる高待遇。光熱水道費、住居費、食費、ぜーんぶただで、お小遣い八万はもらいすぎですわ、おばさま。ありがたすぎて、もう涙がちょちょ切れます。わたしは両手で大きく輪を作った。


 美月さんが、それを見てくすりと笑った。


「意外にひょうきんなのね」

「は い」


 自分で言うかな、フツー。でも、まともな生活できるってだけで嬉しくて、舞い上がってるのは事実。


「えっと、あとは他のメンバーね。今のところ、私の他は主人だけ」


 あ、他に人がいたのか。うーん……。でも、ご主人じゃしょうがないね。どっちみち、わたしは贅沢言える立場じゃないしぃ。


「主人は文三ぶんそうって言うんだけど、夜遅くにちょっと板場に立つだけ。パチンコ狂いで、ほとんど仕事しない。それに、全くしゃべらないと思うけど気にしないでね」

「わたし と おん なじ」

「いや、あさみちゃん以上よ。絶対に口を開かないから」


 そ、それはスゴい。相当変わった人みたいだなあ……。


「でも、店で料理作ってくれる板さんは確保したいの。今、あちこち当たってるんだけど……なかなかね」


 美月さんが作らないってことは、お料理苦手なんだろなあ。そっか。


 美月さんはくるりと振り返るとわたしの前を通り抜け、のれんをくぐって奥の間へ上がった。


「あさみちゃんも上がって」

「は い」


 うわ。狭い。ここって、六畳ないんちゃう?


「えっとね。二間しかないの。左の三畳の部屋は、私と文ちゃんの寝室。あさみちゃんは、居間に布団を敷いて寝てね。バス、トイレは突き当たり左のユニット。キッチンは右奥ね」


 うーん。わたしのプライベートはまるっきりないな。でも贅沢は言えない。早く慣れなきゃ。伯父さんに覗かれ続けるよりは、ずっとマシだし。


 あれ? そう言えば。なんだろ。この部屋って、狭い割になんだか生活臭がないなあ。あ、そっか。テレビがないんだ。それと店舗と同じで、居間の方も彩りみたいなものがまるっきりなくて、すっごく殺風景。家具も最低限しかないし、置物や写真、ポスター、カレンダー、そういう賑やかさを感じさせるものが一切ない。読み置かれてる新聞だけが辛うじて現実を主張してて……さぶい。


 それにしても、美月さんの寝室のベッドってどうみてもシングルなんだけど、あれで二人で寝られんのかしら? うーん……ナゾ。ナゾだらけ。


 美月さんは、わたしを見て確認した。


「今までで、何か分からないことはあった?」

「だい じょうぶ です」

「そうね。あとはやってみて、また考えましょ。あ、それと食事は私が作るから、あさみちゃんは心配しないでね」


 さてとって腰を上げた美月さんが、わたしを促してカウンターに戻った。


「あさみちゃんのバーテンのユニフォームを作るから、採寸させてね」


 美月さんは手際よくわたしのボディサイズを測って、数字をメモった。


「二、三日で来るでしょ。仕事はそれからね。それまでは、カクテルの作り方を練習してて」


 私も下手なのよと言った美月さんに、カクテルの基本的なことが書かれた本を手渡された。いくつかのページに付箋が付いてる。


「ええとね。その付箋の付いてるものしかうちでは扱わないの。だから、それだけ覚えて」


 ざっと見渡すと、そんなに種類はないみたいだ。これならわたしにもなんとか覚えられそう。


 わたしはバーカウンターの中で本を見ながら、おぼつかない手つきで二時間くらいシェーカーを振ってた。慣れてくると結構おもしろい。そのあと美月さんに、筆談でお酒の扱いに関する基本的なことを聞く。筆談だと会話がそのままメモで残るから、ベンリ。まあ……なんとかなりそうかな。


 昨日までの不安感と、今日これからの不安感は違うけど、前向きの不安感の方がはるかにマシだもん。


◇ ◇ ◇


 夜になって、板さんの格好をした坊主頭のおっさんが、のそのそっと店に入ってきた。この人が文三さんかー。がっしりした体格だけど、背が低くて動作はもっさり。角顔にだんご鼻にぎょろ目で、無精ひげだらけ。人相はよくない。そして美月さんが言ってたみたいに、まるっきり口を開かない。


 おっさんが、わたしの方をちらっと見た。その視線がめっちゃめちゃきつい。ヤクザっぽいわけじゃないけど、眼光が鋭すぎ。それに、全身から噴き出してる威圧感がすさまじい。正直言って、怖いから顔を合わせたくない。隙を見せたら襲われるっていう感じではないんだけど。どうも……苦手だなあ。


 どっちかと言えばほわっとした美月さんとは、全然釣り合ってない気がする。


 わたしからふいっと目を逸らした文三さんは、ほんの十分ほど流しの前に立ってただけで、すぐにのれんをくぐって奥の間に上がった。美月さんも追いかけるように奥の間に上がったけど、すぐに戻ってきた。


 ええと。手に持っているのはなに? 和紙? それと赤いのは……水引き?


「文ちゃんに言われたんだけど、これで髪束ねろって。他のもので結わえたらダメだって。ユニフォームの一部、ね」


 ぷちコスプレすか? おっけー。変わってるけど、そのくらいは全然のーぷろぶれむです。


「さて」


 美月さんは、笑顔でわたしに言った。


「遅くなったけど夕飯にしましょ。お腹空いたでしょ」


◇ ◇ ◇


 美月さんの作ってくれた料理は、シンプルな和食だった。焼き魚にお味噌汁、ほうれん草のお浸し、切り干し大根の煮たの。確かに凝った料理ってわけじゃないけど、普通に食べられる。わたしは和食派だから、同じ路線は嬉しい。


 それにしても……。文三さんは、わたしたちと一緒に食事をしなかった。寝室にこもったまま。美月さんは、あの人は酒飲みだから食事はほとんど取らないって言ったけど……。それだけじゃない。居間に来ても、わたしの方を全く見ようとしない。ひとっことも口を利かない。完全に無視、だ。なんだかなあ。

 伯父のように年中発情しててスケベ丸出しなのもかなわないけど、逆にここまで徹底的に無視されるのも、なあ。美月さんには悪いけど、このおっさんはどうも苦手だ。


 食事の後片付けは、わたしがした。その間に、文三さんはまたどっかに行ってしまった。店に出ていた美月さんは、のれんからちょっと顔を出してわたしに声をかけた。


「あさみちゃん、先にお風呂に入って休んでて。今日は、急にいろいろ決まったから精神的に疲れたでしょう? だから、ね」


 うーん。精神的に疲れたというより、精神的にすごく楽になったというのがホンネ。美月さん、本当にさんくす。でも、オコトバに甘えることにしようっと。


 ユニットバスの湯船は伯父の家のよりずっと小さいのに、開放感がまるっきり違う。だって、覗かれる視線を気にせずお風呂に入れる。ゆったりバスタイムを満喫したわたしは、美月さんから借りたパジャマに着替えて居間に布団を敷いた。


 ばたん! 布団の上に倒れ込んだわたしは、少し湿った薄い布団がものすごく快適に感じた。物音にびくびくしないで手足を伸ばして寝られるんだもの。ああ、本当に嬉しいなあ……。


 横になった途端に、どおっと睡魔が襲ってきた。伯父の家を飛び出してからずっと続いていた恐ろしいくらいの緊張から解放されて、ここで休むのが初めてだっていう緊張はどこかにはじき飛ばされてしまったみたい。ああ……眠い。もうだめ。


 う……ん。すぅ。すぅ。すぅ……。


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