吾輩はネコ……『なの』である。

中沢安行

吾輩はネコ……『なの』である。

そこにネコはいた。

1‐1

 秋はまだ少し先のようだ。

 高校の退屈な授業から開放された帰り道、楠本直樹は蒸し暑い空気をかき分けるように自転車をこいでいた。いくらこいでもまとわり付く暑い空気にうんざりしつつ河川敷の道を急ぐ。川を上ってくる冷たい風が時折直樹の顔を撫でるがそれも一瞬だ。

 大きな堤防の内側には災害時の輸送路となる幅の広い舗装路があり、海へと向かって真っ直ぐ続いている。陽炎のゆらぐ舗装路と並ぶように葦原が脇に続く。ずっと変わらない景色は学校の授業と同じように退屈だった。いくらペダルをこいでも遠くに見える橋が近付く気配は無く、ため息が漏れる。

 しかしその退屈な景色の中、視界の隅にある物を見つけて直樹は自転車をとめた。

 ひたすら続く道の脇、葦原との境界辺りで仔猫がジッとしているのが見えた。こげ茶色の縞模様をしたキジトラの仔猫で、自転車の音に気付いた仔猫が直樹の方をジッと見つめている。家で猫を飼っている猫好きの直樹が野良猫の前をただ通り過ぎるわけがない。自転車を降りた直樹はゆっくりと仔猫に近付くと、そっと仔猫の前にしゃがみこんだ。

 仔猫は見知らぬ人間の登場に警戒したのか、目を大きく見開いて直樹の方をひたすら見つめていた。すぐに逃げられるようにと、緊張した猫の前足が少しだけ伸びる。直樹は仔猫を驚かせないように左手の指二本を突き出すと、そっと仔猫の顔に近づけた。

「ほら、大丈夫だよ」

 仔猫は差し出された指の匂いを恐る恐る嗅ぐと直樹に対する警戒を少しは解いたのか、その指に頬を擦り付けてくる。直樹は手のひら全体を出し、仔猫の喉元を触ってみようとますます手を伸ばした。しかし仔猫は直樹の手をすり抜けると、河川敷の草むらの中へと入ってしまった。

「おーい、逃げなくてもいいだろ、ちょっと遊んでくれよ」

 直樹は家で猫を飼っているせいか、猫を前にすると無意識に言葉が口をついて出てしまう。草むらに消えた猫に向かって声をかけていた自分に気付き思わず辺りを見回した。一人猫に声をかける姿を誰かに見られでもしたらたまらない。車の入ってこられない河川敷の舗装路は生徒たちの恰好の帰り道となっており、どこに同じ学校の生徒がいても不思議ではない。しかし幸いにも辺りに人の姿は無い。猫の揺らす草の音がかすかに聞こえるだけだ。それにホッとし、直樹は草むらの奥へと進む仔猫の後を追いかけ始めた。

 小さな仔猫が揺らす草と動きと音に注意しながら人間の背丈ほどもある葦原の中を歩く。草をかきわけながら進むとその音に驚いたバッタや虫が直樹の前を飛び回る。その鬱陶しさに顔をしかめるが、今更追いかけるのをやめるのも悔しく、直樹はひたすら仔猫の後を追った。

 歩き始めてどれくらい経ったろうか、草むらをかき分ける直樹の視界が突然広がった。

 葦原が途切れたかと思うと目の前にレンガの敷かれた小さな広場が現れた。周囲を葦原に取り囲まれた直径五メートルほどの丸い空間で、レンガ敷きの地面の中央にはベンチがぽつんと置かれており、この場所だけは公園の一角のような整備がされていた。本来は散策のできる公園だったのかもしれないが、成長した葦原に取り囲まれ、いつしか誰も立ち寄ることのない忘れられた場所に変わってしまったようだ。

「なるほど、ここがお前のお気に入りの場所なわけね……」

 直樹が追いかけた子猫は慣れた様子でベンチに飛び乗ると、その上で何度も体を転がせた。背の高い葦が周りを取り囲み、河川敷の道路からはただの葦原にしか見えないこの隔絶された空間は格好の住まいのようで、自分の家だと言わんばかりに仔猫はリラックスしている。

 直樹は驚かせないようゆっくり近付くと、仔猫が寝転ぶベンチの隅にそっと腰を下ろした。仔猫が逃げる様子はなく、ひっくり返った体のまま直樹のジッと見つめている。

 直樹がゆっくりと手を近づけてみる。すると直樹の腕に仔猫がしがみ付いた。前足で直樹の手首を抱え込むと手のひらに歯を立てる。しかし猫を飼っている直樹はこういったじゃれつきには慣れたもので、手を引っ込めることもせず仔猫のしたいがままに任せた。仔猫も本気で噛み付くことはせず、軽く歯を立てながら、しがみ付いた直樹の腕を後ろ足で蹴飛ばす。そんな仔猫のじゃれつきが直樹は嬉しくて仕方なかった。

