魔法薬売りの優秀な奴隷

西田井よしな

上・奴隷の少女を買い取って

 エルトは、まさか自分がこんなものに手を出すことになるとは考えもしなかった。

 始めはふとこぼした独り言だった。

「……人手が欲しい」

 エルトは個人経営の魔法薬店をやっている薬売りの青年だ。魔法都市テルペイトの名門校で魔法薬を学び、大手の魔法薬店に就職したものの、ある理由から愛想を尽かしてわずか二年で辞職。それから両親の反対を押し切って街の片隅に自身の魔法薬店を開業。それから経営を軌道に乗せるまでは一年とかからなかったものの、ふと落ち着いてみたとき、自分が思ったより疲れていることに気付いた。

 そうして行きつけの喫茶店でコーヒーを飲む昼下がり、初めてエルトは自分の店に人を雇うことを考えたのだった。

 しかし、そこには大きな抵抗があった。

 エルトは人間が嫌いである。なんならこの世そのものが嫌いな厭世主義者である。別名ペシミストと言う。

 第一エルトが人間嫌いでなかったら、この若さにして一人で店を開こうなんて思わなかった。つまり普通に人を雇うのは何か違うのだ。

 せめて雇うならば口出ししない静かで従順で物分かりの良い人間でなければならない。

 この条件こそが、エルトにその行動を起こさせた。

 喫茶店を後にしたエルトは一度銀行に立ち寄ったのち、町の中心部から少し外れた薄暗い街頭に向かった。

 そこは石畳のちょっとした広場になっていて、そこでは熊を入れるのに使う大きな檻が三つほど並んでいた。そして、檻の中にはそれぞれ三四人ほどの人々が薄汚れた衣をまとって入れられていた。

 彼らは奴隷だ。

 ついでに言うと皆ハーフエルフという種族で、エルトなどのヒトとは異なる知的生命体、人間種の一種である。ハーフエルフはヒトと外見上はほぼ同じだが、知能と魔力が高く、代わりに体力は低い。

 なぜ彼らが身売りにかけられているのかはここでは割愛するとして、エルトの目的は彼らを見に来ることだった。

 奴隷として売られているハーフエルフを買い取れば、それが一番自分の理想(静かで従順で物分かりが良い)に適っているとエルトは考えたのだ。

 檻の中に入っているハーフエルフは皆若い男女だ。男性は力仕事に、女性は召使いや娼婦にするために買われることが多い。

 エルトより前から広場に居た高貴な身なりをした中年の男性が、売人に声をかけた。

「おい、その三番の女を買おう」

 すると売人はノートを手に取り契約の手続きを始めた。

「ありがとうございます。こちらのハーフエルフは二百十万エーカになります。お引き取りはどうなさいますか?」

「明日別の者を遣わす。支払いもその時でいいかね?」

「はい、かしこまりました。それでは予約させていただきます」

 まるで犬か浮きソリでも買うかのようなやり取りだ。

 一方買い取られることが決まった女はその瞬間だけ動揺したように見えたが、後はずっとうなだれたまま顔を腕の中にうずめ、声を殺してしくしくと泣いていた。

 エルトはそれを見てやはり来るべきでなかったと思った。

 ばかばかしい。奴隷を雇って都合よく済ませようとした自分が浅ましいと考えながら、エルトは広場を立ち去ろうとした。

 しかし、その時視界の隅に一人の少女の姿が映った。彼女はさっき買われることになった女よりも更に若い。まだ十代半ばと言ったところだろう。

 きっと彼女もいずれ買われていくのだろう。どこかお金持ちの家でボロぞうきんのように扱われ朽ちていくか、娼館で働かされて心を殺し、やがて感染症で死ぬか、あるいはもっと酷い環境に放り込まれることになるかもしれない。

 でも憐れんだところでどうしようもない。そうエルトは思った。が、次の瞬間気付いた。ならば自分が買い取ってしまえばいい、と。

 エルト自身は人身売買なんて非人道的だと嫌っていたし、彼らハーフエルフに対して何らかの嫌悪を持っている訳ではないから、奴隷を雇ったところで普通の人間と同じように働かせる積りでいた。待遇なら他の人間に買われるよりずっと良いはずだ。そして、自分は店に働き手が増える。どこに思い留まる理由があるだろうか。

