『手紙』

露月 ノボル

第1話 前編

   少女が見つかったのは共用の浴槽の中だった。溜まったまだ温かいお湯の中、手首から溢れる赤い糸をどんどん太くなっていく。「ドクトル!フィアンナが手首を切って!早く来てください!」発見者である中年の婦人は叫び、病棟の廊下を駆ける音がし、ドクトルが「早く腕を縛って止血し処置室へ!輸血の準備!急げ!」という言葉で、ナース達は急いで浴槽から少女を持ち上げ、タオルをかけて処置室へ運んで行った。


   発見者の婦人は不安と苦悩を浮かべ、病室への廊下を歩いて行った。その4階の窓からはランズベルガー通りが見え、車が行き交い、人々がある者は談笑しながら、ある者はせかせかと歩き、どちらにせよ人生を享受している。もう少し反対側まで歩いていけば、クライナー池やグローセル池があるフォルクスパーク・フリードリッヒスパインが見える、療養するにはここは格好の病院であった。


整形外科病棟の脇の階段を登り、5階へと出て婦人は部屋に戻る。4つの病床が並んでいる部屋には、壮年のちょうど働き盛りの恰幅の良い男性がと初老のインテリ風の紳士がいて、「おや、同志マリア、早かったね」と驚いた表情をしていた。


 婦人は首を振ると、「フィアンナが…また、死のうとしたわ」とため息とともに、「私もお風呂に入ろうとしてね、見つけたのよ」と答え、3人は沈黙した。


   沈黙を破ったのは初老の男性だった。「…遺書はあったのかね?」と尋ねるのに対し、婦人は「あったわ。ただ…また『容疑』をかけられて、また尋問なんか受けたら大変だから、私がこっそり持ってきたわ。弟さん宛てのをね」そう答える。


  恰幅の良い男性が「これでもう…6回目、か。どちらにせよ助かって良かった。…身寄りがない、弟しか家族が居ない身としては、弟さんが全てなのだろう」と呟きつつも、ため息をつくように尋ねた。


「しかし、同志カーツウェル。このままではいずれ本当に成功…という言葉は嫌だな、完遂してしまうかもしれません。フィアンナの弟さんについて何か聴いた事はないのかですか?」


  そう問われたカーツウェルは肩をすくめて自嘲気味に言った。「お飾りのベルリン市議会議員ごときが、シュタージの情報など得られんよ。手を尽くしているが残念だ…同志ミヒャエル」と答え、ミヒャエルとマリアは目を曇らせてやるせない気持ちを軽いため息とともに吐いた。


「彼…フィアンナの弟が『壁』を超えられる可能性はどれくらいだろう」そう、ミヒャエルが何気なく呟くと、同志、と声を小さくしてカーツウェルは制し、「やめたまえ、下手な人物に聴かれたらえらい事になるぞ」とそう答えた。


  ランズベルガー通りを道に沿って行けば、ランズベルグ区に悪名高いシュタージの本部がある。少し前のブレジネフ時代よりマシにせよ、当たり前だが気が抜ける訳ではない。


「可能性は分が悪いだろうな。『西側』の『脱走』団体が支援していれば、トンネルでも掘って安全だろうが。監視兵をかいくぐって行けるものかどうか…」そうカーツウェルは小声で囁いた。


 マリアはまたもやため息をつくと、思い出したようにミヒャエルに聴いた。


「そういえば、貴方の退院はどれくらい先になるってドクトルから言われたの?」肩をすくめてミヒャエルは答えた。


 「甲状腺がんの治療がいつまで続くか分からない。安全が確認されるまで雑誌記者への復帰はないよ。マリアこそどうなんだ?」


マリアは先程とは違う意味のため息をついた。「乳がんは摘出したけど…転移が、ね。同じく安全が確認できるまで、よ。タイピストの仕事に戻れるかどうか…」二人の話を見ていたカーツウェルは同じく違う意味でため息をついて言った。