「あはは、元気だなぁお前」

 腕に絡みつく猫にますます腕を任せ、猫が腕を蹴飛ばす感触を楽しんだ。

 しかしそんな楽しいひと時を邪魔するように直樹の携帯が鳴った。直樹のポケットから突然鳴った電子音に仔猫の動きが一瞬止まる。

「大丈夫、携帯だよ携帯」

 目を丸くして腕にギュッとしがみつく仔猫をそっと引き離すと、ポケットの中の携帯電話を取り出してみせた。着信ランプの点滅するスマートフォンを仔猫が不思議そうに見つめている。

 とりあえず直樹が携帯の画面を覗き込むと、そこには母からのメールが届いていた。

「猫缶買ってくるの忘れちゃったから帰りに何個か買ってきて」

 母親からの簡素なメッセージ。母親からのメールは大抵こういった『おつかい』だ。またかといった表情で直樹はメールを削除した。

 すると携帯をいじる直樹の膝に仔猫がよじ登ってきた。仔猫は携帯が気になるのか、膝の上から直樹の持つ携帯の画面をジッと覗き込んでいる。

「ん?携帯見たいのか?」

 その様子に気付いた直樹は携帯の画面を仔猫に近付けてみた。仔猫がジッと見つめる携帯のホーム画面にはクラスメイトの柏木千夏が映っている。

「お、もしかしてお前、この子が気になるんじゃ……」

 猫が覗き込む携帯を一緒に覗き込むと、画面を見つめる直樹の表情が途端に緩んだ。

「この子はな、俺のクラスメイトの柏木千夏。可愛いだろ? クラスで一番……いや学校で一番可愛い子なんだぞ」

 そう言った直樹の表情がますますだらしなくなる。

 柏木千夏は四月のクラス替えで一緒になった直樹のクラスメイトだ。跳ねた髪のショートカットの少女で、その元気な髪型同様に性格は快活そのもの。いつだって明るく、暗い表情を見たことがない。その明るさは一緒にいる友達たちも明るくし、教室に来ればいつだって友達と楽しそうに話す千夏の姿を見ることができる。

 千夏と同じクラスになってからというもの、直樹の頭の中は彼女のことでいっぱいだった。千夏の眩しい笑顔を見る度にその胸が締め付けられる。携帯でこっそり撮った写真をホーム画面にし、それを眺めては幸せな気分に浸るのがここ最近の直樹の日常だった。

「ああ、何度見ても可愛いわぁ……」

 直樹は省電力モードで携帯の画面が暗くなる度に画面をタッチして画面を明るくする。画面の中の柏木千夏を見ているだけで直樹の表情はニヤニヤと締まりがなくなってしまう。

「ほら、お前ももっと見ていいぞ。こっそり撮った秘蔵の一枚なんだからな」

 そう言って直樹は仔猫に携帯を近付けた。しかしこっそり撮りすぎたその一枚に映る柏木千夏はあまりに小さく、表情もよくわからない。誰にも気付かれないよう教室の隅から撮ったため、じっくり眺めないと誰が映っているのすらハッキリしない。

「はー、やっぱりこの写真じゃ小さいよなぁ……もっとアップでちゃんとした写真が撮れたらなぁ……」

 廊下側から窓際の千夏を撮ったため、小さくしか写っていないその姿は直樹と千夏の距離をそのまま表していた。クラスメイトとは言っても直樹と千夏は仲が良いわけではなく、せいぜい顔を合わせれば挨拶をする程度の関係で、しっかりと話したことすら一度もない。

隠し撮りした千夏の写真を見る度に直樹の顔がニヤニヤした笑みと落胆の表情を行ったり来たりする。幸せと共に埋まらない距離感を思い知る。

 しかし仔猫には直樹の思いなど関係なく、すっかり携帯にも飽きて直樹の膝からベンチへと降りてしまった。仔猫はベンチの上に寝転ぶと全身を使って伸びをする。

「なんだよ、もう飽きちゃったのかよ……」

 背中を見せて知らん振りする仔猫の背中を直樹が撫でた。

「……そうだ、お前まだここにいるか? ちょっと待っててくれたら良いモノをやるぞ」

 そう言って携帯をポケットに押し込むと直樹は立ち上がり、ベンチをぐるりと取り囲んだ葦原の中へと入っていった。

 仔猫はといえば、誰もいなくなった空間で、直樹のかき分ける草の音が遠くなっていくのを聞きながらその目を細くし、眠りの中へ落ちていった。

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