とある画家の幸福論

紫乃

とある画家の幸福論

 

 きっと、この人父の見る世界色は、美しく輝いて見えるのだろう。



 父は僕が物心ついた頃から、すでに高名な画家として名を馳せていた。

 日がな部屋に篭っては筆を濡らし、白いカンバスを鮮やかな色彩で染め上げる。

 父が描く世界は、たくさんの美しいもので彩られていた。

 鮮やかな色で表されるそこには、世界中の美しいものが全て詰め込まれている。


 例えば、海。例えば、空。例えば、草原。

 すぐ近くにある景色を、現実よりも、もっと美しく。もっと鮮やかに描き出す。

 それはまるで、魔法。

 さながら、父の筆は魔法の杖だろうか。

 その様を幼少から間近で見ていられたということは、とても幸運なことだと、今でも思う。


 父の部屋には大きな窓があった。

 父はいつもカンバスを窓に背を向けるように置き、自分は少し視線を上げれば母の作った小さな花壇が見えるように椅子を置いて、そこに静かに腰掛けていた。

 僕はそんな父の足元で膝を抱え、筆を動かす父を見上げているのが好きだった。


 日が傾いて空が橙色に染まる刻限になると、そこから真っ直ぐな軌跡を描いて、陽の光が差し込む。

 父は毎日、その光を眩しげに目を細めながら見ていた。

 その時だけ、父は筆を置く。カンバスが逆光で暗く影に覆われてしまうからだ。

 それでも、父はその柔らかな色をとても愛していたから、例えその絵が完成する間際であっても、その場所を動くことも、ましてやカーテンを引くこともなかった。


「まぶしくてカンバスの色がみえないんでしょ? べつの部屋でかけばいいのに」

「いいや、いいんだよ」


 僕が首を傾げる度に、父は柔く微笑んで言った。


「見てごらん。美しいだろう」


 窓の外には、美しい橙色があった。

 ずっと遠くに見える空は、未だ薄く水に溶かしたような青色が滲んでいる。


 空が燃えている。


「きれい」


 そうだろう、と答えた父の頬にも、橙色が映っていた。



 僕が絵筆を手に取ったのはいつの頃だったか。

 さっぱり覚えていない。

 気付けば、父を真似てカンバスに色を重ねていた。

 子供らしい、ただひたすらに絵の具を撒き散らしたような絵だった。

 それでも、父は嬉しそうに笑って、頭を撫でて褒めてくれた。


「よく描けたね。とても素敵な絵だよ」


 そう言って、父は僕が描いた絵を自分の部屋に飾った。

 時折ちらっと視線を走らせては嬉しそうに笑うのがとても気恥ずかしかったけど、それと同じくらい嬉しかったのを覚えている。



 僕が描くことを苦痛と感じるようになったのは、いつの頃だったか。

 よく覚えている。

 初めて自分の絵を品評会に展示した時だ。

 僕が十五の年だった。


「芸術というのはね、得てして理解されないものなんだよ」


 父は言った。


「今では名高い画家も、若い頃は苦労したんだ。芸術というものは、とても自由だ。自分の中の世界を絵の具にのせて描き出す。それは素晴らしく楽しい。全て自分の好きなように描けばいいのだから。自分の好きなようにできる、美しい世界がここにあるんだから」


 父は言った。


「でもね、それが他人に理解されるとは限らない。美しいだけじゃ駄目なんだ。整っていればいいわけじゃないんだ。時には何故と問いたくなるほど醜いものが評価されることもある。その基準はとても曖昧で、誰も分からない」


 父は言った。


「私は認められた。偶然にね。でも、もう少しなにかが違えば、今の私はいなかったかもしれない。それは誰にも分からない。だが、これだけは言えるよ。私は、お前の描く絵が好きだよ」