「まあ、治らない訳ではないのが救いじゃないかね。私は癌の転移はもうあちこちに確認がされている。そういう意味では、フィアンナと同じさ。


 フィアンナは脳腫瘍だったか、悪性度が極めて高く手術がしようがない『神経膠芽腫』と言ったな、不治の病で余命が長く見積もってで3ヶ月持つか持たないか。弟の無事も確認できないのは可哀想だな…」といった。


  マリアは「『西側』にフィアンナが『脱出』できれば、『西側』の医学なら治せるかも、弟さんも探せて一石二鳥なのに…」と窓の外に目をやりながら呟いて、必死にカーツウェルが手をクロスさせて制止の合図していたのに気づき、慌てて口を閉じた。


「弟さんが職場の工場に来ず、フィアンナ宛ての脱出をするという置き手紙を押収され、フィアンナもスパイ容疑で監視されているのだ。滅多な事を言うものじゃない」と小声で話し、「本来は個室が与えられるだろうに、気の毒だ」と目を伏せた。


 「……………ねえ、同志、西ベルリンを知ってる?」とマリアが小声で言いカーツウェルが小声でも危ないと制そうとしたが、さらに「知ってるの?」と再度問われた。


 「…まあ、東ベルリン市議として、『西側』との交流の場には行った事がある」それを聴き再度マリアは問うた。「西ベルリンの地理とか…雰囲気は分かる?」


 カーツウェルは何故聴くのだろうと思いつつも答えた。「私も一応は社会主義統一党の党員でお飾りとはいえ市議という公職でもある。あまり資本主義世界の事を聴かれると、同じ病室の仲間を密告はしないが、何というか…居心地が悪いというか、困る。まあ…多少は知っているさ、地図も持っているよ」とマリアは聴くと名案を思いついたような、それでいながら真剣な目をして言った。


「…私達で救いましょう。フィアンナが二重の意味で絶望して余命を使い果たし死んでいくのを見たくないわ」


  そう密やかに語りかけるマリアに対して、2人は「どうやって?」と声と被る声を出し、少し気恥ずかしく思いながらマリアに話を促した。


「…ミヒャエルは雑誌記者、そして同志カーツウェルは西ベルリンを知っている。そして私はタイピストでフィアンナの遺書を持っている。書こうと思えば、届けようと思えばできるはずよ、『彼』、弟からの手紙を」


 沈黙がその場を支配した。正確には病室の外の騒がしさがあったが、2人、カーツウェルとミヒャエルは時間としては5分くらいだったが押し黙り、ミヒャエルが言った。


「…そうは言うけど、ウソの手紙を書いて本当に彼女は救われるのだろうか」それに対しマリアは答えた。「彼女の余命…3ヶ月、それも最長でで、もっと短い可能性が高い。その間に弟さんの行方が分かると思う?自殺未遂を何度もしているのは、不治の病の絶望に加えて、弟さんが居ないからよ。弟さんの『無事』が確認できれば、死のうとしないで済むかもしれない」そう熱く2人に語りかける。


  それに対しカーツウェルが言った。「賛成、反対ともまだ考えが固まってないが…西ベルリンに居る事にして、どうやってここに郵送されて来るかが問題だ。その点からして怪しむだろう」


 そうもっともな事を尋ねるカーツウェルに対し、「そこで同志の出番よ」とマリアはカーツウェルにすがる目で言った。「同志、貴方から、貴方のツテでなんとかできない?お願いよ」


   そう懇願するマリアにため息をついて、カーツウェルは難しい顔をして言った。「…一つ案がある。私の甥に頼んで『捜査官』にでっち上げる。シュタージと名乗らずとも、『捜査官』といえば問題ない。それで『尋問のための捜査資料』として手紙を見せれば良い」そう言うとマリアは食いついた。


