スカイダイビング
架月 夜
第1夜 四階建てのアパート
世界というものはなんとうまくできているものなのだろうか。日々失われていく小さなピースがあり、そのあとに残った穴を別の何かが埋めていく。まるで何事もなかったかのように時は進む。日は昇る。人々は歩く。
私は、世界ほどうまくできてはいないのだ。
須崎千恵は電車に揺られていた。
夜の八時を過ぎた電車の中は通勤ラッシュも終わりそれほど混んではいない。いくつか空席はあったが千恵はどうしても座る気がおきなくて、扉にもたれかかるようにして立ち制服のリボンをいじっていた。彼女の制服は上着のブレザーからスカートまで紺色一色で、派手好きの女の子たちにはすこぶる不評である。彼女たちは地味な制服を少しでも彩ろうと、カバンに大きなキーホルダーをつけたりカラフルなセーターを着たりするのだ。四月の終わり頃になった今ではもうセーターを着ることは許されていない。だがどういうわけか千恵の袖口からはベージュ色のセーターがのぞいていた。色とりどりのネオンが窓の外を走っていく。聞き慣れない駅名がアナウンスされる。彼女がいつも降りる駅はとうに過ぎていた。高校から家に帰るにはたった二駅分乗るだけでよいのだが、電車に乗ってから通り越した駅はもう二桁に達している。千恵は何も考えていなかった。教科書やノートでぱんぱんに膨らんだカバンの中で携帯が震えている。友達だろうか。親ではないことは間違いない。まだ帰ってくる時間ではないし、帰ってきたところで彼女の不在に彼が気付くことはない。
電車はスピードを落とし、蛍光灯の光がまぶしい駅の構内へと入っていく。線路はあちらで合流したりこちらで分かれたりして数え切れないほど敷かれているのに、駅のホームはたったの二つしかなかった。他の線路は倉庫にでもつながっているのだろう。
「終点ですよ」
若いサラリーマンが、ぼんやり立ちつくす千恵にそう声をかけた。彼女ははっと我に返り、蚊の鳴くような声ではい、と返事をして会釈する。もう他の乗客は皆電車から降りていた。千恵も仕方なくホームへと降り立つ。心もとなげな足が床から離れるのを待っていたかのように、電車のドアが閉まった。
駅の外へ出ると、まず古びたホテルの看板が目に付いた。色あせて錆びたそれにはけばけばしいピンクのネオンが輝いている。見回すと他の背の高いビルはどれも明かりが消えていて、汚れた外壁には剥がれた塗料がまるでキクラゲみたいにくっついていた。看板が撤去された跡もいくつも見える。つぶれたのか、まだやっていけているのか、どちらにしろあまり変わらない。昔はにぎわっていたのだろうと思われた。この地域にはこういったさびれた町が少なくない。千恵の住んでいる町でも、駅前の商店街などは軒並みシャッターが下りてしまっている。不景気なのだ。それでも千恵の町は住宅地なので、ここほど閑散としていない。
千恵は行くあてもなく歩き出した。駅前の歩道もない二車線の道路には彼女以外の人影は見えない。先ほどの電車に乗っていた乗客は、彼女がぼんやりしているうちにどこかへ行ってしまったようだ。彼女は大きく息を吐いた。胸の奥に重く淀んでいたものが少しだけ軽くなったように感じる。ここには彼女以外誰もいない。誰もいないのだ。彼女は心の内で繰り返した。
また、カバンの中で携帯が震えだした。千恵はぴたりと足を止め、落ち着かなく視線を彷徨わせてカバンをアスファルトの上に下ろす。彼女はおそらく無意識に、汚いものを見るような目でカバンを睨みながら二、三歩後ずさった。頭の中に携帯のバイブレーションの音が鳴り響く。彼女は両手で耳を押さえて固く目を閉じその場にしゃがみこんだ。音は止まらない。頭の中を侵食していく。
「あの、大丈夫ですか?」
鳥肌がたった。千恵は弾かれたように顔を上げて声の主を見る。女だ。白髪を茶髪に染めてパーマをかけたどこにでもいそうな普通の主婦だ。この人気のない場所にそぐわない親切そうな顔を心配げに歪ませている。
笑え。千恵の頭の中で誰かがそう命じた。笑うんだ。できるだろう、いつもやっていることだ。立ちあがって笑いお礼を言うんだ。大丈夫です、すいません、ありがとうございます。そう言えばいいんだ。
できない、と千恵は答えた。できない。できないよ。だって誰もいないと思っていたのに。
「あの、本当に……」
女が一歩千恵の方へ近づいた瞬間、彼女はアスファルトの地面を思いっきり蹴りカバンをひっつかんで走り出した。背後で女が何か言っていたがそれは彼女にとってもはや意味をなす言葉ではない。彼女は走り、逃げ続けた。だがこの広い道にいる限りあの主婦の視界から逃れることはできない。しばらく走った千恵はそのことに思い当たり、すぐ近くの曲がり角を曲がった。
一つ角を曲がっただけだというのに、その細い道は駅前の通りとはがらりと趣きが異なっている。まわりのビルは高さをそのままにアパートに変わる。同じように壁の塗料がはがれ、ないよりはましといった程度の玄関の門には枯れかけた色の植物が絡みついている。側溝もゴミだらけ。それにも関らずここには人が住んでいた。アパートの窓がいくつか白く光っている。洗濯物が干されている。
