第44話 旅立ち8

「……ィナ」

 遠くで、呼ぶ声がする。

 眠さを堪えながら、リィナは、何とか意識を集中させる。もう少し眠っていたかったが、どうしてもその声を無視してはいけないような気がした。

「リィナ!!」

 叫ぶようなその声に、リィナは覚醒しかけていた意識が急激に冴え、跳ね起きるようにして目を覚ます。

「ヴォルフ様!!」

 目の前の男の顔にリィナは悲鳴を上げた。

 ヴォルフの表情はひどく心配そうにリィナを見つめてきている。

 え、とリィナはわずかにひるみ、現状がよく分からないまま辺りを見渡した。

「……ここ……?」

 知らない場所だった。あたりは、うっそうとした森の中で、少し離れた先に河原が見える。川の流れる音と、風が枝をゆらしながら吹き抜けて行く音。周りを呆然と状況を把握しきれないまま見渡せば、そんなリィナをのぞき込むようにして、ヴォルフが心配そうに見つめてくる。

「大丈夫か? 痛むところはないか?」

 その表情と声は、確かにヴォルフの物で、リィナはその存在を確かめようと手を伸ばした。

 死んでしまう、と、思った。落ちた瞬間、彼が宙を舞ったその時のことが脳裏で鮮やかに思い出され、恐怖にぶるりと震える。

 ヴォルフが死んでしまうと思ったのだ。

 彼のほほに触れると、ざらざらとした無精ひげの感触がした。その事にほっとして、けれど、そのほほは冷たくて、そして、自分の手も冷え切っていることに気づく。

「ヴォルフ様、生きてる……」

 リィナは確認するように、自分に言い聞かせるようにつぶやいた。

 こみ上げてきたのは、安堵の涙だった。

「良かった……。ヴォルフ様、生きてる……」

 うれしくて、けれど脳裏にこびりついて離れない恐怖とその映像が今はまだ鮮明すぎた。確かに彼がここにいるのだと感じられる、その指先の感触がとても大切な物に思えた。

 こぼれる涙をぬぐいもせずに、その頬の感触を確かめるように、何度も何度も指を滑らせた。

「無茶、しないでください」

 のどが締め付けられるように痛くて、震えながらつぶやいた。

 とたんに、ヴォルフに触れたその手がぎゅぅっと痛いほどに握られる。ヴォルフの大きな手が、包み込むようにリィナの手をとらえていた。

「それは、君だ」

 聞いたことがないような、低い声だった。初めて見るヴォルフの怒ったような真剣な顔に、リィナの体が無意識にこわばる。ほほに触れている指先がかすかに震えた。

「何度名前を呼んでも目を覚まさない君に、俺がどんなに心配したと思っているんだ」

 厳しい視線にリィナは耐えあぐねて思わず目をそらせると、彼に心配をかけたのは自分だったのだとうなだれる。

 握りしめられた手が少し痛んだが、それがより、ヴォルフに心配かけさせた事実を表しているようで、胸が痛んだ。

 反面、彼がそれだけ心配してくれていたことがうれしく、不思議と安堵するような気持ちもある。

 叱られながら、ほっとする。ヴォルフが生きているということが、握られた手の痛みから、じわりじわりとこみ上げてくるようだった。

 そっと顔を上げてヴォルフを窺い見ると、厳しい青灰色の瞳と出会う。思わず首をすくめたリィナに、ヴォルフは小さく息を吐いて、握る手の力を抜いた。

 柔らかく包み込むように、リィナの手を握りなおし、スリスリと親指の腹で、リィナの手の甲がさすられる。もう片方の手が、リィナの頬にゆっくりと触れ、存在を確かめるように、優しく撫でられた。

