鳥羽湾めぐり

八月もも

鳥羽湾めぐり

 船、と聞けば必ず思い出す光景がある。


 高校の部活の卒業旅行。男女入り交じり十数名の大所帯だ。一泊二日で、三重県の伊勢・鳥羽に来ていた。一日目は志摩スペイン村で遊んで泊まり、早起きして伊勢神宮の朝参り。おかげ横丁で食べ歩きをした後は、鳥羽水族館に行く予定だった。その道中に、鳥羽湾めぐりの文字を発見する。利用していた観光パスポート「まわりゃんせ」で利用できるサービスの中にそれが入っていることを知り、私たちは歓喜した。およそ一時間弱のクルーズということもあり、私たちは次の便を待って乗り込んだ。ほとんど貸し切りの状態だったと思う。


 龍宮城をイメージしたというその船は、外から見てもとても豪華だったが、内観も派手だった。どこか中華風の装飾で、ところどころに浦島太郎の物語に出てくるキャラクターや海の生き物のオブジェが飾られている。一通り船内の雰囲気を楽しんだ私たちは、そろって一番上のオープンデッキに出た。

 三月末の晴天で気候は最高だった。時間は確か昼過ぎで、やや肌寒い空気に柔らかい日差しが降り注いでいた。ある程度の揺れと共に、船はゆったりと進む。仲間たちが思い思いの場所で潮風を感じたり波しぶきに声をあげる中、船酔いしやすい私は、デッキの中央にあるオブジェの足元に座れるところがあったので、ひとりで腰を下ろしていた。


 しばらくして、隣に一人の男子が座った。「向こう行かないの?」「私、酔いやすいから」「俺も」。そんな言葉を交わしたかもしれない。少しの間黙ったまま、隣同士で座っていた。エンジン音が唸っているので気まずい沈黙にはならない。ただ、時間が経つに連れ、私の中でこみ上げてくる思いがあった。

 実は、一年半ほど前、私は彼のことが好きだったのだ。彼とは部活仲間の中でも仲が良い方だったが、告白はしなかった。なぜなら自分の思いに気づいたのが、彼に彼女ができたその時だったから。同じクラスの女の子と付き合い始めたことは他の部員の口からすぐに漏れ、みんなで茶化しながら「おめでとう」と言った。照れたように笑う彼を見ても心の底から喜べてはいない自分に気づき、廊下で二人が一緒にいる姿を見かけて胸を痛める中で、じわじわと理解していった。ああ、私、この人のこと好きだったんだ。気づいた瞬間終わりにしなければいけない恋だった。相手の女の子は違う部活だがよく知っている子だったし、駆け引きだとか、略奪だとか、必死な姿は自分に似合わないと思っていた。部活の仲間はもちろん、クラスの友達にも、誰にも言えないまま、押し殺し続けることで気持ちは薄らいでいった。


 そんな当時の思いが蘇りはしたものの、それは既に、過去のものだった。高校生にとっての一年半は長い。三年生では別のクラスだったし、ついこの間までは受験勉強のことしか考えていなかったのだ。隣に座っている彼は「昔好きだった部活仲間」でしかなかった。それでもきっと、その時私の左半身は緊張していたと思う。うつむく彼の顔に向ける視線に気づかれないかと、どきどきしてしまっていたと思う。


「……なんか、顔色悪くない?」

 彼が隣であまりにも微動だにしないため、顔を覗き込んで尋ねる。顔の色がどうというより、表情が死んでいた。快適な気候や遠くから聞こえる賑やかな声と比べると心配になってしまうほどに。

「いや、大丈夫。ただちょっとほんとに酔いやすいだけ」

「私は思ったより大丈夫だった。飴持ってるけどいる?」

 うなずいたので、桃色の飴を差し出した。黙って口に運ぶ様子を見守り、自分も一粒舐める。そんなに大丈夫じゃない気もしたけれど、本人が何も言わないので深追いはしなかった。

「ねえ、あっち、カモメいるって!」

 やがて一人の女の子が声をかけてきた。どうやら誰かが舳先に近い方で、持っていた食べ物を海鳥にやっているらしかった。オブジェや柵に阻まれて直接は見えないが、少し離れた場所で白い鳥が何羽も飛び回っている様子がわかった。ほとんどの仲間たちがそちらへ集まっているらしい。

「行く?」

「……俺はいいや」

 返事を聞いて、私は浮かせかけていた腰を下ろした。デッキで座るところってここぐらいしかないし、空けたら誰かが座っちゃうかも。カモメは見たいし、みんなの様子は気になるけど。


 この場所取られたらいやだなあ。


 あの頃はなかなか認められなかった自分の気持ちを、今度は自然に受け入れることができた気がした。隣にいるのは、昔好きだった人だ。でも、今はここに座っていたい。エンジン音の中にカモメの鳴き声が交じって聞こえていた。潮風は容赦なくぶつかってきて時々身震いがするけれど、もうすぐ春になる陽光の優しさは、幸せそのもののようだった。たぶん結構気分が悪い人の隣で、こんなこと思っててごめんね。でもそこにいて欲しいから、中で休んできたら? なんて気の利いたことは言えなかった。言わなかった。幼いなあと今なら思うけれど、今の自分のままあの時に戻ったとしても、やっぱり言わないんじゃないかなあとも思う。



 船、と聞けば必ず思い出す。最高の気候と幸福感。遠くで舞うカモメたち。甘酸っぱかった桃色の一粒。

 きっと一生忘れない、鳥羽湾の光景。

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