「同志の案は名案だわ。それで協力してくれる?」と畳み掛けると、カーツウェルは首をすくめて言った。「…まあ。私も余命が短いという意味では、フィアンナと同じ立場だ。もし妻と娘が見舞いに来てくれない、身寄りがないなら、自殺していたかもしれないな。やろう。」と答え、マリアは「ありがとう、同志!」と狂喜した。「…そう言われたらな。やろう。」と答え、3人の『手紙』は始まった。


  病院の使われていない会議室。そこを『アジト』にする事にした。マリアは息子に頼みタイプライターを持ち込みタイピングを、ミヒャエルはマリアの遺書を参考に弟の情報を念頭に原稿を、カーツウェルは西ベルリンの知識を提供しに書斎から地図と「西側」の切手を持ってこさせた。甥に頼み『捜査員』を演じる役割を頼み、「弟」の『手紙』ができた。 


--------------------------


「姉さんへ

   3月の西ベルリンへはまだ寒さが増しています。僕が脱出する前、病院にかかっていましたが、大丈夫でしょうか?手紙が遅くなって申し訳ありません。シュタージの目逃れて脱出するのに、脱出用のトンネルが完成するまで今まで時間がかかってしまったのです。


西ベルリンのプレンツラウアーベルクは賑やかでとてもすごいです、人々は公然と東側では言えなかった体制批判からジャズやビートルズなどの話をしているのを耳にし、自由の国に来たんだと感じます。


 東では禁止されている、ビートルズのレコードを聴くのが最近の楽しみです。賑やかなクアフュルステンダム通りを昔のように姉さんと一緒に歩けたらと想像します。姉さんとまた会えて今度は一緒にトンネルをくぐり一緒に暮らせますように。


親愛なる姉へ フランツ・ハルトマン」


-----------------------------


 打ち合わせ通り、カーツウェルの甥、クラウスが『シュタージ』風の、黒いスーツに黒い山高帽を身にまとった『捜査官』として、フィアンナの元へと来た。マリア、ミヒャエル、カーツウェルは『捜査のため』と病室から出ていき、『捜査官』は「私は君担当の捜査官だ、聞きたい事がある」と言い、『手紙』を渡し聴いた。


「この手紙を見たことがあるかね?君宛てに送られタイプライターで書かれた押収した手紙だ」そう渡された『手紙』をると、フィアンナは衝撃を受けたように硬直し、震えながら涙を流し「良かった…良かった…」と呟いていた。『捜査官』は手紙を渡し、「少しドクトルに話を聴いてくる」と言って病室を出て、アジトの会議室に隠れ、1時間くらいした後、病室へと戻った。


  そしてもっともらしく「それは証拠品なので、渡せない。返してもらおう」と言い、震えながらまだ嗚咽を流し、「フランツ…フランツ…」と返事をしないフィアンナに、時間を与え、もう一度「証拠品なので返してもらおう」と言い、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、フィアンナは手紙を『捜査官』に返した。


 それで定型的な『尋問』…弟が『脱走』する前日の事や、『脱走』支援団体とフィアンナの繋がりはないかを聴いたりしながらメモを適当に取り、「今日の所は帰らせてもらう」と病室を出てアジトに帰った。


「お爺ちゃん、あんな感じで良かったの?緊張しちゃったよ…」とクラウスはおずおずと言い「バレたら僕達大変な事にならないの?」と不安げに言った。カーツウェルは笑いながら言った。「何、一言も『シュタージ』とは言ってない。大丈夫だろう。…まるで党を裏切っているようだな」と自嘲気味に笑い「勿体無いがこの手紙は細かくきざんでトイレに流そう」と手紙を破いた。


  クラウスに、マリアとミヒャエルはありがとうと強い感謝の言葉を述べ立てた。そして、フィアンナはどうだった?と尋ねるのに対し、とても泣いていたと答えると、3人は成功した事を確信した。クラウスを帰らせ、3人は病室へと戻った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る