 ふと、少女と目が合った。エルトは思わず固まってしまった。

 少女はただ道に生える街路樹を見るような感情の無い目でエルトを見ていた。その時彼女が何を思っていたのか、今でも想像がつかない。

 エルトはゆっくり少女に近づいて行った。そして声をかけてみた。

「君、うちの店で働かないか?」

 すると、少女は少し困ったような顔をして答えた。

「奴隷に疑問形で話しかける人は初めて見ましたよ」

 その時、さっきの売人がこちらにやって来た。

「ちょっとお兄さん、商売の邪魔だからあっち行ってくれ。見世物じゃないんだ」

 売人は、エルトが若いのでただ興味本位で近寄って来たのだと勘違いしたらしく不機嫌そうにしていた。

「いえ、買います。この子を」

 それを聞いて売人は笑い出した。

「馬鹿言わないでくれ。これはこの中で一番若く見た目も良い。いくらすると思っている?四百五十万エーカだ」

「そうですか。じゃあ払いましょう」

 そう言ってエルトは鞄の中から札束を取り出して売人に突き出して見せた。それを見た売人は目を大きく見開いて驚愕した。

「な……、あ、そうですか。確認させてもらいましょう」

 そう言って売人は札束を受け取り、枚数を数えた。そして余った札をエルトに返還すると、コホンと咳払いをしてノートに記入を始めた。

「はい。確かに受け取りました。お買い上げありがとうございます」

「どうも。このまま持ち帰っていいですか?」

「え、ああ、どうぞ」

 売人は鍵束を手に取ると檻の鍵を開け、少女を外に連れ出した。

 少女は外に出てエルトと向かい合った。

黒い外套を身にまとい、素朴だが気高さを感じさせるエルトの格好に対して、少女は薄汚れた粗末な格好、手にはかせがはめられ、今売人に首に提げられた番号札を外されたばかり。枷を外す鍵はエルトに手渡された。

相変わらず少女の表情はうかがえない。ただ、少しだけほっとしているようにも見えた。

 帰ったら彼女を風呂に入れて、その後で服を買ってあげなければと、エルトは思った。

 それがエルトと奴隷の少女の出会いだった。

 ここまでが回想。二日前のことである。

 季節は夏の月に移行しつつあり、木々が青く茂る一方で外の熱い日差しをうっとうしく感じ始める今日この頃。テルペイトの片隅の住宅街に紛れるようにして構えているツェール魔法薬店の調合室で、エルトは魔法薬の調合を行っていた。

 その狭い部屋には様々な薬草やら魔石やらが入った瓶が並べられた棚が至る所に置いてあり、中央の机の上には分厚い本が数冊、すり鉢とナイフが一つずつ。窓のある壁際には水瓶とかまどが備えてあり、かまどには鍋が置かれていて、中のドロドロした緑色の液体を煮え立たせていた。

 エルトはその鍋の中身を焦がさないように、火の加減をしながら慎重にかき混ぜていた。鍋からはもうもうと蒸気が立ち昇り、野草特有のつんとした匂いが部屋中に広がっている。

「ああ、暑い。いや熱い。どちらにせよあつい。もうすぐ夏とか嘘だろ。これ以上気温が上がったら死んでしまう」

 エルトはそうぶつぶつと独り言を言いながら黙々と魔法薬を作っていた。

「主様。お茶をお持ちしました」

 突然左から女性の声がする。ふと見てみるといつの間にかフィアルという例の奴隷の少女が冷茶の注がれたコップが入ったおぼんをもって立っていた。

 フィアルはあれからすぐに身なりを整えられ、一般的なメイド服(勘違いしている読者のために一応補足しておくと、この時代の一般的なメイド服は茶色を基調とするロングスカートとエプロンの至って地味で簡素な格好である)を身にまとい、肩にかかる透き通った銀髪(銀や薄黄緑といった淡い髪色はハーフエルフの特徴の一つである)も梳かして後ろで縛ってある。

