She is on the rooftop
offter
第1話 黒、ストレート
僕は重い足取りで屋上への階段を上る。
薄暗く、色のない空間をため息をついて登って行く。生暖かい空気のせいで汗が首筋を伝う。下の方から明るい声たちがかすかに響いてくる。
まるで一人別の次元に迷い込んでしまったかのように思えた。近くにいるのに外から僕の姿は見えない。もう二度と戻れない。
夏なのに寒気がした。
階段を上り切って、いくらか冷たいドアノブを軽く握る。
いっぱいに広がる空色の光が僕を迎えた。目がピリピリと刺激され、頭は色の感覚を思い出したようだ。腕を思いきり伸ばして深呼吸。しぼんだ肺が本来の大きさまで膨らむ。
つむった目を開くと遠くに人の姿があった。めずらしい来客だ。もちろん人がいる時もあるけれど、この時間は僕一人だけの事の方が多い。止まっていた呼吸を再開する。足はその人へ向かって動き始めた。
僕と彼女の距離はおよそ十五メートル。近くも遠くもないあいまいな距離。フェンスに組んだ腕を掛けて遠くを見つめる彼女は、何事にも無関心なように見えた。僕に気付いているかどうかもわからなかった。黒く長い髪。視線を逸らせない。足を動かせない。少しでも動けば、彼女に気付かれて空気が凍り付いてしまうような気がした。
長い風がフウッと吹いた。彼女の髪が重みをもって揺れる。それは水気があるように黒く光っていた。クリーム色の滑らかな形をした耳がのぞいた。しばらく、揺れる黒髪と日に照らされる白い制服を眺めていると彼女からは色というものがそぎ落とされているような気がした。モノクロ独特の清楚感。彼女の体の中に内臓なんてなくって、血は薄い赤。さらさらと流れている。気が付くと彼女は僕を見ていた。豆腐に包丁を入れるといったような視線だった。今日は風がよく吹く日だ。前髪の隙間からまっすぐの眉が一部除いている。厳しい表情ではあるが、白い肌と細くも柔らかい顔の輪郭がそれを感じさせなかった。
「何?」
重心を右足に移して彼女は言った。上履きのゴムの色が青だったので同級生だと分かった。返す言葉は見つからない。僕は空を見上げた。そして右腕で上を指した。
「空、いい空だね?」
そういった後に頬を少しつり上げた。彼女は空を確認して、うなずいた。それで?と言うような表情だ。
「よ、よく来るの? 屋上」
人工的なチャイムの音が鳴った。横目で僕を見て彼女は歩き去っていった。ドアのきしむ音の後、僕は一人になった。やわらかい陶器のような肌と、黒く艶のある髪が残像となって脳裏を波打つ。残像が消えると、僕も屋上を後にした。
終業チャイムが鳴る。教室が騒がしくなる。僕は黒板消しを数式にこすりつける。チョークは黒板にこすりつけられ、黒板消しに拭き取られ、クリーナーに吸い取られてゆく。学校はチョークを粉にする場所でもある。そんなことを考えながら、最後の仕上げに入る。上から下まで黒板消しをまっすぐ地面と平行に摩擦させる。この仕事において僕は一定の評価を受けている。
「じゃあね」
「またあしたね」
「お前たまには部活来いよ」
「駅前いこっ」
「ああ、これわかんねぇ」
様々な声が飛び交う。教室から廊下へと話し声が移っていき、シャープペンシルのカツカツという音と数人の話し声だけになる。僕はこういう時間の流れが好きだ。黄色い鮮やかな世界から薄いコーヒー色になり、時間が徐々にゆっくりになって行く。
僕は部活に入っていない。放課後は自由の身だ。
「じゃあな、黒川」
「じゃあね」
僕は手を振り返した。教室を出て、廊下の流しで白っぽくなった手を洗い、ついでに顔も洗った。下駄箱のカタカタと揺れる
きしむドアをゆっくりと開ける。今朝と同じところに彼女がいた。イヤホンを耳に着けて遠くを見つめていた。ゆっくりと歩いていき、間隔をあけてフェンスに腕を掛けた。気付いたようで彼女はイヤホンを外すと、こちらを見て会釈した。
「じゃまかな?」
「別に」
冷たい顔をして彼女は言った。しばらく二人は西日の中、風に吹かれていた。ポケットの中に飴玉が入っていたことを思い出した。
「飴あげる」
二つ取り出して、
「どっちがいい?」
彼女は僕の目をちらっと見て、指先でそっとオレンジの小さな包みを掴むと視線をそらして「ありがとう」といった。冷めたトーンではあったが彼女の表情は少し柔らかくなったように見えた。
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