さようなら、あなたへ

紫乃

本編

第1話 始まりの終わり


「……旦那様、わたくし、お花が欲しいですわ。黄色い、可愛らしいお花が」



 今思えば、あの日のこの言葉が、彼女の初めてのわがままだった。

 私がその言葉になんと答えたのか。

 私は覚えていない。





 この家に嫁いで二年になる私の妻は、広い野原に咲く、小さな一輪の花のような人だった。

 いつでも穏やかに微笑み、そっと私の隣に立つ。

 そんな控えめな女性だった。


 別段珍しくもないブラウンの髪は丁寧に手入れされ、いつでも艶やかな光を反射し、柔らかなカーブを描く。

 おっとりとした性格を表すような下がり気味の目は、くすんだ緑の瞳と合わさると、特に優しく見えた。

 どんな時も緩やかな笑みが掃はかれた唇は薄紅で彩られ、その口から溢れる声は、小さな鈴を静かに震わせる音に似ていた。


 そんな我が妻への私の総評は、この二年間、ずっと変わらなかった。


 地味で、つまらない女。


 それだけだった。


 こちらは子爵家、あちらは侯爵家。

 なんのこともない、ただの政略結婚だった。

 「これがお前の婚約者だ」といきなり見合いをさせられて、トントン拍子に進んだ縁談の、延長線。


 それだけだった。





 頭を抱えた。

 そして心に浮かんだ言葉は、全て彼女への罵倒だった。


 なぜ。どうして。どうしてお前はこんなことをしたんだ。

 私が憎いのか。報復なのか。

 ああそうだろうよ、これ以上ない報復だよ。

 これで我が子爵家の評判は地に落ちるだろうさ。

 お前がそんな人間だとは露とも思わなかったのに。

 君は、自分はただ従順な女ではないのだと、そう言いたいのだろう?

 なあ、クラウディア!






 妻の名前は、クラウディア・コールと言う。

 旧姓はアウラ。アウラ侯爵家の次女だ。

 代々国王陛下に仕え、その地位は磐石なもの。

 そんなアウラ侯爵家は子沢山で知られ、クラウディアの上には二人、下には三人の兄妹がいる。

 仲のいい兄妹だということは、この三年でよく知っている。

 人伝に、何度も文通を交わしていると聞いていた。


 私の名前はジョセフ・フォン・コール。コール子爵家の現当主だ。

 下に一人だけ弟がいる。順当な相続。周りからも望まれて当主になった。

 私自身、そう頭が悪いわけでもない。むしろ良い方だ。

 もちろん剣の腕だってそれなりに立つ。

 近々国王陛下に近い臣下として引き立てられるのでは、と噂される程度には優秀なのだ。


 そんな私たちが結婚したのは、何度も言ったように、三年前のこと。

 私たちの夫婦関係は、当初から冷めきっていた。

 熱の入る余地がなかった、という言い方の方が正しいかもしれない。


 私には恋人がいる。

 今は愛人のような立場になってしまっていて、彼女――メリッサには本当に申し訳ない。

 しかし、私は彼女を愛していた。手放せるはずもなかった。


 メリッサ・ウェインは、近年加速した男女参画化活動の第一歩として王宮に登用された、初の女性官吏だ。

 身分は男爵家と少し心もとないが、頭脳と見目の麗しさで全てカバーできる。

 身分を除けば、欠点など探すことすら諦めるほど、完璧な淑女だ。

 さらに、女性ながら幅広い知識を備えており、事実、執務室内の仕事効率も格段に上がった。

 武骨な男衆では気付けない細やかな気配りがそれを増長させている。


 そんな彼女は独身であり、婚約者もいなかった。

 その先の話は予想がつくだろう。求婚者が続出したのだ。

 彼女は求婚される度に困ったような笑みを浮かべ、断りの言葉を返していた。

 「心に決めた人がいるから」と。

 しかし、彼女の周りにはそれを伺わせるような男の影はなかった。

 彼女にとって全ての男は仕事仲間であり、戦友なのだ。

 彼女を狙う、色を含んだ目をするりとかわして仕事に向かう彼女の背中は、どんな時も凛としていた。


 私は、その姿に、惚れた。





 ベッドにぐったりと横たわる彼女の顔は、青を通り越して、白い。

 固く閉じられた瞼は開く素振りすら見せず、色を失った唇は薄く開いたまま動かない。

 力の抜けた体はされるがままに動かされ、息をしているのかすら分からない。


 クラウディアは全身に切り傷を負った状態で、風呂場の湯船の中にいたらしい。

 血が溶け出した水は全て赤く染まり、その代わりとでもいうように、クラウディアの顔からは色が一切抜け落ちていたという。

 メイドの甲高い悲鳴が屋敷中に響き渡って少し。

 医者はまだ来ない。


 服の裾からちらりちらりと見える赤い筋が痛々しい。

 未だ濡れたままの髪から雫が落ちる。 赤い液体が彼女の白い肌を伝い、線を描く。

 伝った先にある白いシーツは、この少しの時間で真っ赤に変わっていた。


 止血を始めて早数分、出血がやっと止まってきた。

 しかし、この部屋と廊下に散らばる赤を思い出せば、その少しの血すらも惜しいことが嫌でも分かる。

 私はその光景を半ば呆然としながら、ただ眺めていた。


 なぜ。


 その一言が頭の中を支配する。


 なぜ。





「ジョセフ様……」


 青い瞳に心配の色を濃く表し、私を見上げるメリッサ。

 リビングにある1人掛けのソファに座り込み、頭を抱えるようにして項垂れていた私は、彼女の声を契機に、ゆっくりと頭を上げた。

 メリッサの柳眉がきゅっと寄る。


「ジョセフ様、わたくし、」


「旦那様!!」


 クラウディア付きのメイドが、血相を変えて走ってくる。

 メリッサの言葉を遮ったことも、バタンと大きな音をたててドアを開けたことも、そもそも走ることすら、彼女にしては珍しい動作だ。

 半分泣きそうになりながら駆け寄るメイドのその手には、淡い黄色の封筒が、後生大事に握られていた。


「奥様の部屋の机に、これが」

「クラウディアの?」


 手を伸ばしてから気付いた。指が、腕が、震えている。

 そのまま封筒を受け取り、手をかける。

 もつれる指を叱責しながら開けた封筒は、所々破けてボロボロになっていた。


 なにが書いてある。一体、なにが。





「もう、愛せない」


 すまない、と続けた私の言葉に、メリッサはなにも言わずに頷いた。


「わたくしも、もう、愛せませんわ」





 想いは、黒く塗りつぶされた。


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