「ああ、ありがとう。それにしても君は気配を感じさせないな」

 エルトはコップを受け取りつつ、独り言を聞かれていたことを恥じらった。自分の店を開いてから約二年間ずっと一人暮らしだったのでつい癖が出てしまった。

「静かにしているよう言われましたので。ノックはしたつもりだったのですが」

 フィアルは特に表情を変えることもなく淡々と返事をした。

「そうだったか、すまない。気を付けるよ」

「いえ、お気になさらず。では私はお店の掃除に戻ります」

 そう言ってフィアルは軽くエルトに会釈をすると部屋を出て行った。

 フィアルを買い取ってから三日目。その様子は一貫して冷静沈着そのものだ。

 無口で表情が読めない割には、言ったことには素直に応じ、ところどころで気が利く。決して不愛想という訳ではなく、かと言って楽しそうには見えない。

 働きぶりも見事なもので、フィアルには店とその二階にある住居空間の掃除、それから炊事洗濯といった家事全般を任せているのだが、どれもそつなくこなしてみせ、料理も至って美味しい。ハーフエルフはヒトと異なる文化を持っているために苦労すると思っていたが、そんな心配も要らなかった。洗濯樽せんたくだるなどの魔導家具まどうかぐの使い方も一度説明しただけで覚えてしまった。

 まるでずっと前からここで一緒に働いているかのようだ。賢くて順応性の高いハーフエルフで助かった。

 エルトが鍋の中の液体を瓶に詰め、それが冷めたころ、部屋に鈴の音が響いた。来客を知らせるチャイムだ。

 エルトは薬瓶を手に取り調合室を出て店内に向かった。店内は調合室よりも更に狭い空間で、カウンターの下のショーケースに需要の高い一般的な魔法薬が並べられているだけだ。

 店内には一人の老婆が立っていた。この店の常連の人である。

「いらっしゃいませ」

 エルトが声をかけると老婆はにっこりと微笑んだ。

「おはよう。今日は暑いねえ」

 エルトは持って来た薬瓶をカウンターに置いた。

「こちら、いつもの腰痛の薬です。一カ月分ありますので痛む所に塗ってお使い下さい」

「いつもありがとうね」

 老婆はそう言って薬瓶を受け取ると手提げ鞄から財布を取り出した。

「ええと、三千二百エーカでよかったかい?」

「はい、丁度お預かりします」

 エルトが老婆から代金を預かった時、奥の廊下からフィアルが顔を出した。

「主様、昼食の準備が出来まし……」

 フィアルは老婆を見て固まってしまった。フィアルには接客をさせていない。だからエルト以外の人と出会って驚いてしまったようだ。

 フィアルは老婆に会釈すると、逃げるようにその場を去ろうとした。だが、老婆がフィアルを呼び止めた。

「お嬢ちゃん、もしかしてツェール君に買われたっていうハーフエルフの子かい?」

 そう言われてどう返事したらいいか迷ったフィアルはエルトに目配せした。そこでエルトが代わりに答えた。

「そうですが、もしかして結構うわさになっていますか?」

 エルトは少し気まずそうに問いかけた。自分が奴隷を買ったなどと、あまりよそに知られるのは良い気はしない。

「テルペイトで一番高い奴隷を買い取った青年ってうわさなら町中に広まっているよ。まさかツェール君だとは思ってなかったけどねえ」

「ああ、そうでしたか」

「でもねえ、私はわざわざばらしたりはしないけど、ここら辺に知れ渡るのは時間の問題だと思うよ。変なうわさが立つ前に精霊院に連れて行った方がいいと思うけどねえ」

 精霊院とは、精霊教と呼ばれるエルトやこの辺の居住区の住人が信仰している、この地方では古くから伝わる精霊信仰、その教団の建物である。老婆は、エルトにフィアルをそこへ一緒に礼拝などに連れて行ってあげた方が良いと言っているのだ。

 ハーフエルフがこの街で奴隷として売られている原因の一つとして、この国で現在最も勢力を持つ一神教「エーデム教」の存在がある。

 エーデム教に関わる神話において、ハーフエルフはヒトでもエルフでもない間(あわい)の存在で、神が唯一創造しなかった種族として語られ、「寄る辺なき民」と呼んでいる。そのためエーデム教信者の中にはハーフエルフを差別視する者が少なからずいて、それが今この国の軍が行っているハーフエルフへの弾圧に繋がっているのだ。元々は隣国との戦争が原因で、この理由は後付けの口実のようなものだが。