 僕は言った。


「だからなんだよ」


 その時の父の表情は、ひどく悲しそうだった。



 俺は認められなかった。

 今まで描いた中でも一番の出来であったはずの俺の絵は、人混みの中で小さく漏れた一言に潰された。


「だめだな」


 何がだ。

 問う前に、その囁きは広がっていく。


「稚拙だな」

「綺麗に描けばいいってもんじゃないんだがな」


 僕が知っている、一番綺麗な景色を描いたつもりだった。

 持ちうる全てを、このカンバスに詰め込んだつもだった。

 目の前できらきらと輝いた、美しい世界を切り取って、多くの人に見てもらいたいと。



「ああ、名前を見ろ、彼の息子だ」

「なんだ、七光りか」


やめろ。



 父は認められた。

 僕は認められなかった。


 きっと、それだけの違い。



 私は筆を捨てた。

 そして、教鞭を取った。


 これからどこまでも夢を追いかけられる歳の子供たちを見ていると、時折脳裏によぎるものがある。

 その度に打ち消すが、じりじりと腹の奥を焼くような衝動は消えない。

 すでに遠い出来事だというのに、未だ家に足は向かない。

 合わせる顔がない。

 浮かぶのは、あの悲しそうな笑みだけ。

 大好きだったはずの、あの優しい色だけが思い出せない。



 父が倒れた。

 その知らせを聞いた瞬間、足が動かなくなった。

 妻に引きずられるようにして向かった生家で、私は小さく縮こまっていることしかできない。

 娘にすら呆れられた。


「お父さんったら弱虫ね」


 ああ、その通りだよ。



「父さん」


 呼びかけても、夢の中をたゆたう父からの答えはない。


 父は倒れてから、ベッドの上から動くことができなくなった。

 窓ガラスの先にある空をぼんやり眺めて、とろとろと浅い眠りを繰り返す。

 それしかできなくなった父は、もはや生きる意味を失った。


 父は美しいものが好きだった。

 幼い私と母を連れ、少しだけ遠出するのが父の楽しみだった。

 海に行っても、山に行っても、父ははしゃいで遊ぶ私たちを見ているばかり。

 どこか遠くを見るような目をした父の手を引っ張るのは、いつも私の役割だった。


「父さん!」


 呼びかけて、手を取る。

 その瞬間に柔らかく崩れていく表情が好きだった。


「なんだい?」


 少し掠れた声が答えた。

 吐息が漏れた。


「……いや、なんでもないよ、父さん」


 その声は、震えていなかっただろうか。



 父の容態は、比較的安定してきた。

 このまま静養していれば、危険はほぼないと言う。

 その知らせを受け取り、私たちは帰ることになった。

 仕事を休んでこちらに来ているのだ。

 娘にも学校がある。

 元々、あまり長い滞在は予定していなかった。


「ねえ、あれから、あの人の絵を見たことがある?」


 日は陰り、少しずつ夕闇が迫る頃。

 荷物をまとめ、玄関で靴を履き、すぐにでも出発できるというところで、不意に母が言った。


「……ない、な」


 実家を飛び出してから、私は逃げるように絵から離れていた。

 だから、当時以降に発表された父の作品はおろか、他の画家の作品も全く知らない。


「そうだと思ったわ。……ねえ、最後に見ていかない? 売らないでいる絵がいくつかあるのよ」

「いや、私は……」

「こっちよ」


 母にしては珍しく、私の返事を聞く前に身を翻し、心持ち早足で家の奥へと足を進める。

 まさかそのまま帰るわけにもいかない。

 母の背中を追いながら、思った。



 辿りついた部屋は、当然のことながら、父の部屋だった。

 懐かしい大きな窓と、その前に鎮座するカンバス。

 誰も座っていない椅子は空虚で、部屋に満ちるもの寂しい空気を助長する。


 心の欠片がこぼれて、落ちた。


「さあ」


 背後で金属が触れる音がした。

 母が部屋の一画を仕切っていたカーテンを開けたのだろう。

 母の声に促されて、ゆっくりと振り返る。








「なんで、」


 こんな、色のない世界。


「……そうよ」


 そして、母は語った。




 その症状は、私が家を出た年から進行していたらしい。

 色が見えない。

 モノクロの世界。

 そんな中で、父は一人、溺れていた。


 全色盲ぜんしきもう


 というらしい。


 色が識別できず、全てがモノクロに見える病。

 母は網膜にある何かがどうの、などと言っていた気がしたが、私はほとんど聞いていなかった。

 頭の中をすり抜けていってしまう。

 その代わりに埋め尽くされる衝撃。

 私の目は、額に飾られた父の絵に釘付けだった。



 父の絵が、あんなに鮮やかだった絵が、白と黒だけの世界に変わっていた。



「最初はね、あの人も頑張ったのよ。分からないなりに色を見分けて、カンバスに塗りつけたりしていたの。でもね……」


 母の声は震えていた。


「でもね、だめだったわ」


 壁にかけられた、墨色の絵を見つめながら、母の言葉を聞いていた。

 カンバスでは都合が悪かったのだろう、書道に使う半紙のような薄い紙に描かれているのは、たった一輪の花。

 その隣には、渓谷。

 またその隣には海辺。

 いつか見た景色だった。


「めちゃくちゃなの。全部。色を見分けるなんて無理なのよ。だって、なにも見えないのよ? なのにあの人ったら、絶対諦めないの。二年も頑張ったのよ。色が分からない中で、『私は美しいものを描きたいんだ』って……そう言って……」


 母は泣いていた。

 頬を伝う涙を拭うこともせず、一つの引き戸を開けて、一枚のカンバスを取り出す。

 その色は、美しかった。


 淡い緑の空。

 筆に混ぜた気泡が所々に不規則な濃淡を示し、海が落ちてくる。

 強烈な赤の森。

 それ自体が燃えいるのではないかと勘違いしてしまいそうなほど、木々が萌え上がる。

 草原は紫。

 繊細な筆遣いで描かれた線が、穏やかな風を受けて揺れている。

 それはまるで、色の爆発。


 私の知っている父は、写実的な絵を好んで描いていた。

 時を止め、美しい風景をそのまま――いや、より鮮やかに、より美しく描きだすのが得意だった。

 そこから考えれば、こんな絵は生まれようがない。

 父の信念に反することだから。

 しかし、だからこそ、私はやっと信じられた。


「あの人は描きたいのよ……描きたいのに……なんて……なんて神様はひどいことを……」


 母は泣く。

 その手はカンバスを撫で、頬には雫。


「……描こうよ」


 気付いた時には、口からこぼれていた。


「描けるよ」


 カンバスを握りしめている母の右手に触れ、離すまいと固く強ばる指を解いていく。

 そうして手に取った絵は、やはり、美しかった。


 父が海に溺れるなら、私は船を出そう。

 そう決めた。




 大きな窓から、橙色の光が差し込む。

 カンバスも、パレットも、無造作に置かれた絵の具も。

 壁も、天井も、ベッドも、すべて同じ色に染まる。


「父さん、この草の陰影って――」

「水を少なくして、絵の具の粘度を高くして――ああ、それでいい。暗い色から塗りなさい。素早く筆を動かして、風を作るんだ」




 巻き上がる風。揺れる木々。

 葉ずれの音を鳴らしながら誘うのは、小さな白い花だった。

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