第1夜 四階建てのアパート --2

 アパートの一室、四条半ほどしかないその部屋のなかにはほとんど物がない。千恵は玄関を背にして、部屋の真ん中に置かれた小さな飯台の前に座らされた。彼女から見て真ん前に窓があったが、そこからの眺めは決してよいものではない。さきほど屋上のフェンスの外側で見た景色と同じだ。窓の外にはベランダはなく、転落防止のためにか柵が設置されている。白く塗装されていたらしいそれはしかしペンキが剥がれ錆び付いて、あまり頼りになりそうなものではない。窓の下へと目線を落とせば、そこには色鉛筆と画用紙がごちゃっと一所にまとめられていた。画用紙は真っ白のものもあれば何かの絵が描いてあるものもある。一番上にある画用紙には鮮やかな青が一面に塗り付けられていた。

「伊織ちゃん、お皿並べて」

 冷蔵庫を開けた青年がそう言うと、彼にくっついていた小学生の女の子が食器棚の扉を開ける。彼女は階段を上っていく途中で遭遇したあの少女だ。迷いなく皿を四枚取り出して飯台の上に乗せる。二枚は黄緑色の陶器の皿で残りの二枚は白いプラスチックの皿だ。少女、伊織は千恵の視線から逃れるようにまた食器棚の方へ戻り、今度はフォークを四本取り出した。

 皿もフォークも四つということは、まだ誰かやってくるのだ。千恵は伊織から目を逸らしてぼんやりと部屋の壁を眺めた。壁には何枚かの画用紙が貼ってあり、おそらく伊織の作であろう花の絵や、誰かの似顔絵が部屋を明るく彩っている。髪を二つに結んだ小さな女の子は伊織の自画像だろう。その両脇にはそれぞれ黒い髪と茶色い髪の大人がいる。黒い髪の方がこの青年だろうか。茶髪の方は母親か、と考えて千恵はふと青年の方に目を移した。ちょうど冷蔵庫を閉じてこちらを向いた彼と目があったが、彼女は構わずにまじまじと彼を観察する。

 癖がなくさらりと揺れる髪はカラスの羽のように真っ黒で、少し長めの前髪は横に流してあり額が見えている。月光で青く見えた顔も、部屋の蛍光灯の下では血色が戻っている。とはいえ彼は色白な方だ。体は細く頼りない感じで、背が高いのでひょろりと長く見える。

「じゃーん! 力作のバースデーケーキです!」

 青年は満面の笑みで、冷蔵庫から取り出したホールケーキを一つ掲げて見せた。普通にしていると、同級生の男子とは違うすっかり成長期を終えてしまった大人の顔をしているのに、彼は笑えばやけに子供っぽい顔つきになる。千恵は青年と伊織を見比べた。青年はとても小学生の子供がいるような年には見えないのだ。

 ケーキが飯台の真ん中に置かれる。生クリームが塗りたくられたその表面はでこぼこだ。イチゴがぽつぽつと円を描いて、全部で六個乗せられている。イチゴの円の中にチョコレートのプレートがあり、下手くそな字で「ソラ」とだけ書かれていた。この部屋の中にはオーブンもレンジもないから、スポンジは市販のものだろう。青年が千恵から見て左手に座り、伊織は千恵の向かい側に座った。

「さて、勢い余ってケーキ出しちゃったわけだけど、まだ帰ってきてない人がいるんだったねえ」

 青年はケーキの横に濡れた白いタオルを畳んで置き、その上に包丁を寝かせる。目の前の壁の上の方にかかっている時計を見上げてから、飯台に肘を突き伊織に笑いかけた。

「どうする? 先にケーキ、切っちゃう?」

「まつ」

 何かいたずらでも企んでいるかのような青年の声に、伊織は小さな声だがはっきりと答えた。幼い手は飯台の端をしっかりと持っていて、まるで見張っていないとケーキがふっと消えてしまうと言うかのようにじいっとそれを見つめている。青年は伊織の答えを予想していたようで、慈愛に満ちた表情でうなずきにっと笑って千恵の方を向いた。突然矛先を向けられた彼女は反応に困ってうつむいてしまう。

「そういえば、ちゃんと自己紹介してないね。まあ俺の名前はここに書いてあるんだけど」

 彼の指がチョコプレートを指した。つられて視線を上げ「ソラ」という字を改めて見つめる。向かいでケーキを監視している伊織が一瞬だけちらりと目を上げて千恵を見たが、気のせいだったかと思うくらいすぐにまたケーキに没頭していった。