 しかしエルトが信仰する精霊教ではそのような認識は無く、むしろ自然界と人間界の仲介者として尊重されている。フィアルを一緒に礼拝に連れて行って、一人のハーフエルフとして対等に扱っていることを示せば変な誤解を招くことは少なくなるだろう。

「そうですね。彼女と相談してから考えたいと思います」

「うん、そうしておやり。ツェール君も店が忙しいのは分かるけれどたまには精霊院に顔を出してあげないと。ネリエスちゃんが心配しているよ」

 ネリエスの名前を聞いて、エルトは少し苦い顔をしたが、老婆は何も言わずに帰って行った。

「主様、昼食が」

 フィアルが控えめに話しかけてきた。

「あ、うん。ありがとう。休憩しようか」

 そう言ってエルトはフィアルと一緒に台所に向かった。


 食卓にはサンドイッチと玉ねぎのスープが並んでいた。

 エルトは席に着くとフィアルに話かけた。

「君はどう思っている?」

「どう、とは。精霊院のことでしょうか?私は主様さえ良ければどちらでも構いません」

 フィアルは冷静に答えた。エルトはサンドイッチをかじりながら少しの間考えて、口を開いた。

「僕は君を奴隷として買い取った。だが君には出来るだけ自由に暮らしてほしいと思っている。だから精霊院の人たちくらいには君を紹介しておくべきだと思うが、あまり注目を集めたくはない。だから一度平日の人の少ない時に行くのが適当だと思う」

 それを聞いてフィアルは静かにうなずいた。

「ええ。私も賛成です。ただ、一つ聞いてもよろしいでしょうか?」

「何だ?」

 フィアルは少し質問をためらうような素振りをしたが、やがてまっすぐにエルトの目を見て言った。

「なぜ奴隷の私にここまで自由を許して下さるのですか?この店の働き手や召使いが欲しいだけなら普通に人を雇えばいいと思うのですが」

 フィアルの質問はもっともだった。大金をはたいてまで奴隷を買わずとも、人を雇った方が経済的だし、エルトはそれに加えて物置にしていた屋根裏部屋を無理やり整理してまでフィアルに寝床を与え、食べ物も衣服も十分に与えている。何かを強制することもしない。その扱いはとても奴隷に対するそれではない。

「それに答えるのは少し難しいな。僕はヒトを雇いたくなかったんだ。自分の好きなようにやりたかったからね。だから君はハーフエルフであって、あくまで奴隷なんだ。そして君はこの三日間十分よくやってくれている。だからそれに見合う自由を報酬として与えていると思ってくれればいいよ」

 そう言うと、フィアルは少し困った顔をした。広場で始めて出会った時と同じ、戸惑うようで少し呆れた表情だ。

「主様はわがままなお方なのですね」

「はは。それは否定できないな。でも不満があるなら遠慮せずに言ってほしい。あまり溜め込まれて寝首を掻かれるのは嫌だからね。君は魔法が使えるみたいだし」

「あ、気付いていましたか?」

「僕も調合以外にも多少は魔法が使えるからね」

 フィアルは少し考えると、「では」と前置きをして口を開いた。

「寝室をもう少し整頓して下さい。掃除の妨げになりますから。本はちゃんと本棚にしまって、服も床に放らないで下さい。あともう少し早く寝て下さい。日付が変わってもしばらく本を読んでいらっしゃるようですが、夜更かしは健康を害します。私だけ先に寝るのも申し訳ないですし、何より下から物音がして寝づらいので。あと鍋に火をかけたまま買い物に行くのも危険です。今は私が居ますからまだ何とかなりますが、今までよく事故を起こしませんでしたね。それと調合中はきちんと換気もして下さい。それから主様はキノコがお嫌いなのでしょうか?キノコも買ってきて下さると料理のレパートリーが増やせるので。あともう少し食べないと、そんな細い体で、体力に劣るハーフエルフの私ですら心配になります」