アパートの群れの中を走って行くうち、比較的背の低いものが目の前に現れた。古びた黒いタイルの外壁にくすんだ窓がはりついている。玄関のガラス戸の上にはプレートがかかっていて「メゾン・ド・シエル」という文字が書かれていた。「ド」の濁点が一つ落ちてしまっている。千恵はふっとそのアパートを見上げ、窓を数えた。一、二、三……四階建てだ。四階、と彼女は呟く。彼女は自分の言葉に引き寄せられるようにしてふらふらとそのアパートに入って行った。
エントランスには蛍光灯がついているのにも関らず、薄暗かった。入って右手には一階の各部屋へ続く半分屋外に近い通路があり、左手の壁には郵便受けが設置されている。千恵の注意はそれらへは全く向くことなく、彼女は奥にある階段へまっすぐ向かった。アパートの中は静かなもので、彼女が階段を上っていく足音以外にはほとんど物音がしない。耳を澄ませば車の音や踏切の音がかすかに聞こえてくるが、それはアパートの外から来る音だった。内側は静寂に包まれている。
千恵は二階と三階の間の踊り場まできたときに足を止めた。階段の上には少女がいて、彼女を見下ろしていたのだ。少女の年は小学校の低学年ほど。長い髪を二つに結び、黄色の細いリボンをつけている。長袖のTシャツに半ズボンといったいでたちで、胸のところには一昔前の子供向けアニメのキャラクターが描かれていた。もっとも、だいぶ昔にそういうアニメを卒業してしまった千恵には、そのキャラクターが新しいのか古いのかなどさっぱり分からなかったが。千恵に分かったことはその少女がひどく自分のことを警戒し、怯えているということだった。千恵は無言で少女を見つめる。ややあって、少女は細い足を一歩後ろに引いた。そして勢いに任せてきびすを返し三階の廊下へ姿を消す。パタパタと小さな足音だけが遠くに響く。千恵はしばらく少女のいた空間を見つめていたが、足音が消えてしまうと何事もなかったかのようにまた上を目指した。
屋上へ出るドアの鍵は壊れていた。まわりの背の高いアパートに遮られてそれほど風は強くない。そのためあまり眺めはよくなかった。隅の方には雨水がたまりゴミが浮いている。排水溝が詰まっているのか、やたらと大きな水たまりだ。千恵はカバンを下ろすと、それを避けながら道路のある方へ行き屋上をぐるりと囲っているフェンスにはりつく。彼女はちょうど自分が歩いてきた道が見えるだろうと思っていたのだが、見えたのは向かいのアパートの壁までだった。道までは見えない。
背伸びをしてみたり、フェンスの下の方にちょっと足をかけてみたりして、どうやっても下を見ることがかなわないと知ると、千恵は諦めてフェンスに背中を預け屋上を見回した。左右も後ろも背の高い建物に隣接している。建物同士はかなり近い。そのためか左右のフェンスは一メートルぐらいの高さしかなかった。千恵はその低いフェンスの方へ向かい、迷うことなくそれに足をかけてよじ登る。フェンスの一番上を掴んだ両手に全体重をかけて慎重にバランスをとりながら、体を外側へと動かす。わずか三十センチほどしかない足場に立ったとき千恵の手足は震えていた。
千恵はフェンスにすがりながら道路の見える方へと進んだ。フェンスに背中を向けて立ち、後ろ手にそれをしっかりと掴んでゆっくり体を外に乗り出す。体が半分以上空中に出たところで彼女は動くのをやめ、眼下に広がる景色を見下ろした。アパートの壁、窓が見えて、暗い道路がある。いくつかの部屋から漏れた明かりに照らされてぼんやりと見えているその道の上には誰の姿もなかった。特に変わったこともない、ただの道路だ。彼女はそこを歩いてきたのだからそのことは分かっているはずなのに、彼女は落胆した。これじゃあ駄目だ、と心の中で呟いて体をフェンスの方に戻す。
「須崎千恵ちゃん」
声は彼女の背後から発せられた。階段のところの開きっぱなしにしていたドアの前に一人の青年が立っている。癖のない黒髪、顔色は月明かりに照らされて青白く見えたが柔和な表情を宿していた。千恵は振り返り、ある種の諦めをもって青年を眺める。彼女には彼が何を言うのかわかるような気がした。慈悲深そうな顔をして。
「あ、ごめんね。これ、落ちてたから勝手に見ちゃった。君のだよね?」
青年はへにゃりと笑うと、まるで刑事ドラマの警察官のように手のひら大の大きさの四角いものを掲げて見せる。それは確かに千恵の学生証だった。千恵は黙って目を細める。青年は腰を折って学生証を足元にあった千恵のカバンの上に置いた。
「さてと」
彼は芝居がかった調子で両手を広げる。
「今日、俺の誕生日なんだ。だから一緒にケーキ食べない?」
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