「みんなソラって呼ぶんだけどさ、俺の名前はタカノアキオっていいます。鳥の鷹に野原の野、青空の空にオスメスの雄で、鷹野空雄。ま、空雄って言われてもピンとこないから、ソラって呼んで」

 千恵はうなずき、自分も自己紹介するべきなのだろうかと思案する。空雄はもう彼女の名前をわかっているから必要はないのだが、伊織は知らないだろう。だが自己紹介したところで果たして聞いているかどうか。そんな彼女の考えを知ってか知らずか、空雄は伊織の頭を優しく撫でて続けた。

「この子の名前は伊織ね。あの、なんていうのかなあ、よく伊藤っていう名字に使われてる伊って字に、織田信長の織。わかる?」

 空雄の手にも発言にも全く反応を示さず、伊織はケーキを見つめ続けている。千恵はまた一つうなずいて、小さな声でぼそりと呟いた。

「……須崎、千恵です」

「うん、よろしく」

 やはり伊織に聞いている様子はなかった。だが彼女の心がふとケーキから離れたのに気づき、千恵は思わずまっすぐに彼女を見る。彼女の目は千恵の背後にある玄関扉を見ていた。千恵が振り返ってみても特に変わったところはない。なんだろうと思いながらまた飯台の方を向き直ると、立ち上がって床を蹴った伊織が視界を横切っていった。

「お、帰ってきたかな」

 もう一度振り返ると、ちょうど伊織が玄関扉を開けて外に飛び出していくところだった。他に人の姿はない。千恵が困惑して思わず空雄の顔を見ると、彼も玄関の方を見て頬杖をついていた。

 千恵はセーターの裾をきゅっと伸ばして両手をかたく握る。伊織が帰ってきた母親に抱きついている場面を想像し目を伏せた。どうして私はここにいるのだろうと自問する。壁に貼られた笑顔、不格好な手作りケーキ。生活感あふれる部屋。それら全てに拒絶されるような気がして、怖くてたまらない。ただ一つ、空雄の優しい眼差しが彼女の方を向かないことだけが救いだった。

「こら、ひっぱるな」

 玄関の方からやけに低い声が聞こえてきた。半開きになっていた扉が開き、まず伊織が入ってくる。その後ろから見知らぬ男性が入ってきたのを見て、千恵は思わず身構えそうになったが、伊織の手がその男性の手をしっかりと握っているのに気付いた。ぽかんと口を開けてしまう。

「徹、おかえり」

「……えり」

「ただいま」

 男性は空雄と年も身長も同じくらいの青年だが、空雄とは違ってがっしりとした体型だ。手を離そうとしない伊織の頭を反対の手でぐしゃりと乱暴にかき回すように撫で、彼女が驚いている隙に手を離しかがみこんでブーツを脱ぐ。下を向いた拍子に揺れた髪は少し堅そうで、色は黒なのだがどちらかというと茶色がかっていた。千恵はちらりと伊織の絵に視線を走らせる。彼女の絵ではもっと髪の色が薄くなっているが、きっと彼がこの絵のもう一人の大人なのだろう。

「ほら、お前も靴脱げ」

 手を離されてしまった伊織は彼の服を掴んでいたのだが、彼に軽く背中を叩かれると慌ててかがみこんだ。彼は先に玄関から部屋の方に歩いてくる。まさか今まで気付いていなかったわけではないだろうが、千恵たちの近くまでくると立ち止まってまじまじと彼女を観察した。

「千恵ちゃん、こいつはトオルっていって、一応この家の家主ね。えーっと漢字は、初志貫徹のテツ」

「また拾ってきたのか」

 千恵が空雄の紹介にうなずく間もなく、徹はかすかに呆れが感じられる声をぽつりとこぼした。彼の注意はそれきり彼女からそれて、くたびれた黒い革のジャケットを脱いでハンガーにかけると空雄の向かい側に腰を下ろす。靴を脱いだ伊織もその後ろを小走りに通って元の位置に戻った。

「よっし、じゃあ切るよ!」

 いつの間にか包丁を持ってスタンバイしていた空雄が明るい声を上げると、伊織が大真面目な顔をして大きくうなずいた。

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