 と、ここまでフィアルは若干早口でまくしたてた。それから小さくため息を吐くと、冷茶を一口飲んだ。

 エルトはしばらくポカンとして固まっていたが、やがてふっと吹き出して笑った。

「ふははは。なんだ、結構喋るじゃないか!そうか、悪かったね。今度から気を付けるよ」

 すると、フィアルもつられたのか少し表情がほころんだ。

「ふふ。まあこれですっきりしたので私は十分です。寝首は掻かないので安心して下さい。ハーフエルフは穏やかで争い事を嫌いますから」

 それから間もなくして二人は昼食を終えた。

 エルトは二人の間の距離感が、急に縮まったように感じた。元々は他人と関わることのわずらわしさから奴隷を選んだのに、どこか人間臭くてむずかゆい不思議な感覚を覚えた。しかし、悪い気はしなかった。


 三十分後、休憩を終えたエルトが店の外に出て「休憩中」と書かれた札を返そうとした時、外に一人の若い女性が立っているのに気付いた。

 女性はエルトの姿を見つけると向こうから話しかけてきた。

「あの、お店ってやっていますか?」

「ええ、今休憩が終ったところです」

 どうやら客のようだ。エルトは女性を店内に招き入れた。

「いらっしゃいませ。どのような御用でしょう?」

 すると、女性は少し興奮した様子でエルトに言った。

「惚れ薬を、作って下さい」

「惚れ薬ですか。分かりました」

 エルトは淡々として答えたが、「ただし」と付け加えた。

「惚れ薬の使用には制限があることは知っていますね?お売り出来る薬の効果は微弱なものになりますが」

 すると、女性はすぐに首を横に振った。

「それでは足りません。他の店に行っても相手の気を惹く程度の弱い薬ばかりで、それじゃ駄目なんです。確実に、深く惚れさせたいんです!」

 そう言って女性はエルトに迫った。女性の目には何か強い感情がうずまいて見えた。それは執着による焦りや精神の不安定さだとエルトは感じた。

 しかし、エルトはあくまで冷静に応えた。

「分かりました。それではご希望通りの効力のものをご提供します。ただし、ここで買ったことは絶対に他言しないで下さい。それから、規定以上の量の惚れ薬の使用にあたってこちらとしては責任を負いかねますが、それでもよろしいですか?」

「はい」

 女性は二つ返事で答えた。もう待ちきれないという様子だ。

「在庫がありますので、ただ今持って来ます。少々お待ち下さい」

 エルトはそう言って調合室に向かった。

 エルトは部屋の棚の下の引き戸を開け、中から一つの小さな箱を取り出した。中を開けると一つずつ紙で包装された錠剤が三つ入っていた。エルトはその箱から一つ薬を取り出して調合室を出ようとしたが、ドアの前にフィアルが立っていた。

 そして、フィアルが少し厳しい口調で言った。

「主様、それを売るべきではありません。そんなことをしてもあの女性のためにはなりません」

 フィアルは自らの立場を押してまで、強力な惚れ薬を売ることに反対した。

「そうかも知れないね。でもこれはあくまで商売なんだ」

 すると、フィアルの表情はますます険しくなった。

「お金のためですか?いくら個人経営とは言え私は……。いえ、すみません私が意見してよいことではありませんでしたね」

 フィアルははっと冷静になってエルトにわびた。奴隷である自分に主のやり方を意見するなどおこがましい真似をしたと反省した。

 しかし、エルトはフィアルを責めなかった。

「良いんだ。確かに君の言うことは間違ってはいない。でもね、僕はただ利益が欲しくてこんなグレーな商売をするんじゃない」

「どういう、ことですか?」

 フィアルは困惑して首をかしげた。

「僕はこれまで似たような用件を二度聞いてきた。一般に売られている以上の強い惚れ薬を売って欲しいと。一回目は大成功だったんだ。客は惚れさせた相手に何度もアプローチして、相手のことを思いやりながら接し、一週間ほど経って薬の効果が切れた時も、相手に認めてもらえてそのまま結ばれた。そのお客からお礼の手紙と上等な杖まで貰ったよ」