 見つめてくる瞳はとても真剣だったが、触れてくる指の感触はとても優しくて、冷たくて少し堅い指先の感触が、リィナをわずかに震えさせた。

 その様子を見ながら、ヴォルフがもう一度溜息をつき、そしていくぶん表情と声を和らげた。

「何度も言ったはずだ。姫巫女を守るのが剣士の役目だと。剣士が姫巫女に守られるだなんて、冗談じゃない」

 そう言ってわずかに口端を上げて笑ったヴォルフの表情は、どこか苦しそうで、リィナはどれだけ彼に心配をかけたのかを思い知る。

「ごめんなさい」

 いたたまれなくて目を伏せると、ヴォルフに触れていたリィナの指先が、ヴォルフの手に包み込まれるようにして頬から離される。

 大きく、優しい手だった。無骨で、皮の厚い骨張った手は、強さや厳しさを感じさせる、そんな手でもあった。なのに、今まで幾度となく触れてきたその手は、あのときから変わらず、いつも優しい。

「俺をもう少し頼ってくれ。心配ばかりするのは、性に合わないんだ」

 いくぶん軽い口調とはいえ、やはりどこか苦しげで、リィナははっとして顔を上げる。

 リィナの手を握りしめて真剣な顔をしたヴォルフは、けれど目が合うなり、にやりと笑う。

 そこにいるのはリィナがよく知っているいつもの自信にあふれたヴォルフのようだった。先ほどまでの苦しさも全てなかったかのようにふてぶてしい顔で、からかうように、リィナの頬に触れた指先が彼女をつついた。

「頼むから、今度からは俺に守らせてくれよ。……俺の姫巫女」

 からかうように響くその声は、いつだって、リィナに気を遣わせないためだった。

 きっと、今も。

 リィナはヴォルフの笑顔を見ながら、その優しさを思う。

 だから、私は、苦しくてもうなずく。うなずかなきゃいけない。

「……はいっ」

 リィナは顔に笑顔をのせてヴォルフを見つめた。ごめんなさいという、その言葉を飲み込んで。



「それにしても、なんで生きてるの……?」

 落ち着いたリィナは、辺りを見渡すと、改めて現状を顧みた。

 びしょ濡れの服に包まれた体は、しめったヴォルフのマントにくるまれている。

「下が、川だったんだ」

 そう答えたヴォルフの声は、少し固かった。困ったような顔をした彼に、リィナは戸惑いながら河原の向こうの川を見、そして対岸に目をやろうとして、川の上に、橋が架かっているのが見える。何ともいえない違和を覚えつつ、じっと川の流れを見つめる。決して見過ごすような川ではない。

「あの、川なんてなかった、ですよね……」

「ああ、なかった。だが、今はある」

 ヴォルフが静かに息を吐いた。躊躇いながら、リィナはヴォルフに答えを求めるように見つめ、そして、まっすぐに見つめ返してくる彼の視線に、リィナは答えをさがす。

「……それって……」

 どういう事なのか、まだあまりしっかりと動いていない頭で思いを巡らせていると、ヴォルフが思い返すように話し始めた。

「あのとき、ちびちゃんを捕まえた瞬間、ちびちゃんが光ったように見えた。さすがに正確には覚えてないんだが、そんな気がする。その後、奇妙な感覚がした」

 あの時、というのは、崖を落ちた瞬間のことだろう。ヴォルフまで死んでしまうと絶望したあの瞬間を思い返すとリィナの胸が軋むように痛む。

 痛む胸を押さえながら、リィナは、はっと胸元のペンダントを思い出す。

 母親がくれた守石で作られたペンダント。リィナはそれを震える手で触れながら、ドクドクと激しい音を立て始めた、自分の鼓動を聞く。

 あの時、自分は言葉にならずとも願わなかったか。時が戻ればいいと。ヴォルフが何の罪も背負ってない時に戻ればいいと。

 言葉にならない思いが形になったあの瞬間、真っ白になったあの視界は、胸元からの光によるものではなかったか。

 力が発揮されるとその力の度合いによって輝くと言われているその石。

 リィナは守石を見つめながらあの時のことを思い出し、そしてそれを視界から隠すようにぎゅっと握りしめる。

 あの瞬間、リィナの中で、何かがはじけたような気がした、その時の感覚を思い出して、リィナは体が震えるのを止められなかった。

 もしかして、あれは。

「……時渡り……?」

 リィナが呆然とつぶやくと、ヴォルフが重くうなずいた。



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