第23話 三百年祭6
「この後、神殿の祭事が終わりましたら、リィナ様のお披露目を行います」
エンカルトの言葉を聞きながらもリィナは彼に目を向けることなく、じっと佇んで遠く一点を見据えていた。
エンカルトの言葉に反応しない、それだけがリィナの出来るただ一つの反抗の意志だった。
今ここにいるのは自分の意志ではないのだと、ささやかに示されるリィナの反抗は、しかしエンカルトによって簡単に黙殺される。
ささやかな反抗も無反応な姿も、エンカルトにとっては何の問題でもない、むしろその様子を楽しんでるようですらある。リィナがそこにいて、ただ従えば満足なのだ。そこに彼女の感情が伴う必要はない。
エンカルトが楽しげにリィナを見つめている。
「今までしてきたように、最高の笑顔で神殿に上がっていただきます。……グレンタール中から祝福されて」
リィナは奥歯を噛み締めた。わざと感情を逆撫でようとしているのが分かった。
反応なんて、しない。
リィナは無表情を貫く。憎しみの視線さえこの男に向けるのは不快で、遠くをただ見つめながら怒りに叫びそうになる心を殺した。
リィナの視界の端に、紫色のヴェールが映っていた。紫泉染のそれをぼんやりと眺めながら、視線を足下へと落とす。自分が着ている姫巫女の衣装が見えた。
重い、重い、姫巫女の衣装。
エンカルトと過ごす重い時間が、じわりじわりと過ぎていく。夜も更けてきて、辺りは薄暗く、灯る松明の光が柔らかく辺りを照らしている。
間もなく行われるお披露目の準備で、エンカルトがリィナの元を離れた。
その存在が側にないことにほっとするリィナの前に、ふと、大柄な人の影が差す。
リィナは目の端で誰かが来たのを感じながら、エンカルトだろうと、視線を向けることなく、遠く一点を見つめたまま動かずにいた。
「リィナ」
その影が彼女の名を呼んだ。それは、もう聞くことはないだろうと思っていた人の声だった。
たった今、別れを告げた人。
まさかと思いながらゆっくりと目を向けると、リィナが慕う、その人がいた。
「姫巫女になりたいか」
唐突にかけられる言葉に、目を見開く。ヴォルフはすぐ近くにいて、まっすぐにリィナを見つめていた。
駆け寄るのなら、ほんの数歩。けれど、その距離が遠い。
行ったらダメだ。心が折れてしまう。
「君が望むのなら、俺が助ける」
来い、とその人は手を伸ばしてきた。
夢ではないかと思った。まるで、リィナが望んだ幻のように、望むままの言葉を向けてくれている。
リィナの顔が今にも泣き出しそうにゆがんだ。
それは、うれしくて、幸せで、夢のような感動。
「……ヴォルフ様……」
涙に震える声がヴォルフを呼んだ。しかし、彼女はただ首を横に振る。己を諫めるように、何度も、何度も。
「いけ、ません……」
リィナは血を吐くような思いで、その一言を絞り出した。
今まで何度ヴォルフは苦しむリィナにこうして手をさしのべてくれただろう。そのたびに心が救われたように思えた。けれど、それを断る度に、その手を取れない苦しさと戦ってきた。心が切り刻まれるようだった。なにも考えずにすがることが出来たのなら、どれだけ幸せだっただろう。
けれど無知を理由に、それに甘えることなど出来るはずがないのだ。その手を取るということは、そのままヴォルフの立場を悪くすることへと繋がる。
「なぜだ」
苦しさに身をすくめるリィナに、ヴォルフが優しく問いかけてきた。ヴォルフの優しさを無下にする事へのいらだちもなく、責めるわけでもなく、ただ静かにリィナの気持ちを探るような問いかけ。
なのにリィナは、ただその手を取れない事実だけしか返すことが出来なかった。
「無理なんです……」
「なりたくないんだろう? 全部コンラート殿から聞いた。大丈夫だ。俺が何とかするさ」
ヴォルフがリィナに笑いかけてきた。いつもの軽口を装い、まるで彼女の気持ちを和らげるような口調で。
「ちびちゃん一人ぐらい俺が守ってやる。君は俺の姫巫女だろう? なあ、おちびちゃん?」
幸せを形にするのなら、きっと、今、目の前にいるヴォルフが、それだ。
リィナの胸が幸せで痛いほどに苦しくなり、のどが、まぶたが、こみ上げてくる涙に、熱さを訴える。
泣いてその腕にすがりつきたい。行きたくない、助けて、と訴えたい。助けてくれるというその言葉を信じたい。ヴォルフなら、きっと大丈夫と信じたい。
けれどそうした時、彼が背負う物は、何なのか。
感情のままにヴォルフにすがりついて、ヴォルフが背負う物は何なのか。
コンラートがどれだけのことを話したのか、リィナには見当も付かない。けれど、今の状況をヴォルフはおそらく理解している。ならば、どれだけの覚悟を持って、リィナを助けると言っているのか。
決して、軽々しく言える内容ではないことぐらいリィナには分かる。リィナ以上に、ヴォルフは分かっているはずなのだ。それだけ思ってくれている人を、どうして神殿との対立などと言う、途方もない状況に巻き込めるだろう。
泣いちゃダメ。ヴォルフ様に心配をかける。
のどにこみ上げてきている固まりを何とか飲み込み、あふれそうになる涙を、必死でこらえる。
笑わなきゃ。ヴォルフ様に心配をかけさせないように、笑わなきゃ。
吸い込んだ息が、震えるように歪に揺れながら、胸へと届く。
そして、リィナは、ゆっくりと笑顔を作ろうとした。
そしてリィナの顔はくしゃりと泣きそうにゆがんで、けれどそれは痛々しい笑顔を形取った。それがリィナの限界だった。もう、何でもないフリをして笑う事ができなかった。
「……ヴォルフ様に、そう言っていただけただけで……もう、十分です」
何とか絞り出した声が震えた。
声に出してしまうとこらえきれず、涙があふれた。
無理だった。これ以上、ヴォルフの前で偽ることが出来なくなっていた。
唯一人、ずっとリィナの本心を見抜き、心配してくれていた存在だった。苦しい時に、必ず手をさしのべて、リィナを待ってくれていた人だった。
無理をするのも、極限に来ていた。
「ご、ごめんな、さ……」
涙を流しながら首を振るリィナに、ヴォルフは一歩を踏み出し、彼女の目の前に手を差し出した。
ほんの一歩リィナが足を踏み出せば、その手を取れる。
「心配するな、君の大切な物は全部、俺が守る。……リィナ、来い……!!」
その声の強さに、リィナは震えた。
リィナは目の前に差し出された手をすぐにでも取りたい衝動に駆られた。
目の前には自分をまっすぐに見つめるヴォルフの瞳があった。
まるで、本物の姫巫女の剣士様みたい。
リィナの胸が震える。
唯一人姫巫女に仕え、ただ全身全霊を持って姫巫女を守る剣士。あこがれの夢見た剣士が、ヴォルフとなって、リィナの前に存在しているようだった。
うれしさと、苦しさの狭間で、リィナはぼんやりと考える。
「……あり、が、と……ございま、す……」
差し出されたその手が愛おしくて、幸せで、更に涙があふれた。
なぜ彼がここまでしてくれるのかリィナには分からなかったが、生半可な覚悟で言っていないだろう。
だからこそ――、その手を取るわけには行かなかった。
「……さようなら、ヴォルフ様」
リィナは自分の手を膝の上で強く握りしめ、差し出された手を取りそうになるのをこらえる。
リィナの胸が、引き裂かれるように痛みを訴えた。
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