 フィアルは少し驚いた。

「そんな例もあるのですね。いや、本来そうあるべきなのですが、惚れ薬と聞いて私にはあまり良いイメージが無いので」

「うん。でも二回目の客はそうはいかなかった。薬の効果が切れた時、魔法薬で惚れさせられ、操られたことに怒り狂った相手に刃物で刺されて殺されてしまった。その時は結構大きなニュースになっていたね」

 フィアルはわずかに息を飲んだ。

 そして、エルトは少し咳払いして続けた。

「つまり何が言いたいかと言うと、結局は本人次第なんだ。そして、何かの力を頼って事を成し遂げれば、それ相応の対価、つまり報いが求められる。お礼の手紙によると、一人目の客は薬が切れるまでの一週間、どうやったら薬が切れた時に相手に受け入れてもらえるか、許してもらえるか散々悩んだらしい。それこそ死ぬほどね。そして方法はともかくして、結果的にうまくいった。二人目の客はきっとそれを怠って自分の欲求にしか従わなかったから、その報いを受けたのだと僕は思う。あの女性が惚れ薬を使ってどうなるか、それは僕には分からないし、それを左右させる権利も無い。僕はあくまで人と人の縁を結ぶ手助けとなる薬を作り、売るだけ。それが僕のポリシーなんだ」

 フィアルはエルトの話を聞いて、自らその言葉を何度も頭の中で繰り返して噛み砕いた。そして、ふと微笑んだ。そこにはもう懐疑と嫌悪の色はなかった。

「なるほど。主様らしいですね」

「えーと、それはどういう意味だい?」

 エルトは困惑して後ろ首を掻いた。

「お気になさらず」

 フィアルはそう言うと、エルトに会釈をしてさっと調合室を出ると、急に廊下から階段を駆け上がって行った。

 エルトは一体どうしたのかと思いつつ、取り敢えず納得してもらえたのだと判断して店内に戻って行った。

「お待たせしました。こちらが惚れ薬でございます。使用時にはこの錠剤を手に取り、惚れさせたい相手のこと念じながら水などの液体に溶かし、相手に飲ませて下さい」

 そう言ってエルトは惚れ薬をカウンターの上に置いた。

「ああ、ありがとうございます。やっと願いが叶います」

 女性はそう言って歓喜して頭を下げた。女性は一見きれいな人なのに、何が彼女にそこまでの執着を抱かせているのだろうとエルトは思ったが、それを詮索するだけ無駄なことだと割り切った。

「この薬は強烈な効果を発揮し、一時は相手に強い恋心を抱かせることが出来ますが、その効果は持って一週間です。その点に注意して下さい」

「はい。大丈夫です、必ず一週間の内に彼に心から愛してもらえるよう頑張りますから」

 そう言って女性はまさに天にも昇ると言わんばかりの恍惚とした表情で答えた。

 エルトはカウンターに置かれたレジ(この世界のレジスターは魔力によって動く魔導具の一つなので、金属製の長方形の箱のような形をしている。計算等は浮かび上がる光の文字盤で行う)

「それでは料金二万三千エーカになります」

 と、エルトは文字盤に打ち込んだ数字を指先でひっくり返して女性の方に提示した。

 女性は財布を取り出して支払いを済ませようとした。しかし、突然エルトの後ろの廊下からばたばたと誰かが階段を下りてくる音が聞こえて手を止めた。

 すると、廊下からフィアルが顔を出した。手にはペン(ここで言うペンとは先端からインクが出続ける魔法が施された羽ペンである)と何やら書かれた紙を持っていた。

「待って下さい。あとこれにサインをして下さい」

 そう言ってフィアルはカウンターの前に持っていた紙を置いた。

 その紙にはこう書かれていた。


誓約書

私は法定基準を上回る効力の魔法薬を購入、使用するにあたり、

・魔法薬によって引き起こされることに一切の責任を負う。

・魔法薬の入手経路を秘匿する。

・返品をしない。

上記のことを約束することを誓う。

夏の月 七日 名前:


 それを見て、女性は固まった。頬に汗がにじんでいるが、それほど怖気づいたようにも見えない。自分に突き付けられた責任を再認識させられて動揺しているようだ。

 エルトはフィアルの突然の行動に慌てた。

「ちょっと、何をやっているんだ?こんな客を圧迫するようなこと」

 フィアルは謝るかと思いきや、エルトの目を真っ直ぐ見つめて言った。

「確かにこういうことは自己責任で、私たちが干渉すべきではないと言うのは分かります。でも私は、それなら当人にその責任を正確に認識させるだけの責任が私たちにあると思います。それにこうした方が、私たちが安全だと思いませんか?口約束よりも記述に基づく誓約の方が因果の拘束力が強いですから」

 エルトはなるほどその通りだと思った。フィアルは本当に賢い少女だ。エルトはその柔軟性と機転に感服せざるを得なかった。

「仕方ないな」

 エルトはそう言うと改めて女性の方に向き直った。

「サイン、頂けますか」

 すると、女性はわずかにためらう素振りを見せたが、やがてペンを執った。

「分かりました。サインします」

 そして自分の名前を誓約書に記入すると、財布から一万エーカ札を三枚取り出した。

「はい、三万エーカお預かりします」

 エルトはレジに数字を入力してお釣りを渡そうとしたが、女性は惚れ薬をだけ受け取って店を出ようとした。

「お客様、お釣りを」

 エルトが声をかけると、女性はエルトたちに向き直った。その表情はある種得意げな色が浮かんでいた。

「お釣りは要りません。それが私の覚悟です。受け取って下さい」

 女性はそう言って店を出て行ってしまった。

「彼女、大丈夫でしょうか?」

 フィアルがエルトに話しかけた。

「さあね。僕たちの仕事はここまでだ。後は彼女がどういう結果をもたらそうと関係ない。……でも」

 そう言ってエルトはカウンターに置かれた誓約書を手に取った。

「少なくとも相手の恨みを買って殺されるような結末にはならないんじゃないかな」

 それを聞いて、フィアルは安心した。

「すみません、また勝手な真似をして」

 フィアルが謝ると、エルトは小さくため息を吐いた後、右手を彼女の頭の上にぽんと置いた。

「本当に、君には驚かされてばかりだ。でも、君みたいに前向きで素直な子が店に来てくれて良かったと思っている」

 するとフィアルは少し頬を染めて微笑んだ。

「それなら良かったです」

「君の方こそ、僕にうんざりしやしないか?」

「どういうことですか?」

 フィアルはきょとんとして尋ねた。エルトは手を離すとばつの悪そうに目を逸らした。

「僕のようなニヒルで世俗嫌いな男に買われて、窮屈だったりするだろう。だらしなくて迷惑をかけることも多いと思う」

 エルトがそう言うと、今度はフィアルが彼のほおを両手で挟み、顔を自分の方にぐいっと向けさせた。

「な、何だ?」

「私は、主様に買われたことを嘆いたりしませんよ。確かに故郷の村を追われて奴隷の身となったことは辛いです。今でも元の生活に戻りたいという思いは確かにあります。しかし、主様が私を一人のハーフエルフとして扱ってくれること、私を責めたりせずに話をちゃんと聞いてくれることがすごく嬉しいんです。だから、これからはあなたの僕として全力で尽くさせてもらいたい。そう思います」

 フィアルがそう言うと、エルトは少し眩しそうに目を細めた。

「君は強いな」

「ただ合理的な考えが得意なだけです。主様も強くてとてもお優しい方です。ただ、他人より繊細で、物事を深く考えすぎてしまうから距離を取りたがるのだと思います」

 そして、フィアルは優しく微笑んだ。全てを包み込むような温かい笑みだった。

「私なら大丈夫ですから、いくらでも頼りにして下さい。食べ物と住む場所、そして自由を与えて下さるお礼です」

 そう言うとフィアルは二階の掃除に戻ると言って店の奥に消えていった。

 エルトはしばらくその場に突っ立っていると、やがて近くの椅子にへたりと座った。そして、どこか自嘲気味に「はは」と笑った。

「思いがけず、優秀な奴隷を雇ったものだな」

 そう言って天井を仰ぐ。

 エルトは今まで自分が何のために魔法を勉強して、何を心に秘めて独りの道を突き進んで来たのか、時々分からなくなることがあった。でも、これからはフィアルの無垢な優しさに報いるために生きたいと、この時初めて思ったのだった。

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