4
馬車で運ばれていった美夜が下ろされたのは、時間の感覚がなくなるくらい経ってからのことだった。
さすがにこんなに長く戻らなければアランも行動を起こすだろう。
今のところ、連れ去った犯人達も美夜自身に危害を加えるつもりはないようだが、いつその気が変わるかは分からない。
(……ここがどこだか分からないっていうのも考えものだし)
最早れっきとした誘拐事件だが、美夜も覚悟の上。
助けが来た時、あるいは上手い事逃げ出せた時、何かしら持ち帰る情報がないかと耳を澄ませていたが、走る馬の蹄や車輪の音のせいで、それ以外の周囲の音はほとんど聞こえなかった。
唯一聞こえたのは水が大量に流れ落ちる音。おそらく滝だろう。
しかし、ブラッドフォードならいざ知らず、他国の、それも閉鎖的なシストニアの地理。そこまで細部に覚えていられるはずもなかった。
(助けてもらう分際でアレだけど、ここはひとまず穏便に帰りたい。でも、
そんなことを考えていると、耳元でふいに囁かれた。
「あぁ、本当に、少し目を離した隙にこれですか」
「……っ!」
「なっ!
「ねぇ、ミヤ。どこを触られました? こんな○○で○○な○○○でしかない害虫どもに……あぁ、それでは害虫達に失礼ですね。彼らとて、あんな小さな身体で必死に生きていて、生きる権利も彼らには彼らなりにありますから」
(あぁ、終わったな。彼らも……私も)
周りから見れば、うっすらと微笑む口元しか見えていないだろうが、今の美夜は目蓋の裏で遠くを見つめている……気になっている。あぁ、今日も夕日が綺麗だなと同じテンションだと思っていただいて問題ない。
何が悲しくて、手塩にかけて大事に育てたはずの教え子が、向こうの世界での放送禁止用語を連発するのを傍で聞いていなければならんのか。
美夜にしてみれば、もうこの時点で、これはわざと連れて行かれた自分に対する罰ゲームなのだと思わずにはいられない。
軽くそんな現実逃避をしていると、美夜の頭をふと何かが過ぎった。
(何か大事なことを忘れている、よう、な……)
「……んんーっ! んーっ!」
「ミヤ? どうしたんです? 何か意に沿わないことでもされたんですか? 消しますか?」
(いや、消すって何を!? ……じゃなくって!)
猿轡をされているせいで、くぐもった声しか出せないのが本当にもどかしい。
王宮の一室で聞いた、王妃達の会話に出てきたクリスの名。今考えても、あれは自分達の謀略にクリスを巻き込む気満々だった。だから、ここで会ったが百年目とばかりに何かしらの行動を起こすに違いない。
それを必死で伝えようとしているのに、伝えたいのに、何を言い出すんだろうか、この教え子は。
「まったく冗談じゃありませんよ。ただでさえ、こちらに帰って来てからずっと師匠だかなんだかと一緒にいられて、我慢の限界ギリギリのところまで気が立っているというのに」
そう言いながら、クリスは美夜の髪の一房を
「その上、こんなどこの誰だか分からないような……あぁ、腹立たしい事この上ない」
美夜は預かり知らぬことだが、少し離れた位置には美夜を監視していた男が二人、床にしゃがみ込んでいる。黙って宙を見上げ続ける彼らの目は、魔術で意識操作でもされたのか、酷く虚ろだ。
(ひぃっ! 首筋にも触れるのはナシ! ……って、本当にそれどころじゃないから!)
美夜は猿轡を肩に擦りつけ、口から外そうとするが、それでどうにかなるようなら猿轡の意味がない。
クリスもクリスで美夜のその仕草を見て分かりそうなものの、決してそちらには手を出そうとしない。
「……でも、これはこれで」
髪を離されたかと思えば、今度は首元にあたる冷たい両手。
さらに怖いことに、目隠しもされているせいで、クリスが今どんな表情をしているかが分からない。
「このまま屋敷に連れて帰って、誰の目にも触れないようにしまい込んでおきたいのですが、いいですよね?」
「んーっ! んんんっ! んんーっ!」
「大丈夫。不自由を感じるのは最初のうちだけですから。ね?」
(ね?とか、可愛く言ったらおねだりが通用するのは小さい頃まで!)
心の中で必死になって師匠に助けを請うが、当然そんな都合よく来る気配はない。
いつもがいつもなだけに、こんな時だけ空気を読んだとか言うんじゃあるまいなと、そんなひねくれた考えばかりが浮かんでくる。
そんな時だった。部屋のドアが開かれたのは。
「おい、食事を……誰だ、てめぇっ!」
(助かったけど、助かったんだけど! 助かってないっ!)
入ってきたのが誘拐犯側の人間でなければ言うことなしだったが、現実はそう甘くない。
‟タイミングって大事”
きっと、部屋の中に入ってきた男は、この言葉を今後の人生で噛みしめながら生きることになるだろう。
その証拠に、美夜の首筋に当てられたクリスの手が離れた。
「……」
「なんだ、お前っ! 俺にガンつけ……おい、な、なんだよ。よせ、やめろ。やめろって言ってんだろ!? ……ぎゃああぁぁっ!」
もしかして、と美夜の背を冷たいものが走る前に、バタバタと走り去る音がする。
どうやらタイミングを間違えた誰かはうまく逃げおおせたらしい。無事かどうかはこの際問うまい。逃げられたんだから、それで重畳とすべきだろう。
「さて、邪魔はなくなりましたし。帰りましょうか」
どこへ、なんて聞かないし、言えない。
美夜とてクリスの気持ちに応えられないだけで、彼がどうなることを望んでいるか、その先を分かってはいる。クリスに言わせれば、ちっとも分かってくれていないと反論されそうなものだが、少なくとも分かってはいるつもりなのだ。
そして、今回は今まで通り言い含めたり話をすり替えることで有耶無耶にすることも叶わない。猿轡をされ、目も塞がれ、おまけに逃げられないように手足も縛られている。自由になるのは、唯一聴覚のみというこの状況。
どう考えても、詰んだの一言に尽きる。
(……こんなことになるんだったら、あの時大人しく寝たふりするんじゃなかった)
そんなことを思っても、それこそ今さら。
最後の頼みと、アランに届けと必死に祈るが、そんなもの。気休めにもならずに終わった。
そうこうしているうちに、クリスが美夜の身体を横抱きにして立ち上がった。
美夜もこのままどこか分からない所に連れて行かれてなるものかと、でき得る限りの抵抗を見せる。
「安心してください。もう心配するようなことは何もないですから。……そうだ。ミヤのために、珍しい薬草の種をたくさん庭に植えてあるんです。ふふっ。二人っきりで一緒に育てましょうね」
「……んんーっ! んんっ! んんんんっ!」
珍しい薬草という言葉に、美夜は一瞬ぐらつきそうになるけれど、そこは理性が勝った。
しかし、クリスも伊達に年を重ね、成長したわけではない。
美夜の抵抗など物ともせず、そのまま転移陣を展開させる。そして、この場から消え去るまでを一瞬のうちにやってのけた。
部屋の中には、今だ宙を見続け、もはや正気に戻ることもない男二人だけが残されていた。
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